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雪月花  作者: 湯灯畳
36/59

第三十六夜 隙間風

雪月花は、

朝から忙しかった。


今日はいよいよ、

新たな献立を、

客に出す。


ゆき姉は、

その板場の片隅にいた。


早朝から、

粥を仕込み、炊く。


火加減、味付け、

そのすべてを、任されていた。


土鍋に炊きあがった粥に、

温泉で半茹でにした、

卵をひとつ。


女将の、

仕上げだった。


 



 


昼下がり。


掃除が、

ひと段落した頃。


女将は、

廊下の奥で、

足を止めた。


仲居の一人が、

帳場脇で、

手を動かしている。


動きは、

きちんとしている。


だが、

目線が、

定まらない。


このところ、

ずっと、

そうだった。


女将は、

何も言わず、

姐さんに、

目配せをする。


姐さんは、

小さく、

頷いた。


「……あんた」


姐さんが、

軽く、

声をかける。


仲居は、

少し、

肩をすくめた。


「ここ何日か、

 宿に、

 詰めきりじゃないの」


「たまには、

 外で、

 お茶でも飲んできなね」


気遣うような、

言い方だった。


だが、

仲居は、

即座に、

首を振る。


「いえ」


「大丈夫です」


その否定が、

妙に、

きっぱりしていた。


女将は、

その様子を、

黙って、

見ている。


――あの日からだ。


昼過ぎに、

仲居の主人が、

ひとり、

訪ねてきた日。


短い、

立ち話。


それだけで、

帰っていった。


それ以来、

湯殿に、

長く留まらず。


人の集まる時間を、

避け。


胸元に、

手をやる癖。


女将の目は、

そこを、

見逃さなかった。


そのとき。


仲居の懐から、

白いものが、

わずかに、

のぞいた。


細く、

折られた、

紙。


赤い糸で、

結ばれている。


女将の視線が、

そこに、

留まった。


「それ……」


言いかけた瞬間、

仲居は、

はっとして、

胸元を、

押さえた。


「……何でも、

 ありません」


言葉は、

そう言い切った。


だが、

否定は、

遅れた。


女将は、

それ以上、

踏み込まない。


ただ、

小さく、

息を吐く。


「今日は、

 もう、

 上がりなさい」


「あとのことは、

 心配しなくていいから」


仲居は、

驚いたように、

顔を上げ。


やがて、

深く、

頭を下げた。


「……ありがとうございます」


去っていく背中を、

女将は、

長く、

見送っていた。



夜。


雪月花が、

静まり返った頃。


女将は、

灯りを落とし、

ひとり、

裏口を出た。


行き先は、

神社。


境内には、

風の音と、

湯の匂いだけが、

残っている。


「神主さま」


社の奥で、

灯が、

揺れた。


「……どうしました」


女将は、

名を伏せながら、

胸中を、

そのまま、

話した。


最近、

様子のおかしい者が、

いること。


声をかけても、

多くを、

語らぬこと。


懐にあった、

白い紙を、

咄嗟に、

隠したこと。


「前に一度、

 身内が、

 訪ねてきたのを、

 見ました」


「様子が変わったのは、

 その頃からかと……」


「それ以来、

 外に出た様子も、

 ありません」


話し終えると、

爺ちゃんは、

しばらく、

黙っていた。


やがて、

ぽつりと、

言う。


「この白咲村に、

 風が、

 入り始めた……

 かもしれません」


女将は、

息を、

詰める。


「人に、

 知れたら、

 困ること」


「おそらくは、

 病の類」


「うつると思わせ、

 糸にして、

 絡めとる」


「毒蜘蛛の、

 ように」


しばし、

沈黙。


「昔から、

 ようある、

 やり口ではあります」


「声を荒げず、

 手も汚さず」


「家の中から、

 静かに縛る」


爺ちゃんは、

静かに、

続けた。


「冷えは、

 まだ、

 浅い、とはいえ――」


「このままでは、

 村の重石になりましょう」


女将の手に、

きゅっと力がこもる。


「……間に合いますか」


「今なら、まだ」


「名も出さず、

 恨みも残さず」


「"戻れる"うちに、

 糸を切ればいい」


夜の境内に、

湯気が、

ゆっくりと、

流れていった。


 


――第三十六夜・了

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