14_既視の戦場
イグニアは息を呑んだまま、丘を駆け下りた。
馬の蹄が土を打ち、乾いた音を響かせる。その音さえ、すぐに戦場の喧騒に飲み込まれていった。
前方では、すでに戦いが始まっている。
炎が揺れ、煙が立ち昇る。その向こうで、黒い影が幾つも蠢いていた。
次の瞬間、一人の兵士の身体が宙を舞った。
四足の魔獣が、横薙ぎに振るった腕で弾き飛ばしたのだ。地面へ叩きつけられた兵士は、声を上げることもできず、そのまま動かなくなる。
別の場所では、二人がかりで槍を突き立てている。だが刃は深く通らず、逆に振り払われた腕が一人の胸を裂いた。血が夜気の中へ散り、熱を帯びた匂いが鼻を刺す。
悲鳴が、遅れて響いた。
怒号が重なり、鉄のぶつかり合う音が絶え間なく続く。
イグニアは馬を止めなかった。
そのまま戦場の中へと踏み込む。
迫ってくる魔獣が、口を大きく開いた。濁った唾液が糸を引き、腐ったような臭気が流れ込んでくる。
イグニアはわずかに手綱を引き、馬の進路を逸らした。
すれ違いざまに、剣を振るう。
肉を裂く鈍い手応えが、腕へと伝わった。
深くはない。それでも十分だった。
魔獣の動きがわずかに鈍る。
その一瞬の隙を、後方にいた兵士が必死に逃げていくのが見えた。
イグニアは振り返らない。
そのまま馬を進めながら、視線だけを走らせる。
(アルディスはどこだ)
黒い甲冑の兵が多すぎる。炎に照らされては影に沈み、どれも同じように見える。判別がつかない。
だが、探さなければならない。
胸の奥で鳴り続ける不安が、判断を急かしてくる。
その時、右手側で兵の一団が押し込まれているのが目に入った。
魔獣が三体。対する人間は二人。
明らかに劣勢だ。
イグニアは手綱を引き、進路を変えた。
距離を詰めるが、一体の魔獣が兵へと飛びかかった。
間に合わない――そう思った瞬間、イグニアの身体はすでに動いていた。
手綱を放し、馬の勢いのまま前へと身を投げ出す。
着地と同時に衝撃を殺し、そのまま滑り込むように魔獣の懐へ潜り込んだ。
剣を突き上げる。
喉元へ、迷いなく。
刃が深く沈み、魔獣の喉が短く鳴る。そのまま力を失った身体が崩れ落ちた。
残りの二体が同時にこちらへ向き直る。
イグニアは一歩だけ後ろへ下がり、剣を引き抜いた。
血が滴る。
だが、構えは崩さない。
魔獣が低く唸り、地を蹴る。
――来る。
その瞬間、イグニアの身体は自然と踏み込んでいた。
刃が交差し、勢いよく振り抜く。そして、流れるように、次へ繋ぐ。
一連の動きに、迷いはなかった。
かつて何度も繰り返した動き。
身体が覚えている。
だが――
(速い)
わずかに、記憶よりも一歩早く動いている。
迫る爪。
避けきれない距離。
そのはずだった。
だが、ほんの僅かに身体が沈む。
それだけで軌道が逸れる。
爪は肩を掠めるだけで終わり、そのまま斬り上げた刃が魔獣の顎を裂いた。
最後の一体が距離を取る。
低く唸りながら、様子を窺っている。
イグニアは剣を構えたまま、呼吸を整えた。
肺が熱い。
だが、恐怖はない。
代わりにあるのは、確かな感覚だった。
(……いける)
その確信は、理由を伴わない。
だが、疑いようがなかった。
魔獣が再び跳びかかる。
同時に踏み込む。
交差した瞬間、刃が深く食い込み――次の瞬間、魔獣の身体は横へ弾き飛ばされた。
イグニア自身が、わずかに目を見開く。
今の一撃。
明らかに、重すぎた。
自分の力だけではない。
何かが、刃に乗った。
だが考える暇はない。
魔獣は地面に転がり、痙攣し、やがて動かなくなった。
周囲の兵士たちが、呆然とこちらを見ているのが視界の端に映る。
だがイグニアは、その視線を受け止めない。
すぐに顔を上げ、再び戦場の奥へと目を向けた。
(違う)
ここではない。
もっと先だ。
胸の奥が、さらに強く鳴る。
イグニアは馬へと戻り、再び戦場の奥へと駆け出した。
炎の向こうへ。
煙の向こうへ。
その先――その時だった。
視界の端に、影が走る。
上空へと反射的に顔を上げる。
黒い翼が、夜を切り裂いていた。
その動きは静かで、滑らかだった。
だが、どこか異様だった。
翼の先端は刃のように鋭く、月光を受けて鈍く光っている。長い尾が空気を裂き、ゆるやかに旋回していた。
知っている。
あれを――
視界が、ぐらりと揺らぐ。
燃え上がる炎が滲み、耳に届くはずの喧騒が、遠く引いていく。代わりに、別の光景が、無理やり押し込まれるように重なった。
あの日の戦場だ。
押し寄せる魔獣の群れ。崩れていく陣形。叫び声が交錯し、誰かの名を呼ぶ声が、すぐ隣で途切れる。
息が荒い。肺が焼けるように熱い。それでも剣を握り、前へ出ようとした、その瞬間――
影が落ちた。
見上げた先、夜空を裂くようにして、黒い翼が迫ってくる。
速い。
理解した時には、もう遅かった。
鋭い何かが身体を貫き、内側から引き裂く。息が止まり、声すら出ないまま、地面へ叩きつけられる。
衝撃。
遠ざかる音。
薄れていく意識。
最後に見えたのは、炎に照らされた空と――あの、黒い影。
記憶が、途切れる。
喉がひりつく。
心臓が、激しく打ち鳴らされる。
これは予感ではない。
確信だった。
(……あれは)
あの魔獣だ。
自分を殺したものと、同じ魔獣だ。




