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神獣の在るべき姿は〜不遇の王子に懐いたら、とことん溺愛されました〜  作者: 白凪珠希


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13_前線へ


 砦の灯りが、みるみるうちに背後へ遠ざかっていく。石壁の黒い輪郭も、見張り塔の松明の火も、やがて闇に飲まれて見えなくなった。


 前方に広がるのは、荒れ果てた黒の領土の夜だった。


 月は出ている。だがその光は弱く、痩せた大地を白く照らすばかりで、行く手を優しく照らしてくれるようなものではない。ひび割れた地面の隙間には、乾ききった草がへばりつくように生えている。ところどころに立つ枯れ木は、枝を捩じ曲げたまま夜空へと腕を伸ばし、まるで苦悶の中で固まった人影のようだった。


 風は冷たかった。


 肌を刺すような夜気が、借り物の上着の隙間から容赦なく入り込んでくる。ぶかぶかの軽鎧は肩の位置が合わず、馬の揺れに合わせて頼りなく軋んだ。だが、そんなことを気にしている余裕はない。


 イグニアは身を低くし、馬の首筋へ寄るようにして走らせた。


 闇の中、先行する兵たちの姿はもう見えない。だが、地面に刻まれた無数の蹄の跡が、進むべき方向を示していた。しかも新しい。土がまだ深く抉れ、踏み締められた匂いが残っている。


 間違いない。


 アルディスは、この先にいる。


 胸の奥が落ち着かなかった。


 ただ心配だというだけではない。もっと切迫した、説明のつかない焦りだった。置いていかれることへの苛立ちでも、戦場へ向かう高揚でもない。もっと根の深いところで、何かが警鐘を鳴らしている。


 早く行け、と。


 遅れるな、と。


 イグニアは無意識に手綱を握る手へ力を込めた。


 馬が短く鼻を鳴らし、さらに速度を上げる。


 やがて前方に、ぼんやりとした灯りが見えてきた。


 いくつもの火が、夜の闇の中で揺れている。砦ほど大きくはない。規則的に並んだその灯りは、野営用の天幕だとすぐにわかった。


 イグニアは速度を落とし、馬を岩陰へ寄せる。


 前線近くの負傷兵用の天幕だ。


 鼻を刺す匂いが、風に乗って届いてきた。血と、膿と、薬草を煮た湯の匂い。そこへ汗と泥の臭いが重なり、息をするだけで喉の奥がざらつくような、戦場の裏側の空気が漂っている。


 天幕の周囲には、松明が何本も突き立てられていた。火の色は弱く、風に煽られるたび頼りなく揺れる。その下を、血のついた布を抱えた侍女や兵がせわしなく行き交っていた。


 呻き声が聞こえる。

 押し殺したような悲鳴も。


 誰かが短く祈りの言葉を口にし、すぐまた別の誰かに呼ばれて走っていく。


 イグニアは馬を降りた。


 そのまま手綱を近くの杭へ引っかけ、闇に紛れるように身を低くする。これだけ人がいれば、黒い甲冑の者が一人増えたところで、すぐには気づかれないだろう。だが、まだ今の姿は中途半端な軽装だ。最前線へ紛れ込むには目立ちすぎる。


 物陰から様子を窺う。


 天幕の脇に、いくつかの予備装備が雑多に積まれていた。血に濡れたものもあれば、まだ使われていないものもある。中には、黒の領土の兵が身につける重装の甲冑も混じっていた。


 イグニアは息を殺し、そっと近づく。


 近くの天幕からは、怒鳴るような声が飛んできた。


「次を運べ! まだ息のある奴を先だ!」

「包帯が足りません!」

「熱した刃を寄越せ、止血する!」


 切羽詰まった空気が張り詰めている。

 その中に紛れて、甲冑を抱え上げる。

 ずしりとした重みが腕へ食い込んだ。


 鉄の匂いが濃い。汗と血の臭いも染みついている。

 イグニアは一瞬だけ目を閉じた。


(借りる)


 誰にともなく、心の中でそう告げる。


(必ず返す)


 そのまま天幕の影へ身を滑り込ませ、急いで装備をつけ替えた。借り物の軽鎧を脱ぎ捨て、内側に粗い布の下衣を整える。その上から黒い胸甲を被り、肩当てを通す。重い。だが、不思議と身体はその重さを知っていた。


 腕を伸ばし、革紐を締める。

 剣帯を結ぶ。

 最後に、フルフェイスの兜を持ち上げた。


 内側は冷たい。額にあてがうと、金属の匂いが鼻先へこもる。視界は狭くなるが、顔立ちも髪も完全に隠せる。


 イグニアはゆっくりと息を吐き、兜を被った。

 世界が一段、遠くなる。

 音が少しだけくぐもって聞こえた。

 だがそのぶん、自分が別人になったような感覚も強くなる。


 立ち上がってみる。


 重装の重みは確かにあった。軽やかとは言い難い。だが、身体は想像以上によく動いた。歩幅を合わせれば問題はない。剣を抜いてみると、柄の重みが手にしっくりと馴染む。


 その感覚に、一瞬だけ胸が熱くなった。


 騎士だった頃の自分が、骨の奥で目を覚ますようだった。


 その時、天幕の向こうから兵たちの会話が聞こえた。


「殿下はもう前へ出たぞ!」

「北側の防壁線が押されてる! あの数は異常だ!」

「増援はまだか!」

「伝令は走らせたが、間に合うかどうか……!」


 イグニアは顔を上げる。


 アルディスはもう最前線へ向かっている。


 胸騒ぎが、一段と強くなった。


 迷っている時間はない。


 イグニアは天幕の影から飛び出し、近くに繋いでいた自分の馬のもとへ戻った。馬は落ち着かない様子で鼻を鳴らしていたが、首筋を撫でるとすぐに静まる。


「行くよ」


 低く囁く。


 馬上へ身を躍らせると、今度はためらわず蹴り出した。


 負傷兵の天幕を抜けた先から、空気が変わった。


 風に乗る匂いが濃くなる。


 血の臭いだけではない。焼けた肉と、焦げた土の匂いだ。そこへ獣の臓物じみた生臭さが重なり、胃の奥をじわりと刺激する。


 耳を澄ませば、もう聞こえてくる。


 人の怒号。


 剣戟。


 魔獣の咆哮。


 それらが遠くではなく、もうすぐそこから響いていた。


 やがて視界の先に火が見えた。


 炎だ。


 複数の松明ではない。何かが燃えている大きな光。黒い煙が夜空へ立ち昇っている。


 イグニアは息を呑んだ。


 戦場だ。


 その瞬間、全身の毛穴が総毛立つような感覚に襲われた。


 既視感だった。


 いや、既視感などという曖昧な言葉では足りない。知っている。身体が、この空気を、この匂いを、この音を知っている。


 鉄がぶつかる音。

 怒鳴り声。

 何か巨大なものが地を踏み鳴らす振動。


 すべてが、前世の最期と重なる。


 あの戦場。

 あの夜。


 最後に見た光景の断片が、視界の端にちらついた。


 血に濡れた地面。

 倒れた兵。

 見上げた空。

 そこを横切る黒い影。


 イグニアははっとして手綱を強く握り直す。


(まだだ)


 ここで呑まれるわけにはいかない。

 まだ、自分は死んでいない。

 今度は違う。


 今度は――守るために来たのだ。


 馬が最後の丘を越える。


 その先に、戦場の全景が広がった。


 黒い魔獣の群れは、まるで軍勢のようだった。


 地を這う獣型のもの、異様に長い腕を振り回す巨体、そして上空には黒い翼を広げた影が幾つも旋回している。どれも夜の闇に溶け込みそうな色をしていて、松明と炎に照らされるたび鈍い光を返していた。


 人の軍勢は、それを必死に食い止めている。


 前線は、確かにまだ崩れてはいない。


 だが押されている。


 じりじりと、確実に。


 イグニアの喉がひりついた。


 その光景はあまりにも、よく知っている地獄に似ていた。


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