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雪月花  作者: 湯灯畳
3/13

第三夜 雪宿り

部屋に残された静けさが、ようやく自分ひとりのものになったと気づいたのは、布団を抜け出してからだった。


行燈の淡い光の下で、鞄を開ける。

財布、鍵、文庫本、充電器。

夜食にと持ってきたカップ麺が、くしゃりと音を立てた。


最後に、スマートフォン。


画面は点いた。

けれど、電波の表示は空白のまま、地図アプリは現在地を掴めず、ただ白く固まっている。

圏外。完全に。


予約していた宿の名前を思い出す。

――ホテルニュー松竹。


無断キャンセルになってしまった。


小さく、息を吐く。


視線を落とすと、濡れていたはずの服が、きれいに畳まれて脇に置かれていた。

土と雪にまみれていた記憶が、かすかにある。


……手間をかけさせてしまったな。


数分前のやり取りが、ゆっくりと脳裏に浮かぶ。



「炭置き小屋……ですか?」


思わず聞き返すと、白い女は小さくうなずいた。


「囲炉裏の炭を取りに行った折に、人が倒れているのが見えましたので……驚きました」


「そう、でしたか……。すみません」


自分でも、ひどく間の抜けた返事だと思った。


その横で、兎が肩をすくめる。


「私がいてよかったでしょ」


「……え?」


「低体温。放っておいたら、たぶん危なかった」


淡々とした声だった。

誇るでもなく、責めるでもない。


「センセイのところで、そういうの、何度か聞いたことあったから」


それだけ言って、視線を外す。


「ちなみに、ここは……旅館、ですよね」


恐る恐る尋ねると、白い女は一拍置いて、穏やかに答えた。


「はい。湯宿《雪月花》と申します。

本宿を預かっております、白咲雪音……です」


……やっぱりそう。


それで、この人が──女将。


風格はある。

あるけれど……。


「……あ、私は枕兎。ただの布団敷きじゃないから」


兎が、ついでみたいに名乗る。

一瞬、妙な名前だな、と思いかけて、口には出さなかった。


こちらも名乗るべきか迷って、結局、軽く頭を下げる。


「乙鬼……波流といいます。一応」


「おとぎ……はる?」


兎が首を傾げて、すぐ吹き出した。


「ぷっ。ヘンな名前」


「……よく言われます」


変な名前の、うさ耳に。


「とりあえず」


女将がやわらかく話を切った。


「お身体を温めていただいた方がよろしいかと。お湯へ……」


「いえ」


反射的に、首を振る。


「もう動けますし、これ以上ご迷惑は……。帰ります」


兎が、ぴたりとこちらを見た。


「……舐めてる」


「え」


「その身体で、雪の山道を?」


一言だけだったが、妙に効いた。


「外、吹雪き直してる。

こっちがやったこと、無にする気?」


言い返せなかった。


確かに、少し汗ばんでいる。

自分でも、においが気になった。


「……じゃあ」


しぶしぶ、うなずく。



湯殿は、思ったよりも静かだった。


薄く濁った湯に身を沈めると、硫黄の匂いと、どこか木の香りが混じって鼻に届く。


天井の高いところから、ぼんやりとした光が落ちている。


鏡の前には、黄色い湯桶。

馬油ボディシャンプーの、高級そうな香り。


かけ湯をして薄く濁った湯に身を沈めると、じんわりと熱が染み込んでくる。

肩まで浸かって、思わず息が漏れた。


……生き返る。


ぼんやりしていると、背後で音がした。


かぽーん。


湯桶の乾いた音。


「いや~、お寒いですニャ~」


間延びした声とともに湯に波が立つ。


頭に乗せた豆絞りの手ぬぐい。

そして今度は、猫耳。


変なのがまた増えた。


「はぁ~やっぱり温泉は冬ですニャ~」


「はぁ……」


どこかで見た温泉の広告のような、まったりとした空気。

これは長湯になりそうだ。


「でも今日は長湯はだめですにゃ」


すかさずきっぱり釘を刺された。


「ワガハイは湯猫と申しますニャ。こう見えて温泉ソムリエなのですニャ」


温泉ソムリエ……

久々に聞いた。


いやそれより。


……いや、まあいいか。


しばらく、他愛ない話をした。

湯の温度だの、成分だの、昔ながらの造りだの。


おかげで芯から温泉気分。


「じゃあ……お先です」


釘も刺されたことだし、いいところで湯からあがる。




湯あがり処。


浴衣を羽織って、扇風機の風に当たっていると……


「湯あがりは水分補給ですニャ!」


今度は妙に、テンションが高い。


「はぁ……」


「フリードリンクありますニャ!瓶牛乳派ですかニャ?それとも、元気ハツラツ?」


「あ、牛乳で……」


「ゆっくり飲むんですぞニャ」


やっぱり湯あがりは牛乳……

こういうところは、譲れない。



部屋に戻ると、布団は整えられ、行燈の灯りだけ。

ほのかに、甘い香り。


枕兎が、正座してこちらを見ている。


「……えーと」


「寝なさい」


短く、それだけ。


「安眠香。よく効く」


そう言って、視線を逸らした。




布団に入る。


「……」


天井を見つめながら、いろいろと考える。




でも。


まあ、いいか。


雪の音が、遠くで鳴っていた。


意識が、ゆっくりと沈んでいく。


――第三夜・了

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