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神獣の在るべき姿は〜不遇の王子に懐いたら、とことん溺愛されました〜  作者: 白凪珠希


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16/22

15_交錯する視線

 戦場の中央付近――その一角だけ、空気が異様に張り詰めていた。


(個体は別かもしれないが……忘れるはずがない)


 イグニアは顔を歪ませる。

 前世とはいえ、己を殺した魔獣を見て、悪い気分になるのは当たり前だ。


 怒号と悲鳴が入り混じる戦場の中で、上空の黒い影は不気味に旋回している。


(……何かを探してる……のか?)


 まるで空気そのものが重く沈み、音さえも押し潰されているかのようだった。

 剣を振るっていた兵の動きが、わずかに鈍る。

 踏み込むはずの足が止まり、振り下ろすはずの刃が一瞬遅れる。そのわずかな遅れが、戦場においては致命的だと、誰もが知っている。


 それでも――身体が言うことをきかなかった。


 理由はわからない。


 だが、本能が告げていた。


 あれは、違う。


 今まで相手にしてきたどの魔獣とも。


 黒い影が動きを変え、ゆっくりと高度を落としていく。

 夜の闇に溶け込むようなその姿は、しかし確かにそこに在り、視線を外すことを許さない圧を放っていた。


 翼が一度、大きくはためく。

 その瞬間、空気が裂けた。


 刃のように鋭い羽が風を削ぎ、低く重い風圧となって地上へ叩きつけられる。砂塵が巻き上がり、血と焦げた臭いを含んだ空気が、兵たちの顔を打った。


 誰かが思わず身をすくめる。

 それほどの威圧だった。

 魔獣は狙いを定め、旋回の軌道がわずかに収束する。


 その中心にいるのは――




「……アルディス‼︎」




 彼は地上で三体の魔獣を相手にしていた。


 剣の動きに無駄はない。最短で急所へ届く軌道を描き、確実に傷を刻んでいく。踏み込みも、引き際も、すべてが研ぎ澄まされていた。


 だが、それでも数が多い。


 一体を押し返しても、すぐに別の一体が間合いへ入り込む。周囲を囲まれ、じわじわと逃げ場を削られていた。


 その外側では、兵たちが必死に食い止めている。


 盾を構え、槍を突き出し、声を張り上げながら前へ出る。だが魔獣の力は重く、押し返しきれない。


 陣形は、確実に歪んでいた。

 崩れてはいない。

 だが、持ち堪えているだけだ。


 あと一手、何かが加われば――容易く瓦解する。


 その均衡の上に、黒い影が覆いかぶさる。

 誰かがそれに気づいた。


 顔を上げ、息を呑み、叫ぶ。


「殿下、上――!」


 だが、その声は最後まで届かなかった。

 すでに、影は落ちていた。

 黒い影が、落ちる。


 空気を裂き、音を置き去りにする速度で、一直線に。


 ――間に合わない。


 その瞬間、戦場の誰もが、そう理解した。


 だが。

 別の影が、地を蹴った。


 黒い馬が、鋭く前脚を跳ね上げた。

 次の瞬間、その背から一人の騎士が弾かれるように飛び出す。


 躊躇はない。


 重い甲冑を纏っているはずの身体は、まるでその重量を失ったかのように軽やかに、一直線に空へと躍り出た。

 その異様な跳躍に、数人の兵が思わず息を呑む。


「……なんだ、あれは」


 誰かが呟いた。

 だが、誰一人として答えられない。ただ、視線を奪われる。

 あまりにも速く、あまりにも無駄のない動きだった。

 空中で、騎士の腕が振り上がる。

 剣の切っ先は、ただ一点――降下してくる魔獣の喉元を正確に捉えていた。


 次の瞬間、二つの影が空中で交差する。


 鋭い衝突音が、夜気を裂いた。

 刃は、迷いなく食い込む。

 深く、確実に。


 だが――それでも止まらない。


 魔獣の巨体がわずかに揺らぎ、直後、黒い爪が閃いた。振り抜かれた一撃が、騎士の頭部を掠める。


 硬質な破砕音が響き渡った。


 兜が弾き飛ばされ、回転しながら宙を舞う。血の飛沫を引き、地面へと叩きつけられた。


 その瞬間だった。


 闇の中に、炎が解き放たれたかのように見えた。


 ほどける髪。


 赤――いや、それはただの赤ではない。


 燃え上がる炎のように揺らめき、血に濡れながらなお、その色を失わない鮮烈な光。

 その下に現れた顔に、幾人もの兵が息を呑む。


「……女、だと……?」


 震えた声が、戦場のざわめきに溶ける。

 戦場に似つかわしくないほど整った顔立ち。白い肌に、鮮やかな血が飛び散る。その対比が、かえって現実味を削いでいた。


 だが、その瞳だけが違う。


 赤。


 その奥で、金が揺れている。

 燃え盛る炎の芯のように、静かで、それでいて圧倒的な熱を宿した光。


 その視線は、真っ直ぐに目の前の魔獣に向けられている。


 迷いも、恐れもない。

 ただ、討つべき敵として。


 魔獣が咆哮を上げる。


 空中で身体を捻り、騎士を振り落とそうと暴れる。


 だが――離れない。

 イグニアは剣を握り直し、さらに深く押し込んだ。

 刃が骨を断つ感触が、確かに手に伝わる。そのまま体重を乗せ、横へと引き裂く。


 血が、爆ぜるように飛び散った。


 黒い巨体が悲鳴じみた音を発し、空気を震わせる。

 その異変に呼応するように、周囲の魔獣たちの動きがわずかに乱れた。

 

 しかし、イグニアは目の前の敵だけを見つめる。

 やがて魔獣の身体が支えを失い、巨体が地面へと落ちた。

 轟音が大地を打つ。土が跳ね、血が弾ける。

 イグニアもまた、その上へと着地した。膝をわずかに折り、衝撃を殺す。

 足元で、魔獣がまだ微かに蠢いている。

 イグニアは何も言わず、剣を持ち上げた。そして、ためらいなく振り下ろす。


 刃が深く突き刺さり、巨体がびくりと震えた。それを最後に、巨体は完全に沈黙した。

 刃に伝わっていた抵抗が、ふっと消える。握り込んだ剣の向こうで、確かに命が断たれたのを、イグニアははっきりと感じ取っていた。


 次の瞬間だった。

 周囲の空気が、目に見えない形で揺らぐ。

 それまで統率の取れていた魔獣たちの動きが、明らかに鈍った。

 噛み合っていたはずの連携が崩れ、それぞれが互いの動きを無視するように、ばらばらに暴れ始める。

 まるで、頭を失った群れのように。


「……今だ!」


 誰かの叫びが、戦場に火をつけた。

 押し込まれていた兵たちが、一斉に前へと踏み込む。

 その変化を、イグニアの身体もまた、直感的に捉えていた。


 ――まだ終わっていない。


 足元の魔獣から視線を外し、周囲を見渡す。

 すぐ近くで、アルディスを取り囲んでいた魔獣のうちの一体が、体勢を崩しながらもなお爪を振り上げていた。


 その軌道を、迷いなく読む。

 地を蹴る。


 血で濡れた足場がわずかに滑るが、それすらも織り込んで踏み込んだ。

 横薙ぎに振るった一閃が、魔獣の首筋を深く裂く。


 骨に当たる手応え。

 そのまま力任せに押し切ると、巨体が崩れ落ちた。

 同時に、アルディスの剣が閃く。

 残る一体の懐へと、最短の軌道で踏み込み、喉元を正確に貫いた。


 鮮やかで、無駄のない一撃だった。

 最後の一体が地に伏す。


 その瞬間、二人の周囲に、わずかな“間”が生まれた。


 押し寄せていた圧が、ほんの一瞬だけ引く。

 兵たちの怒号も、魔獣の咆哮も、遠くへと押しやられたように感じられる。

 戦場の只中に、不自然なほどの静寂。


 イグニアは、ゆっくりと顔を上げる。

 頬を伝う血が、顎先から一滴、地に落ちていく。

 その赤と同じ色を宿した髪が、戦場の風に煽られ、炎のように揺らめいた。

 土埃と血の匂いが渦巻く空気の中で、なぜかその瞬間だけ、すべてがわずかに遠のいたように感じられる。

 耳に届いていたはずの剣戟も、怒号も、悲鳴さえも、薄く膜を隔てた向こう側へ押しやられていく。


 ただひとつ、確かなものだけが残る。

 視線だった。


 引き寄せられるように、イグニアは振り返る。


 その先に――アルディスがいた。

 黒の甲冑を纏い、なお揺るがぬ姿で立つその男は、ただ静かに、こちらを見据えている。


 仮面の奥にある紫の瞳。


 深く、冷ややかでありながら、その奥底にかすかな熱を秘めた色。

 その眼差しは鋭く、敵を見据えるそれと変わらぬはずなのに――どこか違っていた。


 まるで、何かを探し当てたかのように。

 あるいは、確かめるように。


 イグニアの姿を、ただ一人の存在として捉えている。

 戦場はなお動いている。

 兵は叫び、刃はぶつかり、血は流れ続けている。


 それでも、その一瞬だけは、確かに切り離されていた。

 時間が、ほんのわずかに歪む。


 二人のあいだにある距離が、意味を失う。

 炎のように揺れる赤と、静かに沈む紫。


 交わるはずのなかった色が、戦場の只中で、確かに重なり合う。


 言葉はない。


 呼びかける名も、確かめる術も、まだ存在しない。


 それでも――その視線は、確かに届いていた。


 イグニアという存在を。

 そして、イグニアもまた、逸らすことができなかった。


 理由はわからない。


 だが、胸の奥が、静かに強く鳴っている。


 戦いの中で初めて芽生えた、名もない感情が、確かにそこにあった。


 それはまだ、形を持たない。


 だが確実に、イグニアの中でそれは大きくなっていた。


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