1_出会い
──ここは……どこ……?
意識がゆっくりと浮かび上がってくる。まぶたを開いたはずなのに視界はほとんど変わらず、あたりは薄暗い。完全な闇ではないが、どこかから差し込むわずかな光だけが、ぼんやりと輪郭を形作っていた。
身体が動かないわけではない。けれど妙に窮屈で、まるで箱の中に押し込められているような感覚がある。息を吸うと、湿った木の匂いが鼻をくすぐった。土の気配と若葉の青い香り、それに澄んだ水の匂いがわずかに混じっている。
──戦場じゃない。
それだけは、はっきりと分かった。さっきまでいた場所は、血と煙と鉄の臭いに満ちていたはずだ。剣を握り、魔物の牙を受け止め、叫び声が飛び交うあの場所とはまるで違う。ここには、そうした気配が一切ない。
静かすぎるほどに静かで、かえって落ち着かない。
身体を動かそうとして、ふと奇妙な違和感に気づいた。手足が短い。重心が低い。そして背中のあたりで、ふわりと何かが揺れている。
……なんだこれは?
違和感に眉を寄せた、そのときだった。
「痛い……痛い……くそ」
低く押し殺した声が聞こえた。人の声だ。
思わず身体が強張る。声は遠くないが、すぐ近くでもない。壁の向こう、あるいは何かの奥から響いてくるような、妙な反響を伴っている。
周囲を見回そうとして、さらに混乱が深まった。自分は今、どこかの内側にいる。滑らかな壁が四方を囲んでおり、触れた感触は石ではなく、わずかに温かく柔らかい。
木だ。
巨大な木の内側。空洞になった幹の奥に、身体がすっぽりと収まっている。
だが、どうしてそんな場所にいるのか。
「……くそ……!」
再び声が響く。痛みをこらえるような荒い息遣い。
「耐えるんだ……大丈夫……大丈夫……」
思わず身を乗り出しかけて、はたと止まる。その瞬間、自分の身体が視界に入った。
小さい。毛に覆われた身体。四本の脚と丸い前足、しなやかに揺れる尾。
それは明らかに、人の身体ではなかった。
しばし呆然と見つめるうちに、遅れて記憶が浮かび上がる。白い光。静かな声。尊き魂。神獣。
(──そうだ……私は死んだんだ)
戦場で。そして、神獣になるのだと告げられた。
だから、この姿。小さな獣の身体。
胸の奥が静かに波打つ。驚きはあるが、不思議と恐怖はなかった。それよりも、別の違和感があった。
自分の名前が出てこない。
確かに覚えている。貴族の娘だったことも、剣を握って戦場に立っていたことも、公爵家の長女であることも。
すべて覚えているのに。
肝心の名前だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
それだけではない。妹の顔も、両親の声も思い出せるのに、名前だけがない。愛しい妹の名も、父の名も、母の名も。そして婚約者の彼の名も、どれも思い出せなかった。
記憶を持てと、確かに言われたはずなのに。
なぜ、名前だけが。
胸の奥にわずかな不安が芽生える。だがそれを深く考える前に、再び呻き声が響いた。
「……っ、うう……!」
先ほどよりも苦しそうだ。思わず耳がぴくりと動く。
(……大丈夫ではなさそうだけど)
躊躇いながらも、ゆっくりと立ち上がる。足音はほとんどしない。小さな身体は驚くほど軽かった。幹の内側をそろそろと進み、外の様子を窺う。
そして、顔を少しだけ外へ出した。
そこに広がっていたのは、薄暗い神殿のような空間だった。高い天井を支える白い石柱。長い年月を経た石壁には古い紋様が刻まれ、中央の天窓から差し込む淡い光が空間を照らしている。
その光の中心に立つのは、一本の巨大な木。自分が今いる、この場所だ。
幹は太く、天井に届くほど高く伸びている。根は大理石の床に絡みつき、まるで神殿そのものと一体化しているかのようだった。空気は静まり返り、ひどく神聖な気配に満ちている。
人の姿は見えない。
だが。
「絶対に……乗り切ってみせる!」
すぐ近くから、先ほどの声が再び響いた。
その直後だった。ぎぃ、と重たい音が神殿に響く。扉が開き、硬い靴底が石床を踏む足音がいくつも重なった。静寂だった空気が、一気にざわめく。
鎧の擦れる音を響かせながら次々と入り込み、やがて一人の人物を見つけて足を止める。
「……いたぞ!」
数人の兵士が駆け寄り、床に膝をつく人物を取り囲んだ。その人物は肩で息をしており、苦しそうに身体を丸めている。先ほどの声の主だ。
「彼女が……神獣様か!?」
「おお……!」
驚きと興奮が入り混じった声が上がる。
兵士たちは畏れを含んだ視線をその人物へ向けていた。灯りに照らされたその姿は、確かにどこか神秘的な雰囲気をまとっている。
──神獣様。
そう呼ばれているのは、あの人物だ。
胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
だが兵士たちは疑いもしていない。歓声にも似た声が広がっていく。
やがてざわめきがぴたりと止まった。兵士たちが左右へ下がり、道を開ける。
神殿の入口から、ゆっくりと足音が近づいてきた。
現れたのは、一人の男だった。
豪奢な衣装をまとい、宝石の輝きをまとったその姿は、この場で最も身分の高い人物であることを一目で示している。男は満足げな笑みを浮かべながら歩み寄り、やがて巨木の前で足を止めた。
「お前が神獣だな」
その声を聞いた瞬間、膝をついていた人物が顔を上げる。そして次の瞬間には、男のもとへと駆け寄っていた。
「……貴方です。我が主人よ! やっとお会いできた!」
突然の出来事に、神殿の空気が一瞬だけ凍りつく。だがそれもほんのわずかな間で、すぐにざわめきが爆発した。
「やはり……!」
「やはりそうか!」
「神獣様がレグナス王子殿下を選ばれた!」
驚きと歓喜が入り混じった声が一斉に上がり、神殿の高い天井に反響する。巨木の幹の奥からその様子を見ながは、思わず目を見開いた。
そこでようやく、その人物の姿がはっきりと見える。
男に抱きついているのは、一人の女性だった。
長い髪は深いエメラルドのような色をしており、光を受けるたびに緑とも青ともつかない不思議な輝きを放っている。瞳も同じ色で、人のものとは思えないほど澄んでいた。顔立ちは驚くほど整っており、まるで神話に登場する精霊のような美しさを持っている。
だが――その肌には、明らかな異質さが混じっていた。
首筋や腕に、薄く光る鱗のようなものが浮かび上がっている。人の肌とは異なる質感が、淡く光を弾いていた。
「見ろ……あの鱗!」
「なんと神秘的な……!」
「我が国の神獣は……まさか竜なのではないか⁉︎」
興奮した兵士たちの声が重なり、ざわめきはさらに大きくなる。
「竜の神獣とは!」
「なんという幸運……!」
「我が王国は安泰だ!」
歓声が渦のように広がっていく。
抱きしめられている男――レグナスは、その様子を満足げに眺めていた。疑いも遠慮もない、当然だと言わんばかりの表情で、ゆっくりと口元を歪める。
年はまだ若く、青年と呼べる頃だろう。金糸で刺繍された豪奢な衣装に身を包み、胸元には王家の紋章が輝いている。腰の剣には宝石が散りばめられ、金の髪と碧い瞳を持つその姿は、確かに美しい。
だがその笑みには、どこか人を見下すような傲慢さが滲んでいた。
レグナスは女性の肩に腕を回し、ゆっくりと周囲を見渡す。
「いいか」
低く、よく通る声が神殿に響く。
「これで分かっただろう」
その口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「次の王位継承者は、この私だということに」
一瞬の静寂のあと――歓声が爆発した。
「おおおお!」
「レグナス第二王子殿下万歳!」
「神獣様が選ばれたのだ!」
「王国は安泰だ!」
拍手と歓声が神殿を満たす中、レグナスは高らかに笑う。
「はははは!」
その笑いは、勝利を疑わない者のものだった。
女性――神獣と呼ばれた存在をエスコートするように腕を取り、そのまま神殿の出口へと向かう。兵士たちもそれに続き、歓声と足音は徐々に遠ざかっていった。
やがて神殿には、再び静寂が戻る。
残されたのは――聖樹の幹の奥に隠れていた小さな獣の姿をした自分だけ。
しばらく、動けなかった。
頭の中で、思考だけがぐるぐると回り続けている。
理解が追いつかないまま、ただ一つの疑問だけが浮かぶ。
「あの人が神獣なら……わ、私は……何?」
混乱が一気に押し寄せた。
神獣とは自分じゃないのか。さっきの光は何だった。夢で聞いたあの声は。もし自分が神獣ではないのなら、そもそもどうしてこんな所で、こんな姿に──。目の前で起きたことは何だ。あの女性は何者だ。どういうことなのか。
疑問が次々と弾け、思考がまとまらない。頭の中がぐるぐると回り、足元さえおぼつかなくなる。あまりの混乱に、その場で本当に回り出してしまいそうだった。
――落ち着こう。いや、無理だ。
そう思っても、状況がそれを許さない。けれど、いつまでもここに隠れているわけにもいかなかった。
そろそろと、木の幹から身体を出す。石床に降り立った瞬間、神殿の広さが改めて視界に広がった。高い天井、白い石柱、円形の天窓から差し込む柔らかな光。つい先ほどまでの騒ぎが嘘のように、空間は静まり返っている。
ゆっくりと周囲を見回し、静かに息を吸い込む。澄んだ空気が胸の奥までまっすぐ流れ込んできた。
──なぜだろう。
この場所にいると、不思議と心が落ち着く。まるでここが、自分にとって大切な場所であるかのように。
そんな感覚に包まれるうち、混乱していた思考が、ほんのわずかに整い始める。
とりあえず、状況を整理しよう。
(まずは……猫の……身体……………ッ落ち着けるわけがない! なんだこれは⁉︎)
そう叫び出しそうになった、まさにその時だった。
神殿の扉が、静かに開いた。
先ほどとは違う。ゆっくりと、慎重に押し開かれる音だった。
小さな獣の身体がぴたりと固まる。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
長身で、黒い髪。顔の左半分を覆う精巧な銀の仮面が、淡い光を受けて静かに輝いている。
男はゆっくりと神殿の中へ歩み入る。
その姿を見た瞬間だった。
身体が、なぜか動かなくなる。
逃げようとも思わない。隠れようとも思わない。
ただ――目が離せなかった。
どうしてなのか、理由は分からない。それでも、その男から視線を外すことができない。
胸の奥が、ほんのわずかに揺れる。
それが何なのか分からないまま、小さな獣はただ、彼を見つめ続けていた。




