17_名も知らない
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――――……
夜の戦場に、ようやく静けさが戻り始めていた。
燃え残った火がぱちぱちと小さく弾け、焦げた匂いを含んだ風が低く吹き抜けていく。倒れ伏した魔獣の巨体のあいだを縫うように兵たちが行き交い、傷の手当てや死体の処理に追われていた。先ほどまでの喧騒が嘘のように収まりつつある中で、アルディスだけがその流れから切り離されたように、その場に立ち尽くしていた。
視線は、闇の奥へと向けられている。
――あの騎士が消えていった方角だ。
黒の甲冑。炎のように揺れる赤い髪。そして、ほんの一瞬だけ捉えたあの瞳。
わずかに見えたその顔が、なぜか頭から離れなかった。
(……何者だ)
胸の内で浮かんだ問いは、行き場を見つけられないまま沈んでいく。
助けられた――それは紛れもない事実だ。だがそれ以上に、言葉では捉えきれない違和感が残っていた。
剣を交えたわけでも、長く言葉を交わしたわけでもない。それでもあの瞬間、互いの動きは不自然なほど噛み合っていた。呼吸を合わせる間もなく、初めからそこにいた味方であるかのように。
あれを偶然と片づけるには、あまりにも出来すぎている。
少なくとも、アルディスにはそうは思えなかった。
風が一陣、強く吹き抜ける。遠くで兵の呼び声が重なり、誰かが笑う声がかすかに混じった。
そのときだった。
「おーい、殿下」
軽い調子の声が、背後から投げられる。
振り返るまでもない。誰なのかはすぐに分かった。
やや長めの髪を後ろで無造作に束ねた男が、肩を回しながら気だるげに歩いてくる。戦闘を終えたばかりだというのに、どこか余裕を崩さないその態度は、見慣れたものだった。
部下の一人──ルーザスだ。
「いやー、無事でよかったっすよ。ほんとに」
軽口を叩きながら近づいてくるが、その口元にはわずかに残った緊張が見て取れる。戦場を抜けたばかりの空気は、まだ完全には抜けていない。
アルディスはようやく視線を外し、わずかに彼へ向けた。
「……怪我はないか」
短く問う。
「俺ですか? 見ての通りピンピンしてます」
ルーザスは肩をすくめ、気楽そうに笑ってみせる。
「殿下のほうがよっぽど危なかったでしょうに。三体に囲まれてたの、こっちから丸見えでしたよ」
「問題ない」
淡々と返す。
「いやいや、問題あったからあの騎士に助けられてたんじゃないですかね?」
からかうような口調だったが、その目は冗談では済ませていなかった。戦場での一瞬一瞬を見逃さない者の視線で、アルディスの様子を探っている。
アルディスはそれには答えず、再び闇の奥へと視線を戻した。
その反応に、ルーザスは小さく息を吐く。
「……ルーザス」
「はいはい」
気の抜けた返事。
「第三遊撃隊という部隊はあるか」
その言葉に、ルーザスの足がぴたりと止まる。
軽さが一瞬だけ剥がれ落ちた。
「……第三遊撃隊?」
眉をひそめ、記憶を探るように視線を宙へ泳がせる。
「聞いたことないですね。少なくとも、この砦にはいませんよ」
ルーザスは即座にそう言い切った。考える間もなく出た答えであることが、その口調からもはっきりと分かる。
「そうか」
アルディスは短く返す。
「なんです、それ。さっきの騎士が言ってたんですか?」
問いかける声音には、すでに興味が混じっていた。
アルディスはわずかに頷く。
その仕草を見て、ルーザスはふうん、と軽く鼻を鳴らしたあと、どこか面白がるように口角を上げた。
「怪しいっすね、それ。というか――」
そこでわざと間を置き、にやりと笑みを深める。
「女でしたよね?」
アルディスの視線が、わずかに動いた。
「見てたのか」
「いやあ、あの距離であの赤髪は目立ちますって。それにあの動きでしょう? 嫌でも目に入りますよ」
ルーザスは肩をすくめ、軽い調子で続ける。
「それに女ならなおさら覚えてます。うち、女は基本後方支援にしか回してないんで」
「……そうだったな」
「ええ。前線であんな動きができる女がいたら、とっくに噂になってますよ」
軽口めいた言い方ではあるが、内容は至って真面目だ。
ルーザスはそこで一度言葉を切り、わずかに表情を引き締めた。
「つまり、あの人は“うちの人間じゃない”ってことです」
アルディスは何も言わず、その言葉を受け止める。
すでに自分でも分かっていたことだった。だが、他人の口から明確に示されることで、それは曖昧な推測から確信へと変わる。
「じゃあ何者なんですかね」
ルーザスは腕を組み、少しだけ考え込むように視線を落とした。
「傭兵……にしては腕が良すぎるし、あの装備で無名ってのもおかしい。だったら――」
顎に手を当て、わずかに首を傾ける。
「どっかの貴族が抱えてる隠し玉、とかですかね」
「……どうだろうな」
アルディスは静かに答えた。
その視線は依然として、彼女が消えていった闇の奥へ向けられている。
ルーザスはその横顔をしばらく眺めてから、小さく息を吐いた。
「気になります?」
あえて軽く問う。
アルディスは答えない。
だが、その沈黙こそが何よりも雄弁だった。
ルーザスはくすりと笑う。
「珍しいですね。殿下がそこまで気にするなんて」
「……そうか」
「そうですよ。今までそんなこと、なかったでしょう」
その言葉に、アルディスはわずかに目を細めた。
確かに、そうかもしれない。
これまで、自分に近づいてくる女たちは皆同じだった。王子という肩書に惹かれ、表面だけを取り繕い、都合のいい言葉を並べる。笑顔も言葉も、少し見ればその裏が透けて見えるものばかりだった。
そして――仮面の下を見せた瞬間、彼女たちは変わる。
恐れ、嫌悪、あるいは隠しきれない失望。
かつて、幼い頃に共に過ごした少女の姿が、ふと脳裏に浮かぶ。
無邪気に笑い、名前を呼び、何の疑いもなく隣にいた存在。
だが――あの日。
焼け爛れた顔を見せた瞬間、彼女の表情は歪んだ。引きつった瞳、強張った口元、そしてほんのわずかに後ずさる足。
その光景は、今も鮮明に残っている。
アルディスは無意識のうちに視線を伏せた。
「……女には、碌な思い出がない」
ぽつりと零れた言葉は、風に溶けるように静かだった。
ルーザスは何も言わない。軽口を挟むこともせず、ただその言葉をそのまま受け止める。
だが、やがて静かに口を開いた。
「でも、あの人は違いましたね」
穏やかな声音だった。
アルディスが顔を上げると、ルーザスは肩をすくめ、小さく笑う。
「なんてったって命懸けで殿下を助けた女っすよ?」
軽く言いながらも、その言葉には妙に重みがあった。
「そりゃ、気になるのも当然です」
アルディスは何も答えない。
──命懸け。
ただ、その言葉だけが胸の奥に残る。
その事実が、静かに、だが確かに重みを持って沈んでいった。
そうだ。あの瞬間、彼女は迷いなく飛び込んできた。自分が誰であるかなど意に介さないかのように、ただ真っ直ぐに。
(……なぜだ)
騎士だから、と言ってしまえばそれまでの話だ。だが、それだけでは説明のつかない何かが、確かにあった。視線の強さも、踏み込みの迷いのなさも、そしてほんの一瞬だけ見せた躊躇さえも、これまで出会ってきた誰とも違っていたのだ。
アルディスは小さく息を吐き、意識を現実へと引き戻す。
「……ルーザス」
「はい?」
「撤収だ。これ以上の追撃は不要」
「了解っす」
ルーザスはすぐに頷いた。それ以上は何も言わなかったが、その目には消しきれない興味が残っている。
アルディスはそれに気づきながらも何も言わず、踵を返して砦の方角へと歩き出した。
夜の風が、血と煙の匂いを運んでくる。背後では兵たちの声が重なり、勝利の安堵と疲労が入り混じったざわめきが広がっていた。だが、そのすべてがどこか遠く、現実感を伴わない。
頭の中には、ただ一つの像だけが残っている。
炎のように揺れる赤い髪と、その奥に宿っていた瞳。
(……もう一度)
ふと浮かんだその思いは、すぐに打ち消せるはずだった。だが、なぜか消えなかった。
理由は分からない。分からないまま、それでも確かに、自分はもう一度あの名も知らない騎士に会いたいと思っている。
その感情の正体に気づくには、まだ少しだけ時間が必要だった。
夜の闇の中、アルディスは無言のまま歩き続ける。やがて視界の先に、砦の灯りがぼんやりと浮かび上がってきた。




