第六夜 雪遊び
雪は、相変わらずよく降っていた。
ざっ、ざっ、と音を立てて、
庭の雪を脇へ寄せる。
作務衣の袖をまくり、スコップを入れるたび、
雪が小さく崩れる。
あれから客の来る気配もなし。
宿の中は、正直なところ、まあまあ綺麗だ。
だが、外は別だった。
降って、積もって、また降る。
放っておけば、玄関も庭もすぐ埋まる。
結局、毎日の仕事の大半は――雪かきだ。
ざっ、ざっ。
「いや~、相変わらずの雪ですニャ~」
声がして振り向くと、縁側に湯猫が座っている。
「いつもご苦労様ですニャ」
「いやいや、こちらこそ助かってますよ」
そう言って、雪を放る。
やがて酒猿も出てきて、スコップを手に取った。
「こう毎日じゃ、飽きてきやしませんかい」
「いやいや、それもこれも、
美味いまかないのおかげで頑張れてますよ」
酒猿はまかないと称して、いつも何かしらの創作料理を出してくる。
それが、だいたい美味くていい励みになっている。
三人並んで、黙々と雪を寄せる。
「あ!」
瞬間、不覚にも、雪の下の氷に気付かずにすっ転ぶ。
視界が一度、真っ白になる。
受け身は、勝手に出た。
起き上がろうとしたところで、
横にいた酒猿が手を差し出しながら、じっとこちらを見ている。
「……今の、うまい動きでしたねぇ」
「……うまい?」
自分でも、少し間の抜けた声だと思った。
「ああいう転び方、受け身っていうんですか?
……とても素人の動きにゃ見えねぇですよ」
「……そうですか?」
酒猿に手を借りて起き上がる。
正直、褒められるようなことをした覚えはない。
ただ、余計なところが出ただけだ。
「何かやってるんですかい?」
「ああ、まあ一応……合気をちょっと」
「ほう、合気ですかい」
酒猿はやや興奮気味だ。
「あっし、こう見えて格闘技が大好きでして」
「……へえ、そうなんですか」
意外……でもないか。
「ありますよね。合気っていえば……」
少し言葉を選ぶ仕草。
「握手から、べしゃんって」
「あ~……」
どこで聞きかじったのか……
正直あまり深堀りはされたくない。
そんな会話に、湯猫は興味があるのかないのか、
相変わらずの寝ぼけ顔で尻尾を振っているだけ。
……のように見えたのだが。
「見たいですニャ~」
「え」
「その、べしゃっていうニャ」
「いやいやいや」
即座に首を振る。
「やりませんやりません」
「ええー……」
不満そうな湯猫。
「……見たいったって、危ないじゃないですか」
「雪だから安全ですニャ」
湯猫が、ちらっと酒猿を見る。
「ワガハイは見てるので、酒猿にやってみてほしいですニャ」
間。
「……は?」
酒猿の声が裏返る。
「え、何であっし?」
湯猫が、涼しい顔で言う。
「強いじゃないですニャ~、腕っぷし」
「いや、だからって……」
酒猿が、半歩引いたまま言い淀む。
その様子を見て、
これ以上引っ張ると面倒になるのが、はっきりわかった。
一度、息を吐く。
「……じゃあ」
言葉を選ぶ。
「本当に、一瞬だけです。
それで終わりにしてください」
湯猫は明らかなわくわく顔。
酒猿は、まだ納得していない顔だ。
「いや、あっし、別に――」
「無理なら、やりません」
そう言うと、
逆に酒猿が黙った。
数秒の間。
「……お手柔らかにお願いしやすよ?」
「ええ」
酒猿が、恐る恐る手を差し出す。
握手。
次の瞬間。
「――っ!?」
酒猿の顔が、目に見えて強張った。
「……ま、まっ」
声にならない声。
膝が、がくりと落ちる。
ふかふかの雪の上に、片膝。
「……っ、く……」
すぐに手を離す。
「……大丈夫ですか」
数秒。
やがて、酒猿が顔を上げた。
「……」
一拍。
「……こりゃ、想像以上ですなぁ」
湯猫が、目を丸くする。
「勝手に倒れたように見えましたニャ……」
「まあ、そういうもんです」
胸の奥が、少しざわつく。
「……もうやりませんよ」
酒猿は、雪を払って立ち上がる。
「……いや、こりゃ参りました……貴重な体験を」
湯猫が、満足そうに頷く。
「何したのかさっぱりでしたニャ~」
そう言って、スコップを取り直す。
雪かきに戻る。
玄関まわり。
門の前。
やがて、日が傾き始める。
「そろそろ湯、いきますかニャ」
湯けむりの向こうに、
雪に沈む庭が見えた。
凍てつく労働のあとに温泉。
「スキーと温泉がセットなの、わかる気がしますね」
湯猫が笑う。
「やらないんですニャ?」
「ウィンタースポーツはあんまり……」
言ってから、
少しだけ、言葉を飲み込んだ。
今日は、やや長湯してしまった。
湯冷ましがてら、
館内をゆっくり歩く。
廊下の先、
外に近い暗がりに、
人影があった。
女将だった。
ガラスの向こうは、
夜の色をしている。
室内の闇とは、
少し違う。
女将は、そこから動かず、
外を見ているようだった。
声をかけようとして、
足を止める。
今の自分には、
特に用事がない。
そう思った、そのとき。
「……今日もお疲れさまでした」
女将の方から、
静かに声がかかった。
距離は、そのまま。
「あ……はい」
それだけ答える。
「このあたり……
夜は、少し冷えますから」
女将はそう言って、
一歩、身を引いた。
視線はもう、
ガラスの外には向いていない。
何を見ていたのかは、
わからなかった。
「……おやすみなさい」
軽く一礼して、
女将は廊下の奥へと去っていく。
そこには、
夜の静けさと、
淡いガラスの反射だけが残った。
しばらく立ってから、
自分も部屋へ戻る。
今日も、
やることは終わった。
客室から移った新しい小部屋にも、
すっかり慣れた――
布団を敷いて、横になる。
湯の余熱が、
ゆっくりと抜けていく。
……明日も、
雪なんだろうな。
――第六夜・了




