第四夜 出立
目が覚めたとき、まず思ったのは――
身体が、軽い、ということだった。
昨日までの寒気やだるさが、嘘みたいに引いている。
指先まで血が通っている感じがして、思わず手を握ったり開いたりした。
布団の中で、ひとつ息をつく。
……これは、もう大丈夫だな。
障子を開けて、窓の外を見る。
吹雪はやんでいた。
空はまだ重たい色をしているが、雲は薄く、向こうに光の気配がある。
これなら――
帰れるかもしれない。
部屋で洗面を済ませる。
タオルで顔を拭いていると、部屋のドアの向こうから薄っすらと漂う香り。
……魚?
ドアを開け廊下に出てみる。
いかにも旅館の朝ごはんという、焼き魚の香り。
そんなわけないよな。
いやしかし、あり得るのかここなら?
そう思ったところで、廊下の先から足音がした。
「おはようございます」
女将が、こちらに歩いてくる。
「……あ」
思わず声が漏れた。
「お顔のお色が、ずいぶんよろしいですね。
お身体、楽になられましたか」
「ええ……はい。おかげさまで」
本当に、その通りだった。
「では、朝餉の支度を。
お部屋にお持ちしますね」
「い、いえ、そんな……」
断りかけたが、言葉が続かなかった。
完全にできあがってる匂いだし、断れる状況じゃない。
それは自分でも、よくわかっていた。
部屋に戻って、しばらく待つ。
ほどなく、襖の向こうから声。
「失礼いたしやす」
襖が開いて姿を見せたのは、板前姿の男――
今度は頭に耳がない、つまりまともな――
いや、よく見ると、尻尾がある。
「板場を預かっとります。酒猿と申します」
渋い声だが、丁寧な言葉。
昔やんちゃしてたけど今は職人、という風な。
……いや、でも猿か。
「お口に合うかどうか……」
そう言って、お膳を静かに置く。
焼き魚。
煮びたし。
小鉢、香の物、吸い物。
そして――温玉の乗った、緑の鮮やかなお粥。
思わず、喉が鳴った。
「……すいません、いただきます」
箸を取る。
一口。
……うまい。
焼き魚は香ばしく、身がふっくらしている。
小鉢も、出汁の味がやさしい。
そして、お粥。
昨夜も食べたはずなのに、まるで別物だった。
「これ……」
思わず顔を上げる。
「このお粥、あなたが?」
酒猿は、首を振った。
「いや……それは女将の手製で。
あっしには、どうやっても作れねぇんです」
「へえ……」
「温泉で炊いてるってのは、わかってるんですがね。
真似してみても、どうにもならなくて」
どこか、悔しそうに笑った。
その後も箸は止まることなく、あっという間に、すべて平らげていた。
「ごちそうさまでした」
「お口に合ったようで安心しやした。ご粗末さまで」
どこか時代劇のような言葉を置いて、お膳を下げる。
さて。
――帰らなきゃ。
着替えて、部屋で荷をまとめる。
財布を手に取って、少し迷ってから、ポケットに入れた。
ええと、玄関は、こっちか。
廊下に案内の表示がある。
ロビーは開放感があり、玄関から差す雪明かりで明るい。
外の空気が少しだけ感じられるが、囲炉裏のテーブルには炭が起きていて、ほのかに暖かかった。
フロントと思しきカウンターはあるが、人の気配はない。
「すみません」
声をかける。
しばらくして、女将が現れた。
「もう、お出かけですか」
「はい……」
言葉を選ぶ。
「もともと、一泊の予定で出てきたもので。
このままだと、心配をかけてしまいますし」
女将は、少し考えるように首を傾げた。
「雪解けまで、待たれても……」
「いえ」
きっぱりと、首を振った。
「それは……さすがに」
ここで、逃げたらだめだ。
「それで……まず、宿泊代を」
女将は、きょとんとした顔をした。
そこへ、ひょいと湯猫が顔を出す。
「どーしましたニャ?」
「いやあの、宿泊代を……」
「あー……」
湯猫は、少し考えてから言った。
「そういうの全然考えてないですニャ~」
「え?」
「まあ、細かいことは置いとくですニャ」
「置いとくって……」
財布を取り出す。
中身を全部、囲炉裏の縁に置いた。
「今、手持ちはこれしかありません。
命まで助けていただいて……正直、足りないとは思いますが」
札は、五万円ほど。
「また、必ずお礼に来ます。
ですから、連絡先だけでも……」
「あー、電話とかも……無いんですニャ~」
「……住所は?」
「住所……どこなんでしょうニャ。
山の中ですからニャ~」
何を聞いても、この調子でのらりくらりとかわされる。
――だめだ。
「とにかく、行ってきます」
そう言って、深々と頭を下げた。
外へ出る。
雪は落ち着いている。
視界も、悪くない。
道を、歩く。
何度も振り返りながら、必死に道順を覚えようとする。
……なのに。
迷い、戻り、また迷い。
気づけば、旅館の前だった。
もう一周。
それでも同じ場所。
念のためにスマホの地図。
――だめだ。
玄関をくぐる。
女将。
湯猫。
囲炉裏。
そして――置いたままの、札。
「……」
女将が、微笑んだ。
「おかえりなさい」
……なんか、かっこわる。
――第四夜・了




