第三十六夜 隙間風
雪月花は、
朝から忙しかった。
今日はいよいよ、
新たな献立を、
客に出す。
ゆき姉は、
その板場の片隅にいた。
早朝から、
粥を仕込み、炊く。
火加減、味付け、
そのすべてを、任されていた。
土鍋に炊きあがった粥に、
温泉で半茹でにした、
卵をひとつ。
女将の、
仕上げだった。
*
昼下がり。
掃除が、
ひと段落した頃。
女将は、
廊下の奥で、
足を止めた。
仲居の一人が、
帳場脇で、
手を動かしている。
動きは、
きちんとしている。
だが、
目線が、
定まらない。
このところ、
ずっと、
そうだった。
女将は、
何も言わず、
姐さんに、
目配せをする。
姐さんは、
小さく、
頷いた。
「……あんた」
姐さんが、
軽く、
声をかける。
仲居は、
少し、
肩をすくめた。
「ここ何日か、
宿に、
詰めきりじゃないの」
「たまには、
外で、
お茶でも飲んできなね」
気遣うような、
言い方だった。
だが、
仲居は、
即座に、
首を振る。
「いえ」
「大丈夫です」
その否定が、
妙に、
きっぱりしていた。
女将は、
その様子を、
黙って、
見ている。
――あの日からだ。
昼過ぎに、
仲居の主人が、
ひとり、
訪ねてきた日。
短い、
立ち話。
それだけで、
帰っていった。
それ以来、
湯殿に、
長く留まらず。
人の集まる時間を、
避け。
胸元に、
手をやる癖。
女将の目は、
そこを、
見逃さなかった。
そのとき。
仲居の懐から、
白いものが、
わずかに、
のぞいた。
細く、
折られた、
紙。
赤い糸で、
結ばれている。
女将の視線が、
そこに、
留まった。
「それ……」
言いかけた瞬間、
仲居は、
はっとして、
胸元を、
押さえた。
「……何でも、
ありません」
言葉は、
そう言い切った。
だが、
否定は、
遅れた。
女将は、
それ以上、
踏み込まない。
ただ、
小さく、
息を吐く。
「今日は、
もう、
上がりなさい」
「あとのことは、
心配しなくていいから」
仲居は、
驚いたように、
顔を上げ。
やがて、
深く、
頭を下げた。
「……ありがとうございます」
去っていく背中を、
女将は、
長く、
見送っていた。
*
夜。
雪月花が、
静まり返った頃。
女将は、
灯りを落とし、
ひとり、
裏口を出た。
行き先は、
神社。
境内には、
風の音と、
湯の匂いだけが、
残っている。
「神主さま」
社の奥で、
灯が、
揺れた。
「……どうしました」
女将は、
名を伏せながら、
胸中を、
そのまま、
話した。
最近、
様子のおかしい者が、
いること。
声をかけても、
多くを、
語らぬこと。
懐にあった、
白い紙を、
咄嗟に、
隠したこと。
「前に一度、
身内が、
訪ねてきたのを、
見ました」
「様子が変わったのは、
その頃からかと……」
「それ以来、
外に出た様子も、
ありません」
話し終えると、
爺ちゃんは、
しばらく、
黙っていた。
やがて、
ぽつりと、
言う。
「この白咲村に、
風が、
入り始めた……
かもしれません」
女将は、
息を、
詰める。
「人に、
知れたら、
困ること」
「おそらくは、
病の類」
「うつると思わせ、
糸にして、
絡めとる」
「毒蜘蛛の、
ように」
しばし、
沈黙。
「昔から、
ようある、
やり口ではあります」
「声を荒げず、
手も汚さず」
「家の中から、
静かに縛る」
爺ちゃんは、
静かに、
続けた。
「冷えは、
まだ、
浅い、とはいえ――」
「このままでは、
村の重石になりましょう」
女将の手に、
きゅっと力がこもる。
「……間に合いますか」
「今なら、まだ」
「名も出さず、
恨みも残さず」
「"戻れる"うちに、
糸を切ればいい」
夜の境内に、
湯気が、
ゆっくりと、
流れていった。
――第三十六夜・了




