9_猫
白髪の老人と、視線がぶつかった。
ほんの一瞬のことだったが、その男の目は鋭かった。ただの猫を見る目ではない。何かを確かめるような、探るような視線。
イグニアは思わず瞬きをする。
その時だった。
「カール様」
背後から侍女の声がかかった。
呼ばれた老人はゆっくりと視線を外し、振り返る。どうやらこの白髪の男の名はカールというらしい。
カールは改めてアルディスの前へ進み出ると、深く頭を下げた。
「寝室は整えてございます。湯も用意しておりますので、いつでもお入りください。アルディス殿下」
低く落ち着いた声だった。
長年仕えてきた者特有の、無駄のない礼だ。
アルディスは短く頷くだけで応じる。
それだけのやり取りだったが、広場の空気がわずかに緩んだ。
侍女たちの肩から、ほっと力が抜けるのが分かる。
誰も大きく表情を変えるわけではない。だが──アルディスが無事に戻ってきたことに安堵しているのは明らかだ。
そんな侍女たちの一人に、アルディスの背後に控えていたエイダンがそっと近づく。
「悪いが、殿下の部屋にミルクを用意してくれないか」
「ミルク、ですか?」
侍女は不思議そうに首を傾げた。
エイダンは言葉に詰まったように、ちらりとアルディスの胸元──イグニアに視線を向ける。
侍女の視線も、つられてこちらへと向かう。
そして止まった。
「……猫?」
思わず小さな声が漏れる。
その言葉をきっかけに、周囲の侍女たちの視線も一斉に集まった。
「え? 猫って……」
「本当に猫だわ」
「殿下が猫を?」
「どこから……?」
「まぁ……あんなとこに」
小さなざわめきが広がる。
イグニアはぱちぱちと瞬きをした。
先程までの暗い表情とは打って変わり、侍女たちの目が爛々と輝いており、先ほどの兵士たちとは違う。侍女たちの目には明らかに好奇心が浮かんでいた。
触りたい。
抱きたい。
そんな顔だ。
だがアルディスがいる手前、誰も近づこうとはしない。
その様子を見ていたカールが、ゆっくりと口を開いた。
「殿下」
穏やかな声だった。
「その猫は?」
問いは簡潔だった。
だが視線は鋭い。
しかし、アルディスは答えずに歩き出した。
「部屋に戻る」
それだけ言って踵を返す。
カールは一瞬だけイグニアに視線を向けたが、それ以上は何も言わなかった。
ただ静かに一礼し、道を開ける。
アルディスは振り返ることもなく石の廊下へ入っていく。
砦の内部は静かだった。
夜の時間帯だからか、人影は少ない。壁に掛けられた松明の炎がゆらゆらと揺れ、長い影を床に落としている。
石の床を踏む足音だけが、廊下に低く響いた。
やがて一つの扉の前でアルディスは立ち止まる。
どうやらここがアルディスの寝室らしい。
扉がゆっくりと押し開けられ、見回すと部屋の中は簡素だ。
厚い石壁、小さな窓、木製の机と椅子。武具を掛ける棚には鎧と剣が整然と並んでいる。豪華さとは無縁の部屋だったが、整えられており無駄がない。
アルディスは扉を閉めると、ようやく胸元へ手を入れた。
「出てこい」
低く呟く。
イグニアはそろりと外へ出ると、机の上へ下ろされた。
その瞬間、アルディスの手が頭を撫でた。
ゆっくりと、優しく。
耳の後ろをなぞる指先に、イグニアは思わず目を細める。
「確かに……妙な話だ」
アルディスがぽつりと呟いた。
「なぜお前をここまで連れて来ようと思ったのか。こんな……前線へ」
自分に問いかけるような声だった。
イグニアは小さく首を傾げる。
「下手したら神殿付近にいた方が安全だったかもしれない……」
アルディスの指が背中を撫でる。
「それなのに……」
少しだけ目を伏せた。
「なぜか放っておけなかった」
その言葉に、イグニアの胸の奥がほんのり熱くなる。
アルディスはもう一度撫でた。
「まぁ……この砦の外に出なければ安全だ」
言い聞かせるように言う。
「だからここにいろ」
その時、扉が叩かれた。
「殿下、ミルクをお持ちしました」
「入れ」
侍女が盆を持って入ってくる。
机の上にミルクの器を置くと、侍女は動きを止めた。
視線がイグニアに釘付けになっている。
明らかに触りたそうな顔だった。
だがアルディスがいる。
侍女はぐっとこらえるように、顔を顰めるとイグニアから目を逸らした。
「……では失礼いたします」
名残惜しそうに一礼し、部屋を出ていく。
扉が完全に閉められることを確認すると、アルディスはミルクをちらりと見る。
「飲め」
それだけ言った。
そして立ち上がる。
「少し席を外す。片付けることが残ってるんだ……大人しくしていろ」
そう言い残して部屋を出ていくと、部屋の中に静寂が戻る。
部屋にはイグニアだけが残された。
しばらく、じっと座っている。
目覚めてから、やっと一人になれた。
そして、ここまでのことを一つ一つ思い返す。
戦場での死。
神獣への転生。
もう一匹の神獣。
そしてアルディス。
(……私は、この国の神獣として生まれ変わった……はず)
この国に平和をもたらす存在。
だが――何をすればいいのか分からない。
そもそも方法が分からないし、なんならもう一人──あの美しい神獣の存在はなんなのだろうか。
一つの国に二匹の神獣など聞いたことがない。
考えられるとしたら、自分は実はただの猫で、あの不思議な夢は本当にただの夢であった可能性。
たまたま前世を思い出したただの猫。
──もしくは、あの美しい神獣が偽物かということ。
イグニアはぶるぶると頭を振り、その考えを振り払う。
まさか神獣を偽るなど、そんな事する者がいるわけない。
考えても、考えても答えは見つからない。そして考えたら考えるほどイグニアは自分がただの猫のように思えてきた。
しかし、ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
(……アルディス)
なぜか分からないが、直感が告げている。
あの人のそばにいなければならない。
それが自分の役目のような気がする。
ふと視線を落とす。
白い器。
そこには温かなミルクが湯気を立てていた。
(……)
鼻をひくひくさせる。
甘い匂い。
(ひとまず……)
小さく息を吐く。
(ミルクを飲もう)
イグニアは器に顔を近づけた。
ぺろり、と舌を伸ばす。
温かくて、甘くて――とても美味しかった。
夢中にぺろぺろとミルクを飲み、皿が空になりそうなところで、おもむろに視線を上げる。そこには姿見があり、顔中ミルクだらけになった猫がいる。
(……)
しばし、固まる。
鏡の中の猫も、同じように固まっていた。赤い毛並みはふわふわで、口元からは白いミルクがべっとりとついている。舌が少しだけ出ていて、いかにも夢中で飲んでいましたという顔だ。
イグニアはゆっくりと瞬きをした。
鏡の猫も瞬きをする。
そして、そろりと前足を持ち上げてみる。
鏡の猫も同じように前足を上げた。
(……私だ)
わかってはいた。わかってはいたのだ。
自分は神獣として生まれ変わった。今の姿は猫に近い獣だと、頭では理解している。
だが――
(こんな……こんなに……)
顔中ミルクだらけの猫を、まじまじと見つめる。
(完全にやっぱり猫じゃないか!!)
思わず両前足で口元をぬぐう。するとさらにミルクが広がって、毛がぺたぺたと張りついた。
鏡の中の猫は、ますますひどい顔になった。
(うわあああ……)
かつて公国の令嬢として礼儀作法を叩き込まれ、騎士として剣を振るっていた自分が、今やミルクまみれの猫である。
しかも夢中で皿を舐め回していた。
なんとも言えない脱力感が胸に広がる。
(いや、待て。落ち着け)
イグニアはぶんぶんと頭を振った。
(これはただの食事だ。必要な栄養補給だ。猫の習性に流されたわけでは――)
そこまで考えて、ふと止まる。
鏡の中の猫は、まだミルクを舐めようとしていた。
(……)
沈黙。
そして。
(……私、ほんとに大丈夫なのか)
神獣として生まれ変わり、世界を救う存在のはずなのに。
やっていることは――ミルクを舐める猫。
イグニアはしばらく鏡の前で固まり、そして静かに天井を見上げた。
(……とりあえず)
ひとつだけ、確かなことがある。
この姿のままでは――
いろいろと、まずい気がする。
そんな予感だけが、胸の奥でじわりと広がっていた。
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