12_襲撃の報せ
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アルディスの腕に抱き取られた途端、イグニアは反射的にその胸元へ爪を立てかけ、すぐに慌てて引っ込めた。
だがアルディスは気にした様子もなく、片腕で支えたままカールへ視線を向ける。
「見張ってないと、また抜け出しそうだな」
「どうやら、そのようですな」
カールは静かに頷いた。口調は穏やかだが、老いた瞳は少しも緩んでいない。むしろ、主の腕の中に収まっている赤毛の猫をじっと見つめるその眼差しには、どこか試すような鋭さがあった。
「ですが殿下」
執務机の前まで歩み寄りながら、カールは低く言った。
「このようなものをお連れになるとは、珍しいこともあるものです」
カールの言葉にイグニアは顔を上げる。
すると、部屋の中がよく見えた。執務室は質素ながら広く、厚い石壁に囲まれた室内には、長机の上に地図が何枚も広げられ、駒や書簡が整然と並べられている。壁には周辺一帯の見取り図と、魔獣の出没を示す札がいくつも打ち付けられていた。窓は狭く、そこから差し込む夜気が、揺れる燭台の火をわずかに震わせている。
アルディスはイグニアを抱いたまま椅子へ腰を下ろした。
「そうか」
そっけない返事だった。
カールは少し黙った後、もう一歩だけ踏み込む。
「殿下は、以前ならばそのような真似はなさらなかった」
イグニアは耳をぴくりと動かした。
――以前なら。
その言葉には、長く仕えてきた者だけが知る“変化”が滲んでいる。
アルディスは机の上に視線を落としたまま、しばらく口を開かなかった。沈黙は短かったはずなのに、妙に長く感じられる。
やがて彼は、イグニアの頭をひと撫でしてから言った。
「……そうしなければならない気がした」
カールの眉がわずかに動く。
「それだけ、でございますか」
「それだけだ」
短く言い切る声には、取りつく島がない。だが完全な拒絶とも違った。アルディス自身も、その答えに理屈を見いだせていないのだろう。
カールは細く息を吐く。
「それだけで、この前線へ猫を連れてこられたのですな」
「捨ててくるよりはましだ」
「殿下」
咎めるような声だった。
しかしアルディスは顔を上げない。
「……この砦に連れ帰るのが正しいとは思っていない」
ぽつりとこぼす。
「だが、あのまま神殿に残す気にもなれなかった」
その声は静かで、どこか疲れていた。
カールはしばらく主の横顔を見つめていたが、やがて地図の端に手を置いた。
「王都に残しておけば、王妃派の者の目に留まったでしょう」
「だろうな」
アルディスは短く答える。
カールはわずかに目を細め、続けた。
「神殿にいた以上、事情など関係ございません。あの場にいた時点で、“忍び込んだ獣”と見なされるのが関の山」
静かな声だったが、その響きは冷ややかだった。
「今の王都は、以前にも増して息苦しい場所になりました。神獣に関わると疑われれば、王妃派の目は必ず向きます」
一拍、間を置く。
「価値があると判断されれば囲われ、利用される。……しかし、そうでなければ――」
わずかに声が落ちる。
「神聖な神殿を穢した獣として、即座に処分されるでしょう」
燭台の火が揺れ、影が歪む。
アルディスは何も言わない。
ただ、イグニアを抱く腕が、ほんのわずかに強くなった。
「そもそも税は上がり、徴発は増え、民は怯えております。表では第二王子殿下の即位を願う声ばかりが響いておりましたが……その実、誰もが飲み込んでいる」
アルディスは何も言わない。
カールは続けた。
「それでも皆、口を閉ざします。閉ざさねば生きられぬからです」
燭台の火が揺れた。
窓の外では、風が石壁を掠めて低く唸っている。
「殿下が幼い頃から、何も変わっておりませんな」
その一言に、執務室の空気がわずかに沈んだ。
イグニアはアルディスの腕の中で身を強張らせる。幼い頃、という言葉に、先ほど兵士たちが途中で口をつぐんだ会話が重なったからだ。
アルディスはようやく顔を上げた。
「昔話をする暇があるのか」
「ありませんな」
カールはあっさりと認めた。
「ですが、確認は必要でした。殿下がなお、ご自分の意志で何かを選べる状態にあるのか」
アルディスの紫の瞳がわずかに細まる。
「試したのか」
「確かめたまででございます」
その時だった。
執務室の扉が強くドンッと叩かれた。
夜の静寂を破る、鋭く切羽詰まった音だった。
「殿下!」
返事を待たず、兵士が飛び込んでくる。息が上がり、額には汗が浮かんでいた。
「最前線より急報です! 北東の防衛線が魔獣の群れに襲われています!」
カールが即座に身を翻す。
「数は」
「確認できるだけで三十……いえ、もっとです! 夜目の利く個体まで混じっていると!」
アルディスは立ち上がった。
その動きに一切の迷いはない。
「今、持ちこたえているのか」
「かろうじて。しかし、長くは――」
「わかった」
アルディスはイグニアを机の上へそっと下ろすと、壁に掛けてあった剣帯を取り、手早く腰へ回した。黒い外套を肩に掛けるその仕草は静かだが、空気の張り詰め方が先ほどまでとはまるで違う。
イグニアは思わず前足を一歩踏み出した。
行くのか。
今から。
魔獣相手に。
アルディスはちらりとイグニアを見た。その視線だけが、一瞬だけ柔らかい。
「ここにいろ」
低い声で言う。
「外へ出るな」
それだけ言うと、扉の外へ向かって命じた。
「侍女を呼べ」
「はっ!」
兵士が駆け去る。
カールは既に机上の地図をまとめていた。
「わたくしも指揮所へ参ります」
「後方支援の手配を。負傷兵の受け入れを増やせ」
「承知しております」
会話が速い。余計な言葉がない。二人とも、こういう場に慣れきっているのだ。
やがて扉の外から、ばたばたと軽い足音が近づいてきた。
「失礼します!」
顔を出したのは、先ほど洗濯室でイグニアをもみくちゃにしていた若い侍女――エルだった。濃いブラウンの髪をひとつにまとめ、錆色の瞳を大きく見開いている。
そして机の上のイグニアを見つけた瞬間、心底ほっとしたように肩を落とした。
「ああ、よかった……! いなくなっちゃったから、またどこかで迷ってるのかと思いました」
(迷ったのは事実だけど……)
イグニアが内心でむっとしたところで、アルディスが短く告げる。
「こいつの世話を頼む」
「は、はい!」
エルはぱっと表情を引き締めた。だがその目は、今にもイグニアを抱きしめたそうにうずうずしている。
アルディスはそれ以上何も言わず、踵を返した。
カールと兵士たちがそれに続く。
扉が閉まり、部屋の中に静寂が戻る。
エルは数秒、扉を見つめていた。それからイグニアへ向き直る。
「……殿下、大丈夫かしら」
ぽつりと漏れたその声に、イグニアの胸の奥がざわついた。
遠くで鐘が鳴り始める。
砦全体に、緊急招集を知らせる重い音が響き渡っていた。
その夜のうちに、アルディスは兵を率いて砦を出ていった。
イグニアはエルに抱かれたまま、その背を見送った。黒い外套を翻して闇の中へ消えていく姿が、どうしても目に焼き付いて離れない。
いてもたってもいられなかった。
胸の奥が、落ち着けと命じるどころか、逆に急き立ててくる。
行かなければならない。
あの人のそばへ。
そうでなければ、何か決定的に遅れてしまう気がした。
エルがようやく侍女部屋へ戻り、イグニアは柔らかな布が敷き詰められたカゴの中へと入れられる。
「今日の寝床はここだからね」
笑顔でエルがイグニアの頭を撫で、そしてイグニアの食事を用意しようと籠のそばから離れた、
(……さて……どうしよう)
人の姿へ変わるには、まだ不安があった。あの感覚は掴めてきているものの、完全に自在というわけではない。それに――このまま変われば、当然ながら裸になる。
イグニアは小さく息を吐いた。
(……先に、服を探さないと)
エルの様子を確認し、扉に目を向ける。ほんの少しだけ開いてるのが見えたのをいい事に、イグニアは廊下へと駆け出した。
扉から離れていく途中、背後からエルの声がした。
「え! あれ、どこ行ったの……?」
イグニアが抜け出したことに、気づいたらしい。
「え、ちょっと待って……さっきまでここに……」
困惑したような声が徐々に大きくなり、叫びへと変わった。
「うそ……またいなくなっちゃったの? どうしよう、殿下に怒られる……!」
焦りが露わになった声が、静まり返った廊下に響く。
「探さなきゃ……!」
ぱたぱたと足音を立てて、イグニアが進んだ方向の逆にエルは駆けていく。
その足音が遠ざかるのを、イグニアはじっと待った。
完全に気配が消えたのを確認してから、ようやく物陰から抜け出す。
(ごめん、エル……)
胸の中で小さく呟きながらも、足は止まらない。
今は、それどころではなかった。
まずは服だ。
砦の裏手へと回り込むと、兵舎の外壁に沿って、洗濯された衣類がいくつも干されていた。夜風に揺れる布が、かすかに擦れる音を立てている。
イグニアは素早く周囲を見回した。
人影はない。
手近な場所にあった、簡素な下衣と上着を口で引き寄せる。さらに、壁際に無造作に立てかけられていた軽装の革鎧にも目を留めた。
(……これなら)
すべてをまとめて咥え、影の濃い場所へと運び込む。
準備は整った。
イグニアは一度だけ深く息を吸い、目を閉じた。
思い浮かべるのは、かつての自分。
剣を振るい、戦場を駆けていたあの頃の身体。
熱が、胸の奥から一気に広がる。
次の瞬間、ふっと視界が揺れた。
小さな身体がほどけるように形を変え、地面に立つ。
裸足の感触が、石の冷たさを伝えてきた。
「……っ」
イグニアはすぐさま膝を折り、用意しておいた衣服を掴む。
夜気が肌に触れ、思わず肩が震えた。
「寒……っ」
急いで下衣を通し、上着を羽織る。ぶかぶかの袖に腕を通しながら、革鎧を無理やり身体に固定した。
サイズは合っていないが、今は十分だ。
赤い髪が肩に落ちるのを払い、イグニアは顔を上げる。
胸の奥が、まだわずかに熱を帯びていた。
(……行ける)
次に馬だ。
厩へ忍び込み、気性の大人しそうな一頭を選ぶ。鞍をつける手つきは、前世の記憶が勝手に動かしてくれた。
「ごめん、乗せてくれる?」
馬の首筋を叩く。
夜の冷気が肌を刺す。
砦の外では、まだ遠く鐘の音が響いていた。
イグニアは歯を食いしばり、手綱を引いた。
次の瞬間、馬は力強く地を蹴り、夜の闇へと駆け出した。




