10_洗濯
(……私だって、人型になれたりしないのか?)
神獣だというのなら、姿を変えることくらい出来てもおかしくないのではないか。さきほど神殿で見た、あの美しい神獣の姿を思い出す。人の形を取り、言葉を話し、堂々と兵士たちの前に立っていた。
それに比べて自分はどうだ。
ミルクを夢中で舐めて、顔中を白くしている猫である。
(いや、待て。落ち着け)
イグニアは小さく首を振った。
神獣として生まれ変わったのは確かなはずだ。ならば、何かしら力があるはずだろう。
試してみる価値はある。
そう思い、ぐっと身体に力を入れてみる。
しかし――何も起こらない。
ただ毛が逆立っただけだった。
(……違う)
もう一度、力を込めてみる。
だが結果は同じだった。
ぴん、と尻尾の毛がふくらみ、背中の毛並みがわずかに立つだけである。
(……え)
沈黙。
机の上で固まる猫。
(まさか)
じわじわと不安が胸に広がる。
(私……本当に神獣なのか?)
あの神殿で見た光景は夢だったのではないか。神様のような存在に語りかけられた記憶も、戦場で死んだあとの出来事も、全部――。
イグニアはぶんぶんと頭を振った。
(そんなはずない)
しっかり思い出せ。
落ち着いて。あの光は確かに言った。
記憶を持て、と。
ならば――
(想像するのかもしれない)
自分のなりたい姿。
神獣としての姿。
イグニアは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。胸いっぱいに空気を吸い込み、静かに吐く。
そして思い浮かべる。
かつての自分を。
剣を握る腕。
戦場を駆ける足。
鍛えられた身体。
それでも、少しでも女らしくなりたいと伸ばしていた長い髪。
騎士として生きながらも、どこかで憧れていた女性としての自分。
その姿を、はっきりと。
強く、思い描く。
その瞬間だった。
身体の奥が、じわりと熱くなる。
次の瞬間、熱は一気に広がった。
まるで炎が身体を駆け抜けるような感覚。
イグニアは思わず目を開いた。
姿見に映っていたのは――
猫ではなかった。
そこに立っていたのは、人――イグニア自身だった。
見慣れた顔。
整った輪郭。
長い睫毛。
だが、ひとつだけ違う。
鏡に映る髪は、かつての栗色ではない。
燃える炎のような、鮮やかな赤だった。
(……)
数秒、固まりゆっくりと両手を見る。
指がある。
腕がある。
足もある。
ちゃんと人間の身体だ。
(な、なれた……)
神獣の力だ。
やはり自分は神獣だったのだ。
そう理解した瞬間――イグニアは気付いた。
視線が、ゆっくりと自分の身体を下へと辿る。
(裸……)
沈黙。
(いや、当たり前か)
猫の姿の時から裸だったのだ。
当然である。当然なのだが――
(いやいやいやいや!)
慌てて両腕で身体を隠す。
心許なく部屋を見回し、何か羽織れるものはないか探した。
机。
椅子。
棚。
鎧。
剣。
そして――ベッド。
そこに掛けられているシーツ。
(あれだ!)
手を伸ばしたその瞬間だった。
廊下の向こうから、人の気配がした。
足音が近づいてくる。
(え⁉︎)
イグニアの背筋が凍る。
(うそ、帰ってきた⁉︎)
もしアルディスだったら。
突然部屋に裸の女がいたら、そんなもの怪しいどころの話ではない。
完全に不審者だ。
イグニアは慌ててシーツを掴み、力任せに引き寄せる。
だが――間に合わない。
勢いよく扉が開いた。
「猫ちゃ〜ん」
明るい声に、ぎょっとしてイグニアは固まる。
そこに立っていたのは、さきほどの侍女だった。触りたそうにこちらを見ていた若い女性。
濃いブラウンの髪を肩口で揺らし、錆色の瞳をした若い侍女だった。柔らかな雰囲気の顔立ちで、どこか人懐こい笑みを浮かべている。砦の侍女たちの中でも年若いのだろう、どこか無邪気な気配があった。
彼女は部屋を見回し――驚愕に目を見開く。
「きゃっ……やだ!」
口元を手で覆う。
「可愛い〜! シーツで遊んでるの?」
イグニアはぱちぱちと何度か瞬きをした。
そして恐る恐る、自分の身体へ視線を落とす。
そこにあったのは――さっきまでと同じ、赤毛の猫の身体だった。
(……)
シーツに埋もれていたのは、赤毛の猫。
しかもそれは――ついさっきまで人の姿をしていたはずの、自分自身である。
どうやら、いつの間にか猫の姿に戻っていたらしい。
(戻った!)
イグニアは安堵の息を吐いた。
「あらあら……でもアルディス殿下に怒られちゃうわよ」
侍女はくすくす笑う。
「ミルクだらけでシーツで遊んじゃうなんて」
侍女は呆れたように笑いながら、くしゃくしゃになったシーツを持ち上げた。
「これは取り替えなきゃ駄目ね」
イグニアはわずかに身構えた。侍女がにこにことした笑顔のまま、こちらへ近づいてくる。
「猫ちゃんもミルクまみれだし……洗わなきゃ」
(洗う?)
嫌な予感がした。
だが次の瞬間、イグニアの予感は見事に当たることになる。侍女は迷いなくシーツごとイグニアを抱え上げたのだ。
「いい子ね〜」
にこにことした笑顔のまま、侍女は楽しそうに声を弾ませる。
「ミルクでかぴかぴになっちゃうから、お身体洗いましょうね〜」
抵抗する暇などまったくなかった。イグニアはシーツに包まれたまま抱き上げられ、そのまま部屋の外へと運び出されてしまう。
廊下をいくつか曲がり、連れてこられたのは洗濯室だった。
石造りの床の上にはいくつもの桶が並び、壁際には布や洗濯板が整然と置かれている。室内には湯気がゆらゆらと立ちこめ、温かな湿気が漂っていた。
侍女は鼻歌まじりに桶のそばへ歩み寄ると、迷いなくイグニアを持ち上げる。
「すごいおとなしい子!」
そう言って、ためらいなく湯をかけた。
じゃぶ、じゃぶ、と小気味よい音が洗濯室に響く。
「毛がふわふわ……可愛い〜!」
イグニアは完全にされるがままだった。抵抗してもどうにもならないと悟ってしまったのだ。
そのときだった。
洗濯室の扉が開き、侍女が数人入ってくる。
「あ!」
一人が声を上げた。
「さっきの殿下の胸の中にいた猫じゃないか!」
その言葉に、周囲の侍女たちが一斉にこちらを見た。
「可愛い〜!」
「小さい〜!」
あっという間に人だかりが出来る。
「エル、あんた勝手に連れてきたの?」
一人が呆れたように言うと、イグニアを洗っていた侍女――エルがふふんと胸を張った。
「だってミルクまみれだったんだもの。あの殿下が猫ちゃん洗ってくれると思う?」
その言葉に侍女たちは顔を見合わせ、すぐに納得したように頷く。
「……確かに」
そして次の瞬間だった。
「可愛い〜!」
歓声とともに、イグニアは一斉に手を伸ばされる。
撫でられ、抱き上げられ、また別の腕に渡される。柔らかな声で囁かれながら頬を寄せられ、ふわふわの毛を指先でくしゃくしゃにされる。
完全にもみくちゃだった。
(ど、どうしよう)
次から次へと抱き上げられ、撫で回され、こねくり回される。
最初こそ大人しくされるがままだったイグニアだったが、さすがに疲れてきた。頭がくらくらしてくる。
侍女たちの注意が一瞬それた、その隙だった。
するり、と腕の間をすり抜ける。
床に着地すると、イグニアは一目散に駆け出した。
廊下へ飛び出す。
石造りの長い廊下がまっすぐ伸びている。砦の内部は広く、天井も高い。壁には等間隔で灯された燭台が並び、揺れる火が廊下に長い影を落としていた。
イグニアはその中を小さな赤い影となって走り抜ける。
だが――
(どこだここ)
途中で足を止めた。
完全に迷ってしまったようだ。
どの廊下も似たような造りだ。灰色の石壁、同じ形の扉、同じ配置の燭台。方向感覚を頼りに戻ろうにも、どこから来たのかすら分からない。
アルディスの部屋が見つからない。
そのときだった。
曲がり角の向こうから、人の話し声が聞こえてきた。
イグニアはぴたりと動きを止める。
耳がぴくりと立った。
すぐに近くの物陰へと身を滑り込ませる。壁際に積まれた木箱の影に身体を押し込み、気配を殺す。
「おい、それじゃあ……」
低い声が聞こえた。
「神獣様はレグナス殿下を選んだってことだよな?」
「ああ」
別の兵士が吐き捨てるように答える。
「あんなへっぽこ王子を選ぶなんて……」
「やめろよ」
すぐに別の声が割り込んだ。
だが、その忠告を無視するように別の兵士が続ける。
「あんなのが次の王になったら……それこそ俺たちの命なんて使い捨てだ」
「へっ」
鼻で笑う声がした。
「王妃様は鼻高々だろうよ」
そこで声が少し低くなる。
「自分の息子を王にしようと必死だったんだからな……年端も行かないアルディス殿下の顔を……」
「おい!」
鋭い声が遮った。
「その話はやめとけ」
ぴたりと会話が止まる。
短い沈黙が落ちた。
兵士たちは互いの顔を見合わせ、気まずそうに視線を逸らした。
やがて誰かが小さくため息をつく。
それ以上、誰も口を開こうとはしなかった。
やがて重い足音が遠ざかっていく。
兵士たちはそのまま廊下の向こうへ歩き去っていった。
足音が完全に消えたあと、イグニアはそっと物陰から顔を出す。
廊下にはもう誰もいない。
小さく息を吐いた。
(……やっぱり)
胸の奥で確信が深まる。
この砦にいる人々は、アルディスを慕っている。
そして――何かを知っている。
兵士たちが途中で口をつぐんだあの話。そこにはきっと、この国の事情が隠されているのだろう。
イグニアはゆっくりと顔を上げた。
暗い廊下の奥を見つめる。
どこへ続いているのか分からない石の通路。その先のどこかに、アルディスがいる。
(アルディス……)
その名を心の中で呼ぶ。
胸の奥で、何かが静かに動いていた。




