16_王
アルディスの紫の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
仮面の奥に沈んでいたはずのその眼差しは、いつものように冷えきってはいなかった。鋭さの中に、戸惑いにも似た色が混じっている。目の前の相手を敵か味方か見極めようとしているのに、どこか確かめるようでもある――そんな、不思議な光だった。
(……見てる)
イグニアの胸が、どくりと大きく鳴る。
(どうしよう)
なのに、自分も目を逸らせない。
戦場の喧騒は戻り始めていた。どこかで兵士が叫び、別の場所では断末魔が上がる。だが、耳に入ってくるそれらがどこか遠い。
アルディスの瞳だけが、妙にはっきりと見えた。
(でも……よかった)
心の中で、ふいにそんな言葉が零れた。
(無事で)
それは驚くほど自然に出てきた言葉で、自分でも一瞬遅れて意味を理解する。
(いや、違う)
慌てて打ち消そうとして、その時になってようやく気がついた。
視界が、やけにはっきりしている。
いつもなら、兜の狭い覗き穴越しに見えていたはずの戦場が、今は端までよく見える。風が、直接頬に当たっている。血と煙の匂いも、金属越しではなく、むき出しの肌にまとわりつくようだった。
(……あ)
時間が止まったみたいに、思考が一拍遅れる。
(そうだ……兜、弾かれて……)
そして、次の瞬間。
(というか! 顔、しっかり見られてしまった‼︎)
頭の中で叫ぶ。
イグニアは思わず一歩引きそうになった。
返り血が頬に貼りつく感覚が、やけに生々しい。髪もほどけてしまっている。馬でここまで来た時から、せっかく顔が分からないように装っていたのに、全部台無しだ。
(どうする、どうする⁉︎)
せめて今すぐ顔を隠したい。
だが、そんな隙などあるはずもなかった。
周囲の空気が、先ほどとは別の意味で変わったのを、イグニアは肌で感じ取る。
ざわり、と。
殺気が動く。
統率を失ったはずの魔獣たちが、二人のあいだに生まれた一瞬の静寂を嗅ぎつけたように、近くから一斉に身を翻したのだ。
「……っ!」
アルディスの顔つきが変わる。
ほとんど同時に、イグニアも剣を構え直した。
右から一体、左から二体。さらに正面の屍の陰から、腹を裂かれながらもまだ生きていた魔獣が這いずってくる。
イグニアは舌打ちしそうになるのを堪えた。
(最悪の間だな!)
だが――
魔獣が飛びかかる、その瞬間だった。
アルディスが半歩だけ後ろへ下がる。
ほんのわずかな動きだった。だが、その一歩で正面の死角が開く。
考えるより先に、イグニアの身体はそこへ踏み込んでいた。
剣を斜めに振り抜く。
前に出た一体の前脚が断ち切られ、地を転がった。咆哮を上げる暇もなく体勢を崩したその横を、アルディスの刃が走る。喉を深く裂かれた魔獣が血を噴き上げて倒れた。
(……今の)
息が合った。
偶然かもしれない。
だが、そう思うにはあまりにも滑らかだった。
右側から迫った二体目が、長い尾を薙ぐように振るってくる。イグニアは身を低くして避け、そのまま尾の下をくぐり抜けた。振り返りざまに斬り上げようとするが、一瞬遅い。
その隙を埋めるように、アルディスの剣が横から割り込んだ。
重い金属音。
尾の動きが逸れ、そのわずかな乱れをイグニアが拾う。
勢いよく踏み込み、魔獣の懐へ入ると、胸を深く刺し貫く。
黒い体液が飛び散り、甲冑と頬を汚した。
魔獣の重みが剣に乗る。引き抜こうとした瞬間、今度は背後に気配を感じた。
「伏せろ」
低い声が飛ぶ。
短く、命令のようでいて、躊躇がない。
イグニアは反射的に身を沈めた。
次の瞬間、頭上をアルディスの刃が薙ぎ払う。背後から飛びかかってきた魔獣の顎が半ばから裂け、その身体が横倒しに吹き飛んでいった。
砂塵が舞う。
イグニアは膝をついたまま、思わず息を呑んだ。
(……助けられた)
その事実が遅れて胸を打つ。
アルディスが、こちらを一瞥する。
「立てるか」
「……っ」
一瞬、返事に詰まる。
イグニアは無言のまま立ち上がり、短く頷いた。
アルディスの瞳がわずかに細まる。
だが、それ以上は問わない。
「来るぞ」
その言葉と同時に、三体の魔獣が前方の火煙の中から躍り出た。
もはや統率はない。
だからこそ厄介だった。予測不能に暴れ、無差別に噛みつき、爪を振るう。ただの獣の狂気が、かえって動きを読みにくくしている。
イグニアは剣を握り直す。
アルディスが一歩前に出る。
それを見て、イグニアもほとんど同時に逆側へ回った。
左右から挟む形。
打ち合わせなど何もしていない。それでも、その位置が自然に選ばれていた。
(……なんで)
自分でも不思議だった。
(こんなに、やりやすいんだ)
前へ出るタイミングも、退く間も、なぜか分かる。
アルディスの剣がどこへ向かうのか、その気配だけで察せる。
アルディスもまた、イグニアの動きに無駄な驚きを見せなかった。初めからそこにいた味方であるかのように、呼吸を合わせてくる。
最初の一体が、アルディスへ牙を剥いて飛びかかる。
アルディスは受けず、半歩斜めに身をずらした。
露わになった脇腹へ、イグニアが踏み込む。
剣を深く突き立てると、魔獣は苦鳴を上げながら転がった。
だが、そのまま終わらない。
二体目が、今度はイグニアへと爪を振り下ろす。
避けきれない、そう判断した瞬間だった。
横から飛んできたアルディスの剣が、その爪の軌道を逸らした。火花が散る。重い金属音が手元まで響く。
イグニアはその勢いを借りるように身体を捻り、返しの一撃で魔獣の首筋を裂いた。
残る一体が、二人の間を割ろうと低く飛び込んでくる。
イグニアは咄嗟に剣を上げた。
だがそれより先に、アルディスが前へ出る。
剣と爪がぶつかる音が響く。
押し返しきれない――魔獣の力が強い。
その瞬間、イグニアの身体の奥で、再びあの熱が膨らんだ。
今まで何度か、剣に乗っていた異様な力。
それが、今ははっきりと分かる。
(出て)
命じたわけではない。
願っただけだった。
けれど次の瞬間、イグニアの刃は、鈍い赤金の光をうっすらと纏っていた。
自分でも驚く暇はない。
踏み込み、横から一閃。
魔獣の胴が、ありえない深さで断ち割られる。
焼けるような臭いが立った。
斬られた断面から、まるで火に炙られたような煙が上がる。魔獣が絶叫し、数歩もつれるように後退すると、そのまま崩れ落ちた。
近くにいた兵士たちが、息を呑む。
「……今の、何だ」
「刃が……光った……?」
動揺が走る。
だが戦いはまだ終わっていない。
遠くではなお、散り散りになった魔獣たちが各所で暴れていた。
ただ、先ほどまでの絶望的な圧迫感は薄れている。
その隙を逃す兵ではない。
「押せ! 今だ!」
「殿下に続け、崩すな!」
「残党を散らせ!」
怒号が飛ぶ。
士気が、一気に持ち直す。
兵たちの剣筋が変わった。守るだけだった動きが、明確に“討ちにいく”ものへと変わっていく。
イグニアは荒い息を吐きながら、その様子を見た。
(……よかった)
胸の奥に、安堵が広がる。
前線は守られた。
まだ完全に終わってはいないが、少なくとも、今この場で一気に崩れることはない。
その時、耳元で低い声がした。
「怪我は」
アルディスだ。
振り向けば、彼がすぐ近くに立っていた。仮面の奥の瞳が、イグニアの顔を、頬を、肩を、そして剣を流れるように見ていく。
傷を確認しているのだと分かる。
その視線が、妙に熱かった。
(近い)
イグニアの喉がひくりと鳴る。
(近い近い近い)
返り血と土埃にまみれた、ひどい有様のはずなのに、そんなことより、とにかく彼が近い。
紫の瞳が、逸らせない。
猫の姿の時は、抱きかかえられたり、それこそ今より近くにいたはずだ。なのに、人の姿だと何故か妙な感覚になる。
イグニアは咄嗟に首を横に振った。
「……問題、ありません」
低く、短く。
なるべく声を潰すようにして答える。
アルディスの眉が、わずかに動いた。
声を聞いて、何かを感じ取ったのかもしれない。
だが、彼はその違和感を今は追及しなかった。
代わりに、戦場全体へ目を走らせる。
「撤退を始めているな」
確かに、魔獣たちは少しずつ後退を始めていた。仲間同士でぶつかり合いながら、闇の奥へと消えていく。追撃している兵もいるが、深追いはしていない。夜の荒野で散開した魔獣を追うのは危険だと、皆理解しているのだ。
イグニアはそれを確認しつつ、内心で焦り始めていた。
(まずい)
顔を見られた。
声も聞かれた。
しかもこうして並んで戦ってしまった。
(これ以上ここにいたら、本格的に問い詰められる)
それは困る。
困る、はずなのに――足が動かない。
アルディスが無事だと分かった今、すぐに離れるべきだ。そう理性では分かっているのに、目の前にいる彼から離れがたいと感じている自分がいる。
(……何なんだ、これは)
さっきまで、あれほど必死だった。
守らなければと、ただそれだけを思って走ってきた。
そして今、その役目を果たしたはずなのに、胸の奥のざわめきは収まるどころか、余計に強くなっている。
(これって……)
アルディスの瞳をもう一度見つめる。
(私は神獣で……)
そうだ、神獣。
平和をもたらす存在――そして、王を選ぶ獣。王たるものを主とし、仕える獣。
(アルディス……なのか?)
だから気になる。
だから守りたい。
だから無事でいてほしいと、こんなにも強く思うのだ。
(だから……こんな)
やっと己の神獣としての使命をイグニアは理解する。
何故アルディスにおとなしくついて来たのか。そして理解した途端、一層にアルディスを守らねばならないという気持ちが強くなる。
アルディスが、一歩だけ近づいた。
「所属は」
問いは短かった。
けれど、その一言だけで空気が引き締まる。
イグニアは目を瞬いた。
「どこの部隊だ」
低い声。
だが、詰問というよりは確認だった。
戦場で現れ、突然自分を救い、異様な力を見せた騎士。放っておけるはずがない。
当然の問いだ。
イグニアは一瞬だけ息を詰めた。
(どうする)
咄嗟に浮かんだのは、砦内で耳にした兵士たちの会話だった。すれ違いざまに聞いた部隊名や、人名の断片。それらが頭の中で必死に繋がる。
(……ええと、確か)
心臓がうるさい。
間を空ければ怪しまれる。
だから、ほとんど反射で口を開いた。
「……第三遊撃隊、です」
言ってから、遅れて後悔が押し寄せる。
(そんな部隊あったか⁉︎)
自分で言っておいて、自信がない。
だがもう引き返せない。
アルディスの眉がわずかに動く。
「第三遊撃隊……?」
低く繰り返される。
疑われている。
(終わったかもしれない、そもそもアルディスなら全部隊を把握してるはず……だけど)
イグニアは内心で冷や汗をかいた。
だが、アルディスはすぐに否定も追及もせず、ほんの一瞬だけ考えるように視線を落とす。
――その隙に、イグニアは言葉を重ねた。
「……南側の斥候に回っていました。魔獣の動きが変わったと聞き、こちらへ」
少しだけ具体性を足す。
さっき耳にした「前線が押されている」という話を思い出しながら、辻褄を合わせる。
アルディスはゆっくりと顔を上げた。
その視線が、再びイグニアを射抜く。
嘘を見抜こうとしている目だった。
(やめて……そんな目でこっちを見ないで)
心臓が潰れそうになる。
だが――
「……そうか」
短く、それだけだった。
完全に信じたわけではない。
だが、今はそれ以上踏み込まないという判断。
それがわかる声音だった。
イグニアは内心で、ほんのわずかに息をつく。
(助かった……)
だが安心するにはまだ早い。
アルディスの視線は、相変わらず外れていない。
「名は」
さらに問いが重なる。
(まだ来るのか!?)
思わず叫びたくなる。
イグニアは一瞬だけ口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
名前まで出してしまえば、完全な偽装になる。そこまでやれば、いずれ必ず破綻する。
(だめだ)
ここで切らなければ。
それに――
(これ以上、話したくない)
この距離で、この目で見られながら、これ以上言葉を重ねるのは危険だと本能が告げていた。
「……」
イグニアは答えず、わずかに視線を逸らす。
ほんの一瞬の沈黙。
その間に、アルディスが一歩近づいた。
手が届きそうな距離。
その気配に、イグニアの肩がわずかに揺れる。
(近い。だめだ)
これ以上は――
イグニアは反射的に一歩退いた。
「……失礼します」
低く告げると、間を置かずに踵を返す。
「待て」
背後から声が飛ぶ。
だが、止まらない。
止まれない。イグニアはそのまま駆け出した。
地面に突き立てられていた槍の影を抜け、倒れた魔獣の死体を飛び越え、夜の闇へと紛れ込むように走る。兵たちの怒号も、戦勝の歓声も、背後へ流れていく。
心臓が痛いほど脈打つ。
夜風が、火照った頬を切り裂くように吹いた。
(落ち着け)
アルディスを守らなければと思ったのも。
無事でよかったと、心から安堵したのも。
近づかれて、あんなにも胸が騒いだのも。
イグニアは唇を噛みしめる。
「彼が私の主だから……なんだ」
背後で、戦場の灯が小さく揺れる。
そのどこかに、まだアルディスが立っている。
振り返らなくても、それだけは分かった。
夜風の中を駆けながら、ただ一つだけ、はっきりとしていることがあった。
この戦いで、自分が守るべき相手が誰なのか。
――神獣とは。
――平和をもたらす存在。
――王を選ぶ獣。
――アルディス。
――彼がこの国の次の王なのだ。
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