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雪月花  作者: 湯灯畳
8/13

第八夜 客

雪は、止んでいた。


夕方の空は低く、

山の輪郭が、鈍く沈んでいる。


玄関前の雪かきをしていると、

遠くで、踏みしめる音がした。


ざっ、ざっ。


一定の間隔。

急いでいない足取り。


顔を上げると、

男が一人、坂を上ってくる。


黒っぽいコートに……リュック?

年は四十前後だろうか。


——外から来た。


その瞬間、

胸の奥が、わずかに跳ねた。


何と声をかければいいのか、

一瞬わからなくなる。


「……こんばんは」


男は軽く会釈をした。


「こんばんは」


それだけ。


女将が、玄関先で出迎えていた。


「ようこそ、お越しくださいました」


いつも通りの声。

滞りのない所作。


男は、それに従うように、

静かに中へ入っていく。


客だ。


それだけのはずなのに、胸の奥が、ざわついた。


——この機会を逃すわけにはいかない。


その考えが、頭から離れなかった。


それだけのはずなのに、

胸の奥が、ざわついた。


——この機会を逃すわけにはいかない。


その考えが、

頭から離れなかった。




夜。


客は静かだった。


湯に入り、

食事をとり、

早めに部屋へ戻ったらしい。


廊下ですれ違ったとき、

軽く会釈をされた。


その背中を見て、

思わず、声をかけそうになる。


だが、

言葉は出なかった。




翌朝。


玄関に出ると、

男はすでに支度を終えていた。


「お世話になりました」


頭を下げる。


「お気を付けて」


女将が答えると、

男は荷物を背負い、

一度だけ振り返ってから、

玄関を出ていった。


——今しかない。


「あの」


雪駄を突っかけて、

慌てて追う。


男が、振り返る。


「あの、この先……」


一瞬、言葉に詰まる。


「この道、どこまで続いてるんですか」


男は、不思議そうな顔をした。


「さあ」


少し考えてから、

首を傾げる。


「気づいたら、ここに着いてました」


——は?


「来た道は?」


「んー、覚えてないですね」


悪気のない口調。


少し考えてから、

曖昧に笑う。


「……ただ、ここに来たかった気がして」


まるで、

それで十分だと言うように。


「……それでは、私はこれで」


男は軽く会釈すると、

そのまま坂の方へ歩いていく。


次の瞬間、

その背中が、雪の向こうに溶けるように消えた。


……え?


一拍、遅れて我に返る。


ちょっと待って、と言おうとして、

さらに一歩、踏み出した。


そのとき——


雪の上には、

さっきまであったはずの足跡が、ない。


「それ以上、行っちゃだめ」


背後から、

低い声がした。


枕兎だった。


少し間を置いてから、口を開く。


「……ここは」


一度、言葉を切る。


「戻れる人と……戻れない人が、いる場所だから」


珍しく、言葉に詰まっている。


「……戻れない人?」


その問いに、枕兎はすぐには答えなかった。


「……また……遭難したら困るでしょ」


それだけ言って、視線を外す。


何かが胸に引っかかる。


女将は、

少し離れたところに立っていた。


こちらを見ていない。


男が消えた坂の先を、

じっと見つめている。


まるで、

そこに何かが残っているかのように。


女将が、

ゆっくりと目を伏せた。


袖の中で、

指先が、わずかに握られる。


女将は、

男が消えた方角から視線を外さないまま、

小さく言った。


「……ありがとうございました」


――第八夜・了

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