プロローグ-死して目覚める-
剣の柄を握ると、世界は簡単になる。
やるべきことが、目の前に一本の線で引かれるからだ。
斬る。守る。進む。
私はそうやって生きてきた。
公爵家の長女として生まれ、礼儀作法より先に剣を覚え、舞踏会より先に鎧の重さを知った。父は「娘に剣を握らせるな」と言われても笑っていた。「この子は折れるより先に伸びる」と。母はため息をつきながらも、私の手袋のほつれを繕ってくれた。
私は騎士になった。
公爵令嬢としてはおかしな道だと、誰もが言ったけれど、私はおかしな道のほうが好きだった。まっすぐに歩ける道なんて、きっと誰でも歩ける。
それに私は——いわゆる“可憐”とは縁がない。
剣を振るってできた硬い掌。鍛錬で太くなった腕。背中の筋肉は、ドレスより鎧のほうが似合う形に育ってしまった。鏡に映る私は、女らしさというより武器に近い。
なのに、恋だけは普通にしたかったのだと思う。
婚約者の彼——王家に連なる家の嫡男で、剣も言葉も上品で、笑うと目尻が少しだけ下がる人。私が最初に恋をしたのは、たぶん彼のその目尻だった。
だけど私は、ずっと思っていた。
彼は私を好きにはならない。ならないはずだ、と。
私が彼の隣に立つとき、彼の視線はいつも私の肩ではなく、その少し向こうへ流れていく気がした。私に向けられる言葉は丁寧で、優しくて、正しい。けれど、正しさは恋ではない。
そして、それは——当たっていた。
視線の先にいるのは、いつだって可憐で美しい花だったのだから。
そう、私の妹は花みたいな子だ。
同じ家に生まれて同じ血を引いても、彼女は柔らかく笑い、柔らかく泣き、柔らかく誰かの心に触れることができる。私は剣で扉をこじ開けることしかできないのに、彼女は指先で鍵を回すだけでいい。
私は気づいていた。
婚約者の彼が、妹を見るときだけ、息をひそめるみたいに静かになることを。
妹もまた、彼の前では少しだけ頬が赤くなることを。
気づいていて——見ないふりをしていた。
公爵家の長女として、王家の縁者との婚約を結んだ以上、“大事”なのは恋よりも体面だ。私はそれを理解できるくらいには賢い。理解できるからこそ、余計に、胸の内にしまうしかなかった。
けれど、理解は心を救ってくれない。
私の心は、毎日少しずつ、黙って削れていった。
それでも、私は笑っていられた。
鍛錬場で剣を振るえば、体が熱くなって、余計な感情は汗と一緒に落ちる。部下たちと馬鹿な冗談を言えば、笑い声が胸の奥を掃除してくれる。私には“騎士”という居場所があったし、私を信じてついてきてくれる仲間がいた。
だから、あの日までは。
魔物の襲撃は、突然だった。
国境に近い村が焼かれたという報が入り、次の報では砦が落ちかけ、さらに次の報で、街道が寸断されたと聞いた。
魔物は数を増やしている。種類も変わっている。まるで、何かに導かれているように。
王都はざわついた。
貴族は議論し、神官は祈り、商人は値をつり上げ、民は不安を飲み込む。誰もが正しいことを言い、誰もが自分の身を守ろうとしていた。
私は、そのどれでもなく、剣を握った。
会議室で言葉を尽くすより、私は一歩でも前に出たかった。前線が崩れれば、次に燃えるのはこの国だ。私の部下も、妹も、婚約者も、みんな——逃げ場所を失う。
「私が行く」
口に出したとき、胸の内の削れた部分が、すうっと静かになった気がした。
叶わぬ恋も、居場所の痛みも、全部まとめて、戦場なら“理由”にできる。私はずるいのだと思う。守るためと言いながら、同時に逃げてもいた。
出陣の支度をしているとき、妹が部屋に来た。
彼女は泣いていなかった。泣くのを我慢している顔でもなかった。ただ、まっすぐに私を見た。
「姉さま、行かないで」
その言葉が、胸の鎧の隙間にすっと入り込む。
私は笑ってみせた。それはいつも慣れている顔。剣を握る前の顔。
「大丈夫。私は騎士だもの」
「騎士でも、姉さまは姉さまよ」
妹の声は、剣よりも鋭い。
私は一瞬、息が詰まりそうになって、それでも笑顔のまま頷いた。
「帰ってきたら、叱っていい。好きなだけ叱って」
「……約束?」
「約束」
妹は、それ以上言わなかった。
ただ、私の手袋をぎゅっと握って、そっと離した。
婚約者の彼は、出陣の前夜、廊下で私を呼び止めた。
月の光が窓から差し込み、彼の影が細く伸びる。彼は普段と同じ丁寧な声で言った。
「無事に戻ってください。あなたは、この国に必要な人だ」
必要。
その言葉は、私の心を傷つけない代わりに、抱きしめてもくれない。
私は笑って、敬礼の代わりに軽く拳を胸に当てた。
「はい。……“必要”なら、戻らないと困りますね」
彼は少しだけ目を伏せ、何か言いかけたように見えたけれど、結局、言葉は出てこなかった。
その沈黙が、私の恋の結末のようで、妙に可笑しく思ってしまう。
だから私は、暗くならないように、最後は冗談にした。
「帰ってきたら、甘い菓子でも奢ってください。戦場の飯は味気ないので」
「……約束します」
その“約束”だけで、私は十分だった。
十分だった、ことにしておきたかった。
前線は、想像よりずっと明るい。
いや、明るいというより、眩しかったのだ。火が。魔物の目が。鉄が。血が。
戦場は、昼も夜も同じ色をしている。すべてが赤黒く、そして——妙に鮮やかだ。
部下たちはよく戦ってくれた。
彼らの剣が折れそうになるたび、私は前に出る。
私は強い。筋肉質で、女らしくないほど強い。
だから、ここではそれが誇りになった。
最初の一日で、私たちは村を守った。
二日目で、街道を取り戻した。
三日目で、砦の手前まで押し返した。
だけど四日目、空気が変わった。
森が静かになったのだ。
鳥が鳴かず、虫の羽音もない。
風だけが吹いて、草が揺れる音だけがやけに大きい。
嫌な予感は、いつも正しい。
魔物は“群れ”ではなく、“軍”になっていた。
先頭にいたのは、獣の形をした巨体。
角は枝のように広がり、皮膚は岩のように硬い。
その背後に、牙のある影がいくつも重なる。
そして——空に、黒い翼。
「来るぞ!」
私は叫び、剣を構えた。
恐怖はあった。けれど、それ以上に、体が勝手に動く。
騎士は怖くないわけじゃない。怖いときほど、動けるように鍛えるだけだ。
衝突は、雷のようだった。
魔物の爪が盾を裂き、牙が鎧を砕く。
それでも私たちは踏ん張った。踏ん張って、笑って、叫んで、歯を食いしばって——
私の剣が、巨体の肩に深く入った瞬間、私は勝ったと思った。
勝てる、と。
次の瞬間、視界が反転した。
体が宙に浮き、地面が遠ざかる。
衝撃が背中から来て、肺の空気が全部抜けた。
何が起きたか理解するより先に、私は地面に叩きつけられていた。
土と血の味が口の中に広がる。
視界の端で、部下の一人が私の名前を叫んだ。
私は笑ってやろうとした。
大丈夫だ、まだ立てる。私は強いから。
そう思って腕に力を入れたのに、腕が言うことをきかない。指先が冷たい。妙に軽い。
空を見上げた。
翼のある影が、こちらへ落ちてくる。
黒い刃のような爪が、月光を受けて光った。
ああ、ここで終わるのか。
不思議と、暗い気持ちはなかった。
悔しいとか、悲しいとか、そういう感情は、ひとつも間に合わない。
代わりに浮かんだのは、顔だった。
部下たちの、汗だくの笑顔。
妹の、約束を確かめる瞳。
婚約者の、言いかけて飲み込んだ沈黙。
燃えないでほしい街の灯り。
守りたかった国の匂い。
——よかった。
私はちゃんと、守りたいものを持てた。
爪が落ちてくる。
最後に息を吸って、私は腹の底から叫んだ。
「下がれ! 次の陣形に移れ! 私の後ろを——守れ!」
指示は、私の人生で一番うまく出たと思う。
だって部下たちが、泣きそうな顔をしながらも、ちゃんと動いたから。
次の瞬間、痛みが来る前に、世界の音が遠のいた。
闇が落ちる、というより、眠りに沈むみたいだった。
——それで、終わり。
のはずだった。
意識が浮かび上がったとき、私は自分の体を持っていなかった。
息も心臓もないのに、私は“私”のまま。
戦場の匂いも、血の味も、全部遠い。代わりに、清い水の中にいるみたいな感覚がした。
光があった。
眩しくはない。目に刺さらない。
ただ、そこに在るだけの光。
『尊き魂よ』
声は、耳ではなく、胸の内側に直接響いた。
男でも女でもない。怒っても優しくもない。
でも、なぜか笑っている気がした。
『汝は、己の痛みを理由にせず、守ることを選んだ。
汝は、叶わぬ恋を恨みに変えず、剣を掲げた。
汝は、己を捨てるのではなく、己で世界を支えようとした』
褒められているのか、裁かれているのか分からなかった。
私は反射的に反論したくなる。騎士の癖だ。
——そんな立派じゃない。
逃げたかっただけだ。
恋から、痛みから、彼らの視線から。
でも、その言葉は口にならない。口がないから。
代わりに、私の“思い”が伝わったのか、声は続けた。
『それでも選んだ。その一点が、汝の価値だ』
光の中に、輪郭が浮かんだ。
獣の形だ。大型の猫科を思わせる、しなやかな姿。
けれど、それを獣と呼んでいいのか分からなかった。毛並みは淡く輝き、実体があるのかすら曖昧で、炎ではないはずの光が、胸の奥に熱を残す。
私はそれを見て、ただ――きれいだ、と思った。
見た瞬間、私は理解した。
これが——神獣。
『汝に、世界の均衡を担う器を与える。人の形では耐えられぬものを、汝は耐え得る。記憶は持て。痛みも持て。だが、それに飲まれるな』
私は、思わず笑ってしまう。
暗くならないための笑いじゃない。本当に可笑しかった。
だって、私の人生はずっと、「強すぎる女は愛されない」って話だったのに。
死んだら今度は「強いから選ぶ」って、なんだそれ。
……でも、悪くない。
私は強くなりたかった。守りたかった。選ばれたなら、やってやる。
光が私を包む。
骨が軋む感覚はないのに、存在の形が変わっていくのが分かった。
視界が広がる。匂いが増える。世界の流れが、血管のように見える。そして、最後に——胸の奥に、熱い核が灯った。
『いずれ汝は示すであろう』
何を──と、問う前に声は途切れた。
私は新しい肺で、初めての息を吸った。
空気が甘い。
そして私は目を開けた。




