11_訓練場
イグニアは再び歩き出す。ひんやりとした石床の感触を足裏に感じながら、細い通路を抜け、いくつもの廊下を曲がっていく。
砦の内部は入り組んでいた。似たような石壁と扉が延々と続き、方向感覚が徐々に曖昧になっていく。それでも、立ち止まることなく進み続けた。どこかに繋がっているはずだという、曖昧な直感だけを頼りに。
やがて、前方から人の気配が近づいてくる。
イグニアは反射的に足を止め、再び壁際へと身を寄せた。
現れたのは、先程とは別の兵士たちだった。同じように黒の甲冑に身を包み、剣を腰に下げている。
イグニアは視線を落とし気配を殺すと、彼らの会話は自然と耳に入ってきた。
「エイダンが騒いでたが、神獣様はとびっきりの美女らしい……それも、神秘的な鱗を持つ竜の神獣様だとさ」
「竜か……そりゃ頼もしいな。だが、レグナス殿下を選んだんだろ?」
「……アルディス殿下が選ばれていたら、話は違ったんだがな」
誰かが低く呟く。
「この先、どうなるんだろうな」
「前線は持ちこたえてはいるが……いつ崩れてもおかしくない」
短い沈黙が流れる。
その重みだけで、状況の厳しさは十分に伝わってきた。
やがて兵士たちはそれ以上言葉を交わすことなく、通路の奥へと消えていく。
足音が遠ざかるのを確認してから、イグニアはゆっくりと顔を上げた。
(前線は……拮抗している)
その言葉が、胸の奥に重く沈む。
次の瞬間、記憶がよみがえった。
鉄の匂い。
土を抉る魔獣の爪。
振るった剣の重み。
息を切らしながら、それでも前に出続けた戦場の日々。
思い出したくなどなかったはずなのに、身体は鮮明に覚えている。
(……放っておけるはずがない)
思わず、爪が石床に触れた。
かつて騎士だった自分にとって、魔獣との戦いは切り離せないものだ。どれほど姿が変わろうと、その感覚だけは消えていない。
(しかし、ここは前線だというのに……)
違和感があった。
砦の空気は、想像していたものとは異なっていたのだ。
もちろん、緊張はある。沈んだ表情を浮かべる者も少なくない。だが、それは戦況そのものへの絶望というよりも、別の理由によるものに見えた。
思い返せば、先ほどの侍女たちは実に賑やかだった。くすくすと弾む笑い声に、軽やかに行き交う足取り。前線の砦とは思えないほど、そこにはどこか日常の延長のような空気が流れていた。
その光景と、先ほど見かけた兵士たちの沈んだ表情が、頭の中でゆっくりと重なっていく。
そして、ふと気づく。
あの落ち込みは、戦況によるものではない。
アルディスが神獣に選ばれなかったこと――それに対する、やりきれない思いだったのだ。
イグニアは小さく息を吐いた。
胸の奥に、じわりと何かが広がる。それは温かさにも似ていたが、同時に、言葉にできない焦りも伴っていた。
神獣として、何をすべきなのか。
その答えは、まだどこにも見つかっていない。
考えがまとまらないまま、それでも足は止まらなかった。
やがて通路の先に、わずかな光が見えてくる。
外だ。
イグニアはそのまま足を進め、石造りの通路を抜けた。
視界が一気に開ける。
そこに広がっていたのは、砦の中庭――いや、訓練場だった。
踏み固められた土の上で、屈強な兵士たちが剣を振るっている。鋼と鋼がぶつかり合う乾いた音が、一定のリズムで響き渡り、掛け声とともに空気を震わせていた。
足が土を蹴る鈍い音。重い剣が風を裂く鋭い気配。その一つ一つが、肌を通して身体の奥へと伝わってくる。
イグニアはその場に足を止めた。
そしてただ静かに、目の前の光景を見つめる。
振り下ろされる剣の軌道。
それを受け流す無駄のない動き。
踏み込みの速さと、崩れない体勢。
どれも見覚えがあった。
いや――覚えている、というよりも、身体が知っている。
自然と、イグニアの身体がわずかに前へと傾いた。
まるで、自分もその場に立っているかのように。
(……ああ)
胸の奥から、懐かしさがこみ上げる。
朝靄の中で剣を振るった日々。何度も繰り返した素振り。手の皮が剥けても、剣を離さなかったあの時間。
騎士として生きていた頃の自分。そのすべてが、鮮やかに蘇る。
イグニアは静かに息を呑んだ。
(剣を握りたい……)
訓練場の光景にしばらく見入っていたイグニアだったが、ふと視界の端に見慣れた姿を見つけて、はっとする。
白髪をきっちりと撫でつけた、あの老紳士――カールだ。
彼は訓練場の端に立ち、兵たちの動きを一瞥したあと、何事もなかったかのように踵を返して歩き出した。その足取りは年齢を感じさせないほど静かで、しかし無駄がない。
(あの人……)
イグニアは一瞬迷った。
だが次の瞬間には、身体が先に動いていた。
音を立てないよう足を運び、壁際を選びながら、そっと後を追う。小さな身体は影に紛れやすく、意識して気配を消せば、誰の目にも留まらない。
カールは振り返ることもなく、いくつもの通路を曲がっていく。
砦の内部は複雑に入り組んでいたが、彼の歩みには迷いがない。目的地を知り尽くしている者の足取りだった。
やがて辿り着いたのは、ひときわ重厚な扉の前だった。
厚い木材で造られたその扉には、簡素ながらも精巧な金具が打ち付けられている。周囲の壁も他より整えられており、この部屋がただの居室ではないことは一目でわかった。
(ここは……)
おそらく、アルディスの執務室だ。
砦の主として、指示を出し、戦況を把握する場所。
イグニアは扉から少し離れた位置で足を止め、様子を窺った。
その時だった。
ふいに、カールの足が止まる。
そして――
ゆっくりと、振り向いた。
(……っ)
視線が、合った。
逃げる間もなかった。
次の瞬間、ひょい、と軽々しく首根っこを掴まれる。
(え⁉︎)
身体が宙に浮いた。
ぶらりと揺れる視界。前足も後ろ足も宙ぶらりんのまま、イグニアは固まるしかない。
「さて、悪い子ですね」
低く落ち着いた声が、頭上から降ってくる。思わず尻尾がぴんと伸びた。
完全に見つかっていた。
(ば、ばれてる……!)
じたばたすることもできず、イグニアはそのまま硬直した。
だが次の瞬間、ふっと身体を包む感触が変わる。
首根っこを掴んでいた手が離れ、代わりに柔らかな腕に抱き込まれたのだ。
驚くほど丁寧な手つきだった。
まるで壊れ物を扱うように、優しく支えられる。
先ほどの一瞬の扱いが嘘のように、その動きには無駄な力が一切ない。
(……この人)
ただの老人ではない。
そう思わせる所作だった。
カールは何事もなかったかのように扉へ向き直ると、軽くノックをする。
返事を待たずに扉を押し開けた。
重い扉が、静かに軋む音を立てて開く。
室内には淡い灯りが落ちていた。
大きな机の上には書類が積み重なり、壁際には地図が広げられている。砦の主が日々の戦況を把握するための部屋――その空気がはっきりと感じ取れた。
そして、その中心にいたのは――アルディスだった。
机の前に立ち、何かに目を落としていた彼が、扉の音に顔を上げる。
その視線が、まっすぐこちらへ向けられた。
そして、カールの腕の中にいるイグニアを見た瞬間――わずかに、眉が動く。
「なぜお前がそいつを抱いている」
低く、抑えた声だった。
だがその奥にある違和感は、はっきりと伝わってくる。
カールは軽く肩をすくめるようにして答えた。
「どうやら、勝手に抜け出していたようでして」
(ぬ、抜け出したわけじゃ……!)
イグニアは思わず心の中で叫ぶ。
ただ少し歩いていただけだ。探索だ。決して逃亡ではない。それに、自ら部屋を出てもないのに。
しかし、その抗議が届くはずもない。
アルディスはしばし無言のまま、イグニアを見つめていた。
紫の瞳が、静かに細められる。
次の瞬間――
「……こっちへ寄こせ」
短く言った。
カールは素直に一歩近づき、その腕の中のイグニアを差し出す。
イグニアの身体が、ふわりと持ち上げられ――アルディスの腕の中へと収まった。




