第四十夜 花と月
村がまだ遠くに見える、
山道。
疵の男は、足を止めた。
「俺は、ここで降りる」
薬売りが、眉をひそめる。
「あ?」
「用事ができた」
それだけ。
「……ふん、
勝手にしろ!
分け前はやらんぞ」
薬売りは、興味を失ったように言う。
「こんな村に何の未練があるのか知らんが、
とにかく、ろくなところじゃない」
疵の男は、答えない。
ただ黙って、
薬売りが背負っていた荷を解き――
預けていた刀を、
手に取る。
鞘鳴りが、
夜気に、
小さく響いた。
*
少し前の、昼時。
境内は、久しぶりに賑わっていた。
酒の匂い。
笑い声。
弁当の蓋が開く音。
「今年は、いい桜だな」
「温泉粥も、効いたって話だ」
女将の周りには、人が集まる。
礼を言う者。
笑いかける者。
ゆき姉は、
少し離れたところで、
杯を運び、
皿を下げる。
誰にも、気づかれず。
誰にも、呼ばれず。
それで、いいと思っていた。
*
祝いの席は、
夜まで続いた。
そして――
笑い声も、
酒の匂いも、
風にほどけ、
境内には、
月だけが残る。
満月。
白い光。
散りきれなかった桜が、
枝に、
地に、
影のように留まっている。
はる坊は、
片付けの名残で、
そこにいた。
ゆき姉も、
同じだった。
言葉は、
交わさない。
交わせない、
というより、
どちらも、
どこから話せばいいのか、
わからなかった。
安心が、
あった。
居場所が、
あった。
その中で――
確かに、
芽吹いてしまったものが、
ある。
ゆき姉は、
それに、
気づいていた。
気づいてしまったから、
どうしていいか、
わからない。
このままでいいのか。
このままでは、
だめなのか。
月明かりが、
桜を透かす。
風が、
ひとひら、
ふたひら。
「ねえ……」
何かを伝えたくて、
ゆき姉が、
振り向きかける。
夜桜の光が、
背に、
肩に、
まとわりつく。
服の気配が、
そこだけ、
消えている。
雪のような白と、
花の影。
そして、
その視線。
生きたいとも、
消えたいとも、
言わない目。
ただ――
「いま、ここにいる」
というだけの、
危うい光。
はる坊は、
それを――
ただ、
そこに、
咲いているだけの――
人ならざる、
透明な、
ゆき姉を――
見つけてしまった。
その瞬間、
胸の奥で、
真っ白な何かが――
音もなく、
堕ちた。
――第四十夜・了




