15_交錯する視線
戦場の中央付近――その一角だけ、空気が異様に張り詰めていた。
(個体は別かもしれないが……忘れるはずがない)
イグニアは顔を歪ませる。
前世とはいえ、己を殺した魔獣を見て、悪い気分になるのは当たり前だ。
怒号と悲鳴が入り混じる戦場の中で、上空の黒い影は不気味に旋回している。
(……何かを探してる……のか?)
まるで空気そのものが重く沈み、音さえも押し潰されているかのようだった。
剣を振るっていた兵の動きが、わずかに鈍る。
踏み込むはずの足が止まり、振り下ろすはずの刃が一瞬遅れる。そのわずかな遅れが、戦場においては致命的だと、誰もが知っている。
それでも――身体が言うことをきかなかった。
理由はわからない。
だが、本能が告げていた。
あれは、違う。
今まで相手にしてきたどの魔獣とも。
黒い影が動きを変え、ゆっくりと高度を落としていく。
夜の闇に溶け込むようなその姿は、しかし確かにそこに在り、視線を外すことを許さない圧を放っていた。
翼が一度、大きくはためく。
その瞬間、空気が裂けた。
刃のように鋭い羽が風を削ぎ、低く重い風圧となって地上へ叩きつけられる。砂塵が巻き上がり、血と焦げた臭いを含んだ空気が、兵たちの顔を打った。
誰かが思わず身をすくめる。
それほどの威圧だった。
魔獣は狙いを定め、旋回の軌道がわずかに収束する。
その中心にいるのは――
「……アルディス‼︎」
彼は地上で三体の魔獣を相手にしていた。
剣の動きに無駄はない。最短で急所へ届く軌道を描き、確実に傷を刻んでいく。踏み込みも、引き際も、すべてが研ぎ澄まされていた。
だが、それでも数が多い。
一体を押し返しても、すぐに別の一体が間合いへ入り込む。周囲を囲まれ、じわじわと逃げ場を削られていた。
その外側では、兵たちが必死に食い止めている。
盾を構え、槍を突き出し、声を張り上げながら前へ出る。だが魔獣の力は重く、押し返しきれない。
陣形は、確実に歪んでいた。
崩れてはいない。
だが、持ち堪えているだけだ。
あと一手、何かが加われば――容易く瓦解する。
その均衡の上に、黒い影が覆いかぶさる。
誰かがそれに気づいた。
顔を上げ、息を呑み、叫ぶ。
「殿下、上――!」
だが、その声は最後まで届かなかった。
すでに、影は落ちていた。
黒い影が、落ちる。
空気を裂き、音を置き去りにする速度で、一直線に。
――間に合わない。
その瞬間、戦場の誰もが、そう理解した。
だが。
別の影が、地を蹴った。
黒い馬が、鋭く前脚を跳ね上げた。
次の瞬間、その背から一人の騎士が弾かれるように飛び出す。
躊躇はない。
重い甲冑を纏っているはずの身体は、まるでその重量を失ったかのように軽やかに、一直線に空へと躍り出た。
その異様な跳躍に、数人の兵が思わず息を呑む。
「……なんだ、あれは」
誰かが呟いた。
だが、誰一人として答えられない。ただ、視線を奪われる。
あまりにも速く、あまりにも無駄のない動きだった。
空中で、騎士の腕が振り上がる。
剣の切っ先は、ただ一点――降下してくる魔獣の喉元を正確に捉えていた。
次の瞬間、二つの影が空中で交差する。
鋭い衝突音が、夜気を裂いた。
刃は、迷いなく食い込む。
深く、確実に。
だが――それでも止まらない。
魔獣の巨体がわずかに揺らぎ、直後、黒い爪が閃いた。振り抜かれた一撃が、騎士の頭部を掠める。
硬質な破砕音が響き渡った。
兜が弾き飛ばされ、回転しながら宙を舞う。血の飛沫を引き、地面へと叩きつけられた。
その瞬間だった。
闇の中に、炎が解き放たれたかのように見えた。
ほどける髪。
赤――いや、それはただの赤ではない。
燃え上がる炎のように揺らめき、血に濡れながらなお、その色を失わない鮮烈な光。
その下に現れた顔に、幾人もの兵が息を呑む。
「……女、だと……?」
震えた声が、戦場のざわめきに溶ける。
戦場に似つかわしくないほど整った顔立ち。白い肌に、鮮やかな血が飛び散る。その対比が、かえって現実味を削いでいた。
だが、その瞳だけが違う。
赤。
その奥で、金が揺れている。
燃え盛る炎の芯のように、静かで、それでいて圧倒的な熱を宿した光。
その視線は、真っ直ぐに目の前の魔獣に向けられている。
迷いも、恐れもない。
ただ、討つべき敵として。
魔獣が咆哮を上げる。
空中で身体を捻り、騎士を振り落とそうと暴れる。
だが――離れない。
イグニアは剣を握り直し、さらに深く押し込んだ。
刃が骨を断つ感触が、確かに手に伝わる。そのまま体重を乗せ、横へと引き裂く。
血が、爆ぜるように飛び散った。
黒い巨体が悲鳴じみた音を発し、空気を震わせる。
その異変に呼応するように、周囲の魔獣たちの動きがわずかに乱れた。
しかし、イグニアは目の前の敵だけを見つめる。
やがて魔獣の身体が支えを失い、巨体が地面へと落ちた。
轟音が大地を打つ。土が跳ね、血が弾ける。
イグニアもまた、その上へと着地した。膝をわずかに折り、衝撃を殺す。
足元で、魔獣がまだ微かに蠢いている。
イグニアは何も言わず、剣を持ち上げた。そして、ためらいなく振り下ろす。
刃が深く突き刺さり、巨体がびくりと震えた。それを最後に、巨体は完全に沈黙した。
刃に伝わっていた抵抗が、ふっと消える。握り込んだ剣の向こうで、確かに命が断たれたのを、イグニアははっきりと感じ取っていた。
次の瞬間だった。
周囲の空気が、目に見えない形で揺らぐ。
それまで統率の取れていた魔獣たちの動きが、明らかに鈍った。
噛み合っていたはずの連携が崩れ、それぞれが互いの動きを無視するように、ばらばらに暴れ始める。
まるで、頭を失った群れのように。
「……今だ!」
誰かの叫びが、戦場に火をつけた。
押し込まれていた兵たちが、一斉に前へと踏み込む。
その変化を、イグニアの身体もまた、直感的に捉えていた。
――まだ終わっていない。
足元の魔獣から視線を外し、周囲を見渡す。
すぐ近くで、アルディスを取り囲んでいた魔獣のうちの一体が、体勢を崩しながらもなお爪を振り上げていた。
その軌道を、迷いなく読む。
地を蹴る。
血で濡れた足場がわずかに滑るが、それすらも織り込んで踏み込んだ。
横薙ぎに振るった一閃が、魔獣の首筋を深く裂く。
骨に当たる手応え。
そのまま力任せに押し切ると、巨体が崩れ落ちた。
同時に、アルディスの剣が閃く。
残る一体の懐へと、最短の軌道で踏み込み、喉元を正確に貫いた。
鮮やかで、無駄のない一撃だった。
最後の一体が地に伏す。
その瞬間、二人の周囲に、わずかな“間”が生まれた。
押し寄せていた圧が、ほんの一瞬だけ引く。
兵たちの怒号も、魔獣の咆哮も、遠くへと押しやられたように感じられる。
戦場の只中に、不自然なほどの静寂。
イグニアは、ゆっくりと顔を上げる。
頬を伝う血が、顎先から一滴、地に落ちていく。
その赤と同じ色を宿した髪が、戦場の風に煽られ、炎のように揺らめいた。
土埃と血の匂いが渦巻く空気の中で、なぜかその瞬間だけ、すべてがわずかに遠のいたように感じられる。
耳に届いていたはずの剣戟も、怒号も、悲鳴さえも、薄く膜を隔てた向こう側へ押しやられていく。
ただひとつ、確かなものだけが残る。
視線だった。
引き寄せられるように、イグニアは振り返る。
その先に――アルディスがいた。
黒の甲冑を纏い、なお揺るがぬ姿で立つその男は、ただ静かに、こちらを見据えている。
仮面の奥にある紫の瞳。
深く、冷ややかでありながら、その奥底にかすかな熱を秘めた色。
その眼差しは鋭く、敵を見据えるそれと変わらぬはずなのに――どこか違っていた。
まるで、何かを探し当てたかのように。
あるいは、確かめるように。
イグニアの姿を、ただ一人の存在として捉えている。
戦場はなお動いている。
兵は叫び、刃はぶつかり、血は流れ続けている。
それでも、その一瞬だけは、確かに切り離されていた。
時間が、ほんのわずかに歪む。
二人のあいだにある距離が、意味を失う。
炎のように揺れる赤と、静かに沈む紫。
交わるはずのなかった色が、戦場の只中で、確かに重なり合う。
言葉はない。
呼びかける名も、確かめる術も、まだ存在しない。
それでも――その視線は、確かに届いていた。
イグニアという存在を。
そして、イグニアもまた、逸らすことができなかった。
理由はわからない。
だが、胸の奥が、静かに強く鳴っている。
戦いの中で初めて芽生えた、名もない感情が、確かにそこにあった。
それはまだ、形を持たない。
だが確実に、イグニアの中でそれは大きくなっていた。




