18_帰還
――――……
夜の風が、頬を切るように吹き抜けていく。
イグニアはひたすらに走り続けていた。足元の土を蹴り上げ、草を踏み分けながら、暗闇の中を一直線に駆け抜けていく。だが、どれだけ足を動かしても、その速度では足りないという焦りだけが胸の奥で膨らんでいった。
(遅い……)
戦場から離れてしまった以上、もうアルディスの姿は見えない。あの場に残るという選択肢もあったはずなのに、気づけば身体は勝手に動いていた。
(……いや、違う)
すぐに自分でそれを打ち消す。
(あのまま居続けるわけにはいかなかった)
顔を見られ、声も聞かれた。あれ以上近くにいれば、誤魔化しがきかなくなる。
そこまで考えて、ふと意識が止まる。
(……今は、それよりも)
まずは砦に戻ること。それだけに意識を集中させる。
だが、走りながらイグニアはわずかに眉を寄せた。このままでは時間がかかりすぎる。人の身体では限界があり、どれだけ急いでも馬で駆けたときほどの速度は出せない。かといって猫の姿に戻れば、さらに時間を浪費することになる。
(どうする)
足は止めないまま、必死に思考を巡らせる。
(私は……神獣なんだろう)
その言葉とともに、夢の中で聞いた声がふと蘇った。静かで、どこか確信に満ちた声。そして、そのときに見せられた“姿”。
脳裏に浮かぶのは、巨大な獣だった。炎のように揺らめく毛並み、しなやかで力強い四肢、夜の闇の中でも圧倒的な存在感を放っていたあの姿。
(……できるのか?)
自問する。
答えは分からない。だが、試さない理由もなかった。
イグニアは不意に足を止め、周囲を見渡す。人気はなく、木々に囲まれた暗がりが広がっている。
(……やるしかない)
静かに息を吸い込み、ゆっくりと目を閉じる。意識を内側へと沈めながら、あの姿を思い描く。
大きく、強く、自由に駆ける存在。
その輪郭を、感触を、ひとつずつなぞるように辿っていく。
その瞬間だった。
身体の奥で、熱が灯る。
「……っ」
思わず息が漏れた。
血ではなく、炎が巡るような感覚が全身に広がっていく。内側から形が変わっていくのがはっきりと分かる。骨が軋み、筋肉が引き伸ばされ、皮膚の下で何かがうねりながら広がっていく。
だが、不思議と痛みはなかった。むしろ、その変化はどこか心地よくさえあった。
(……これが)
身体が大きく膨らみ、視界が一度沈み込んだかと思うと、次の瞬間には一気に引き上げられる。
開いた視界の先に広がったのは、まるで別の世界だった。風の流れが手に取るように分かり、空気の匂いが鮮明に鼻を掠め、足元の大地の感触が直に伝わってくる。
ゆっくりと前足を動かす。
そこにあったのは、大きなな獣の脚だった。炎のように揺らめく毛並みが、夜の闇の中でかすかに光を帯びている。
(……なに、これ)
一瞬、理解が追いつかない。だが、それでも分かる。
(すごい)
その一言が、自然と浮かんだ。
ふと足元に視線を落とすと、人の姿で着ていた甲冑が地面に落ちているのが見えた。
(……ごめん)
誰にともなく心の中で呟く。
(あとで……回収できるかな)
ほんの一瞬だけそんなことを考えたが、すぐに意識を切り替える。
(急がなきゃ)
地面を蹴った。
その瞬間、景色が一気に流れる。
(……え、ちょっ……待っ)
自分でも信じられない速度で、周囲が後方へと吹き飛んでいく。木々の間を縫うように駆け抜けるたび、身体が軽く宙へと浮き上がる。
(速い……!)
馬とは比べものにならない。むしろ、自分自身が風になったかのようだった。
さらに強く踏み込むと、大きく跳ね上がり、身体が高く宙へと舞い上がる。視界が一気に開け、夜空が広がった。
そのまましなやかに着地する。
(……飛べる。信じられないくらいに)
もっと力を込めれば、さらに高く空へ届くのだろう。
(すごい……)
思わずそう感じるが、すぐに頭を振る。
(今はそれどころじゃない!)
砦へ戻る。それが最優先だ。
イグニアは再び地を蹴り、夜の中を一直線に駆け抜けていく。その速度はもはや人の域を超えていた。
やがて、遠くに砦の灯りが見えてくる。
(見えた)
胸の奥がわずかに軽くなる。
速度を落とし、影に紛れるように進みながら、砦の近くで足を止める。周囲に人影がないことを確認し、静かに息を吐いた。
(ここで戻る)
再び意識を内側へ沈めると、身体はゆっくりと縮んでいく。熱が引き、骨が収まり、感覚が変わっていく。
次の瞬間、そこにいたのは小さな猫だった。
(……戻れた)
ほっと息をつき、そのまま静かに砦へ忍び込む。見張りの目を避け、壁沿いに身を滑らせるように進むと、足音はほとんど立たない。
小さな身体は、こういうときには都合がよかった。
(……あった)
見覚えのある場所に辿り着く。エルが用意してくれた寝床だ。
柔らかな布の上にそっと飛び乗り、身体を丸めると、張り詰めていたものがようやく少しだけ緩んだ。
(……戻ってきた)
目を閉じる。
だが、すぐにあの光景が浮かんでくる。
紫の瞳。
あの視線。
(……主)
胸の奥で、その言葉が静かに響いた。
(あの人が……私の)
それは疑いようのない確信だった。
(……守る)
小さく息を吐き、そのままゆっくりと身体の力を抜く。
外では、まだ夜の風が吹いている。だがここには静けさがあった。
柔らかな布の上で身体を丸め、ようやく張り詰めていたものがほどけ始めた、そのときだった。
扉が勢いよく開かれる音が、静かな室内に鋭く響く。
「いたーーー‼︎」
甲高い声が弾け、空気を震わせた。
イグニアはびくりと身体を震わせ、思わず顔を上げる。入口に立っていたのはエルだった。普段は落ち着いた物腰の彼女が、髪を乱し、息を切らしている。その表情には、取り繕いようのない安堵が滲んでいた。
「よかった……本当によかった……!」
駆け寄ってくる足音に重なるように、背後からさらに人がなだれ込んでくる。侍女だけではない。年若い従者や下働きの者までが顔を出し、口々に声を上げた。
「いたのか!」
「どこ行ってたんだよ……!」
「もう見つからないかと思った……」
張り詰めていたものが一気に解けたような声音だった。責めるよりも先に、安堵が溢れている。
その視線に囲まれ、イグニアは思わず身体を小さくした。
(……そんなに?)
ただの猫のはずなのに、向けられる反応はあまりにも大きい。
「夜通し探したんだからね!」
エルがしゃがみ込み、そっと抱き上げる。その腕はかすかに震えていた。
「急にいなくなるなんて……本当に、心臓に悪いんだから……」
叱るような言葉とは裏腹に、声はほとんど泣きそうだった。
周囲からも、ほっとしたような息がいくつも漏れる。
「殿下の猫だしな……何かあったら洒落にならねえよ」
「そうそう。あの殿下が連れてきたんだぞ?」
その言葉に、侍女の一人が苦笑まじりに頷いた。
「ほんとよね。アルディス殿下が猫を連れてくるなんて、最初見たとき目を疑ったもの」
「冗談かと思ったわよ。あの方が、こんな可愛いのを抱いてるなんて」
くすり、と小さな笑いがこぼれる。
だが、その笑いはすぐに消えた。
「……殿下って、そういうのに興味なさそうだし」
「というより、人にあまり関わろうとしないものね」
ぽつりと零れた言葉に、空気がわずかに沈む。
誰かが、小さく息を吐いた。
「……仕方ないわよ」
別の侍女が、声を落として言う。
「第二王子殿下からの扱い、見ていたら……」
それ以上は言わなかったが、それだけで十分だった。
部屋の中に、重たい沈黙が落ちる。
「前線ばっかり送られてるしな……」
下働きの男が低く呟く。
「今回だって、本来なら殿下が出る必要なかったはずだ。あんな場所、わざわざ行かされるなんて……」
「危険なところばかり押し付けられてるんだよ。あれじゃあ、使い潰すつもりなんじゃないかって……」
言葉の端に滲むのは、怒りよりもむしろやるせなさだった。
「それでも、殿下は何も言わないでしょう……」
エルが静かに続ける。
「文句も言わずに、前に出て……それでいて、私たちのことはちゃんと見てくださる」
その声には、はっきりとした敬意が込められていた。
「怪我人が出れば、真っ先に来てくださるし……名前だって、覚えてくださってるのよ」
「本来ならあの方なんだ」
誰かが、ぽつりと漏らす。
言葉は短いが、その意味は重い。
「本当なら……あの方が王になるべきなんだ」
今度は、はっきりとした声だった。
空気が一瞬で張り詰める。
「おい、やめろ」
すぐに別の男が制した。
「そういう話は軽々しくするな。ここだって安全とは限らないんだぞ」
周囲が息を呑む。
だが、完全には止まらなかった。
「でも、正統な血筋はアルディス殿下でしょう……?」
押し殺した声が続く。
「それなのに、あんな扱い……」
その先は誰も言わなかった。
だが、全員が同じことを思っているのは明らかだった。
エルはしばらく黙っていたが、やがてそっとイグニアの背を撫でた。
「……あの方は、優しすぎるのよ」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ零れ落ちるようだった。
部屋の中に、重く静かな空気が残る。
やがて外の気配がわずかに変わった。夜の濃さが薄れ、空がほんの少し白み始めている。
そのとき、遠くから低く重い音が響いた。
金属が打ち鳴らされる、規則的な合図。
部屋の中の全員が、ぴたりと動きを止める。
「……帰還の合図だ」
誰かが呟いた。
その一言で、空気が一瞬にして引き締まる。
エルが顔を上げる。
「殿下が……戻られた!」
先ほどまでのざわめきが、波が引くように静まっていく。
誰もが一瞬だけ言葉を止め、それから小さく息を整えた。安堵と緊張が入り混じった空気の中で、それぞれが自然と背筋を伸ばす。
イグニアの耳が、わずかに動いた。
気づけば、夜はすでにほどけかけている。窓の外の空はわずかに白み始め、冷えた空気の中に、朝の気配が静かに混じり込んでいた。




