第三夜 雪宿り
部屋に残された静けさが、ようやく自分ひとりのものになったと気づいたのは、布団を抜け出してからだった。
行燈の淡い光の下で、鞄を開ける。
財布、鍵、文庫本、充電器。
夜食にと持ってきたカップ麺が、くしゃりと音を立てた。
最後に、スマートフォン。
画面は点いた。
けれど、電波の表示は空白のまま、地図アプリは現在地を掴めず、ただ白く固まっている。
圏外。完全に。
予約していた宿の名前を思い出す。
――ホテルニュー松竹。
無断キャンセルになってしまった。
小さく、息を吐く。
視線を落とすと、濡れていたはずの服が、きれいに畳まれて脇に置かれていた。
土と雪にまみれていた記憶が、かすかにある。
……手間をかけさせてしまったな。
数分前のやり取りが、ゆっくりと脳裏に浮かぶ。
*
「炭置き小屋……ですか?」
思わず聞き返すと、白い女は小さくうなずいた。
「囲炉裏の炭を取りに行った折に、人が倒れているのが見えましたので……驚きました」
「そう、でしたか……。すみません」
自分でも、ひどく間の抜けた返事だと思った。
その横で、兎が肩をすくめる。
「私がいてよかったでしょ」
「……え?」
「低体温。放っておいたら、たぶん危なかった」
淡々とした声だった。
誇るでもなく、責めるでもない。
「センセイのところで、そういうの、何度か聞いたことあったから」
それだけ言って、視線を外す。
「ちなみに、ここは……旅館、ですよね」
恐る恐る尋ねると、白い女は一拍置いて、穏やかに答えた。
「はい。湯宿《雪月花》と申します。
本宿を預かっております、白咲雪音……です」
……やっぱりそう。
それで、この人が──女将。
風格はある。
あるけれど……。
「……あ、私は枕兎。ただの布団敷きじゃないから」
兎が、ついでみたいに名乗る。
一瞬、妙な名前だな、と思いかけて、口には出さなかった。
こちらも名乗るべきか迷って、結局、軽く頭を下げる。
「乙鬼……波流といいます。一応」
「おとぎ……はる?」
兎が首を傾げて、すぐ吹き出した。
「ぷっ。ヘンな名前」
「……よく言われます」
変な名前の、うさ耳に。
「とりあえず」
女将がやわらかく話を切った。
「お身体を温めていただいた方がよろしいかと。お湯へ……」
「いえ」
反射的に、首を振る。
「もう動けますし、これ以上ご迷惑は……。帰ります」
兎が、ぴたりとこちらを見た。
「……舐めてる」
「え」
「その身体で、雪の山道を?」
一言だけだったが、妙に効いた。
「外、吹雪き直してる。
こっちがやったこと、無にする気?」
言い返せなかった。
確かに、少し汗ばんでいる。
自分でも、においが気になった。
「……じゃあ」
しぶしぶ、うなずく。
*
湯殿は、思ったよりも静かだった。
薄く濁った湯に身を沈めると、硫黄の匂いと、どこか木の香りが混じって鼻に届く。
天井の高いところから、ぼんやりとした光が落ちている。
鏡の前には、黄色い湯桶。
馬油ボディシャンプーの、高級そうな香り。
かけ湯をして薄く濁った湯に身を沈めると、じんわりと熱が染み込んでくる。
肩まで浸かって、思わず息が漏れた。
……生き返る。
ぼんやりしていると、背後で音がした。
かぽーん。
湯桶の乾いた音。
「いや~、お寒いですニャ~」
間延びした声とともに湯に波が立つ。
頭に乗せた豆絞りの手ぬぐい。
そして今度は、猫耳。
変なのがまた増えた。
「はぁ~やっぱり温泉は冬ですニャ~」
「はぁ……」
どこかで見た温泉の広告のような、まったりとした空気。
これは長湯になりそうだ。
「でも今日は長湯はだめですにゃ」
すかさずきっぱり釘を刺された。
「ワガハイは湯猫と申しますニャ。こう見えて温泉ソムリエなのですニャ」
温泉ソムリエ……
久々に聞いた。
いやそれより。
……いや、まあいいか。
しばらく、他愛ない話をした。
湯の温度だの、成分だの、昔ながらの造りだの。
おかげで芯から温泉気分。
「じゃあ……お先です」
釘も刺されたことだし、いいところで湯からあがる。
湯あがり処。
浴衣を羽織って、扇風機の風に当たっていると……
「湯あがりは水分補給ですニャ!」
今度は妙に、テンションが高い。
「はぁ……」
「フリードリンクありますニャ!瓶牛乳派ですかニャ?それとも、元気ハツラツ?」
「あ、牛乳で……」
「ゆっくり飲むんですぞニャ」
やっぱり湯あがりは牛乳……
こういうところは、譲れない。
*
部屋に戻ると、布団は整えられ、行燈の灯りだけ。
ほのかに、甘い香り。
枕兎が、正座してこちらを見ている。
「……えーと」
「寝なさい」
短く、それだけ。
「安眠香。よく効く」
そう言って、視線を逸らした。
布団に入る。
「……」
天井を見つめながら、いろいろと考える。
でも。
まあ、いいか。
雪の音が、遠くで鳴っていた。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
――第三夜・了




