第三十二夜 懐味
朝の湯は、
静かだった。
湯口から落ちる音だけが、
湯気の裏で、一定の調子を刻んでいる。
ゆき姉は、
水飲み桶を持って立っていた。
昔のように、
怖がることは何もない。
源泉は、
もう遠くない。
量も、
温度も、
最初から、分かっている。
それが、
少しだけ、さびしかった。
*
「ねえ、ゆき姉」
はる坊は、
縁側に座ったまま、
足をぶらぶらさせている。
「また、あのお粥、作ってよ」
一度、
視線が落ちる。
「……久しぶりに、食べたいな」
もう、必要ない。
熱も、ない。
息も、苦しくない。
それでも、
はる坊は、
あの味を、
欲しがっていた。
それが少しだけ、
嬉しかった。
「……いいよ。じゃあ、また作る」
*
水場で、鍋を仕込む。
米を研ぎ、大根を葉ごと刻む。
水と、温泉とを半分ずつ張って。
味付けは、塩と味噌を少々。
囲炉裏の鉤に吊るして、火加減を見る。
はる坊が、口を開きかけて、
そのまま、閉じた。
囲炉裏の上で、
鍋が、ことりと鳴る。
米がほどけ、
大根が透けて、
白の中に、ゆるやかな動きが生まれる。
それを見て、
ゆき姉は、
そっと目を細めた。
「……」
何か言いかけて、
やめた声。
「……懐かしいね」
それだけ。
はる坊は、
縁側から身を乗り出して、
鍋を覗き込む。
「そういえば、この匂い――」
「何か、不思議な感じだよね」
「何かを思い出すような……」
火を弱める。
吹きこぼれないように、
焦がさないように。
かつて、
何度も繰り返した手順。
「……あのね」
ゆき姉の声が、
少しだけ低くなる。
「一つ、
言ってなかったことがあるの」
はる坊は、
鍋から目を離さず、
「なに?」と返す。
「……このお粥」
しばらく、
白い湯気を見つめてから。
「実は……普通じゃないの」
鍋の中で、
白が、静かに揺れる。
「あのとき、
湯屋の裏で、
噂を聞いて……」
「温泉……
飲むと効く、って」
言葉を選びながら、
続ける。
「最初は……
本当に、ほんの少しだけ」
「水に混ぜて、
分からないくらい」
「だから、
黙ってたんだけど……」
沈黙。
はる坊は、
驚いた顔は、しなかった。
しばらくして、
ぽつりと。
「……そうなんだ、温泉……」
はる坊は、
ようやく鍋から顔を上げる。
「……」
「だんだんさ……」
何かを思い出すような仕草。
「だんだん、
美味しくなっていったよね」
「最初より、
あとになってからの方が」
「なんか……
身体に、すっと入る感じで」
謎が、
解けていく。
「病気がよくなっていったから……
だけじゃない、よね、やっぱり」
ゆき姉は、
目を瞬いた。
「……気づいてたの?」
「ううん」
首を振る。
「あのときは、分かんなかった」
「でも、今思うと」
少し、
笑う。
「だからなのかなって」
鍋を下ろす。
椀に盛る。
白く、
やわらかい。
昔と同じ。
二人で、
向かい合って座る。
一口。
「……やっぱり、この味」
はる坊は、
そう言って、
匙を止めない。
「温泉飲んだ味とは、
全然違う……」
しばらくして、
何気ない調子で。
「ねえ、これさ」
「もし――」
「温泉だけで、炊いたら――
どうなるんだろう」
ゆき姉は、
返事をしなかった。
鍋の底に、
もう一度、
目を落とす。
白い湯気が、
ゆっくりと、
立ちのぼっていた。
*
庵の外。
村道を、
草鞋の音が、通る。
薬箱を背負った男が、
立ち止まり、
湯の匂いを、吸い込んだ。
「……いい村だな」
連れの一人が、
笑う。
「与しやすそうだ」
一行は、
何事もない顔で、
村に、溶けていった。
*
鍋は、
空になっている。
湯気だけが、
まだ、
そこにあった。
――第三十二夜・了




