第八夜 客
雪は、止んでいた。
夕方の空は低く、
山の輪郭が、鈍く沈んでいる。
玄関前の雪かきをしていると、
遠くで、踏みしめる音がした。
ざっ、ざっ。
一定の間隔。
急いでいない足取り。
顔を上げると、
男が一人、坂を上ってくる。
黒っぽいコートに……リュック?
年は四十前後だろうか。
——外から来た。
その瞬間、
胸の奥が、わずかに跳ねた。
何と声をかければいいのか、
一瞬わからなくなる。
「……こんばんは」
男は軽く会釈をした。
「こんばんは」
それだけ。
女将が、玄関先で出迎えていた。
「ようこそ、お越しくださいました」
いつも通りの声。
滞りのない所作。
男は、それに従うように、
静かに中へ入っていく。
客だ。
それだけのはずなのに、胸の奥が、ざわついた。
——この機会を逃すわけにはいかない。
その考えが、頭から離れなかった。
それだけのはずなのに、
胸の奥が、ざわついた。
——この機会を逃すわけにはいかない。
その考えが、
頭から離れなかった。
夜。
客は静かだった。
湯に入り、
食事をとり、
早めに部屋へ戻ったらしい。
廊下ですれ違ったとき、
軽く会釈をされた。
その背中を見て、
思わず、声をかけそうになる。
だが、
言葉は出なかった。
翌朝。
玄関に出ると、
男はすでに支度を終えていた。
「お世話になりました」
頭を下げる。
「お気を付けて」
女将が答えると、
男は荷物を背負い、
一度だけ振り返ってから、
玄関を出ていった。
——今しかない。
「あの」
雪駄を突っかけて、
慌てて追う。
男が、振り返る。
「あの、この先……」
一瞬、言葉に詰まる。
「この道、どこまで続いてるんですか」
男は、不思議そうな顔をした。
「さあ」
少し考えてから、
首を傾げる。
「気づいたら、ここに着いてました」
——は?
「来た道は?」
「んー、覚えてないですね」
悪気のない口調。
少し考えてから、
曖昧に笑う。
「……ただ、ここに来たかった気がして」
まるで、
それで十分だと言うように。
「……それでは、私はこれで」
男は軽く会釈すると、
そのまま坂の方へ歩いていく。
次の瞬間、
その背中が、雪の向こうに溶けるように消えた。
……え?
一拍、遅れて我に返る。
ちょっと待って、と言おうとして、
さらに一歩、踏み出した。
そのとき——
雪の上には、
さっきまであったはずの足跡が、ない。
「それ以上、行っちゃだめ」
背後から、
低い声がした。
枕兎だった。
少し間を置いてから、口を開く。
「……ここは」
一度、言葉を切る。
「戻れる人と……戻れない人が、いる場所だから」
珍しく、言葉に詰まっている。
「……戻れない人?」
その問いに、枕兎はすぐには答えなかった。
「……また……遭難したら困るでしょ」
それだけ言って、視線を外す。
何かが胸に引っかかる。
女将は、
少し離れたところに立っていた。
こちらを見ていない。
男が消えた坂の先を、
じっと見つめている。
まるで、
そこに何かが残っているかのように。
女将が、
ゆっくりと目を伏せた。
袖の中で、
指先が、わずかに握られる。
女将は、
男が消えた方角から視線を外さないまま、
小さく言った。
「……ありがとうございました」
――第八夜・了




