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雪月花  作者: 湯灯畳
32/60

第三十二夜 懐味

朝の湯は、

静かだった。


湯口から落ちる音だけが、

湯気の裏で、一定の調子を刻んでいる。


ゆき姉は、

水飲み桶を持って立っていた。


昔のように、

怖がることは何もない。


源泉は、

もう遠くない。


量も、

温度も、

最初から、分かっている。


それが、

少しだけ、さびしかった。


 



 


「ねえ、ゆき姉」


 


はる坊は、

縁側に座ったまま、

足をぶらぶらさせている。


 


「また、あのお粥、作ってよ」


 


一度、

視線が落ちる。


 


「……久しぶりに、食べたいな」


 


もう、必要ない。


熱も、ない。

息も、苦しくない。


それでも、

はる坊は、

あの味を、

欲しがっていた。


それが少しだけ、

嬉しかった。


 


「……いいよ。じゃあ、また作る」


 



 


水場で、鍋を仕込む。


米を研ぎ、大根を葉ごと刻む。


水と、温泉とを半分ずつ張って。


味付けは、塩と味噌を少々。


囲炉裏の鉤に吊るして、火加減を見る。


 


はる坊が、口を開きかけて、

そのまま、閉じた。


囲炉裏の上で、

鍋が、ことりと鳴る。


米がほどけ、

大根が透けて、

白の中に、ゆるやかな動きが生まれる。


それを見て、

ゆき姉は、

そっと目を細めた。


「……」


何か言いかけて、

やめた声。


「……懐かしいね」


それだけ。


はる坊は、

縁側から身を乗り出して、

鍋を覗き込む。


「そういえば、この匂い――」


「何か、不思議な感じだよね」


「何かを思い出すような……」


火を弱める。


吹きこぼれないように、

焦がさないように。


かつて、

何度も繰り返した手順。


「……あのね」


ゆき姉の声が、

少しだけ低くなる。


「一つ、

 言ってなかったことがあるの」


はる坊は、

鍋から目を離さず、

「なに?」と返す。


「……このお粥」


しばらく、

白い湯気を見つめてから。


「実は……普通じゃないの」


鍋の中で、

白が、静かに揺れる。


「あのとき、

 湯屋の裏で、

 噂を聞いて……」


「温泉……

 飲むと効く、って」


言葉を選びながら、

続ける。


「最初は……

 本当に、ほんの少しだけ」


「水に混ぜて、

 分からないくらい」


「だから、

 黙ってたんだけど……」


沈黙。


はる坊は、

驚いた顔は、しなかった。


しばらくして、

ぽつりと。


「……そうなんだ、温泉……」


はる坊は、

ようやく鍋から顔を上げる。


「……」


「だんだんさ……」


何かを思い出すような仕草。


「だんだん、

 美味しくなっていったよね」


「最初より、

 あとになってからの方が」


「なんか……

 身体に、すっと入る感じで」


謎が、

解けていく。


「病気がよくなっていったから……

 だけじゃない、よね、やっぱり」


ゆき姉は、

目を瞬いた。


「……気づいてたの?」


「ううん」


首を振る。


「あのときは、分かんなかった」


「でも、今思うと」


少し、

笑う。


「だからなのかなって」


鍋を下ろす。


椀に盛る。


白く、

やわらかい。


昔と同じ。


二人で、

向かい合って座る。


一口。


「……やっぱり、この味」


はる坊は、

そう言って、

匙を止めない。


「温泉飲んだ味とは、

 全然違う……」


しばらくして、

何気ない調子で。


「ねえ、これさ」


「もし――」


「温泉だけで、炊いたら――

 どうなるんだろう」


ゆき姉は、

返事をしなかった。


鍋の底に、

もう一度、

目を落とす。


白い湯気が、

ゆっくりと、

立ちのぼっていた。



庵の外。


村道を、

草鞋の音が、通る。


 


薬箱を背負った男が、

立ち止まり、

湯の匂いを、吸い込んだ。


 


「……いい村だな」


 


連れの一人が、

笑う。


 


「与しやすそうだ」


 


一行は、

何事もない顔で、

村に、溶けていった。



鍋は、

空になっている。


湯気だけが、

まだ、

そこにあった。


 


――第三十二夜・了

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