第149話 心を閉ざす ◆マリウッツ視点
「兄上、立太子おめでとうございます」
「ああ、マリウッツ。ありがとう」
珍しく俺も式典に呼ばれたため、兄上に公式の場で祝辞を述べることができた。
兄上は身体も丈夫で、これまで大病をすることなく健やかに育ってきた。
そういえば、兄上が立太子するまでは、と王子教育が開始された頃に教育係の男に言われた記憶がある。兄上は無事に立太子した。
俺のスペアとしての役割は、これで終わりなのか。
いや、立太子したとて、王位を継いで男児が生まれるまでは俺はスペアであり続けるのだろう。
これまでと何ら変わらない。俺はただ淡々と時間の流れに身を投じるだけだ。
――そう思っていたのだが、兄上が立太子してから俺の境遇はガラリと変わった。
「ガハッ! ぐっ、苦し……」
「マリウッツ殿下! すぐに医者の手配を!」
式典の翌日、俺は食事に毒を盛られた。
三日三晩高熱にうかされ、なんとか一命を取り留めた。
容体が落ち着いてから聞いた話だが、生死の境を彷徨っていた時でさえ、両親は見舞いにすら訪れなかったそうだ。
結局、首謀者が誰かは分からずじまいであったが、これまでスペアとして慎ましく暮らしてきた俺は、どうやら一部の過激派から兄上の政敵と見做されるようになったらしい。
頻繁に暗殺者を差し向けられたり、毒を盛られたり、命を狙われるようになった。
暗殺者は木剣で叩きのめして返り討ちにしたが、毒は何度か盛られてしまった。毒味役が買収されて職務を放棄したのだ。もはや誰が俺の命を狙っているのか分からない。
生まれて十年間、俺は兄上のスペアとして道具のように扱われてきた。だが、道具なりに真っ当に生きてきたつもりだった。けれど、用がなくなればこうも容易く命を狙われるのかと、自らの運命を呪った。
両親は護衛を増やすでもなく、徹底した調査をするでもなく、俺が命を狙われている事態でさえ、まるで些事であるかのように感情を動かさなかった。死んだらそこまでだと思っているのだろう。所詮俺はそこまでの存在でしかないのだ。
兄上だけは人目を忍んで見舞いに来てくれ、励ましの言葉をくれた。兄上も兄上で、制限された生活を強いられている。そんな中でも犯人を特定するために尽力してくれているという。
――初めて毒を盛られた日、給仕をしてくれたのは俺の乳母だった。
返り討ちにした暗殺者の覆面を剥ぎ取ると、鍛錬で何度も剣を交えた騎士見習いだった。
昨日まで、必要最小限ながらも普通に接してくれていた人たちの裏切り。
王城に立ち入れる者は決して多くはない。俺に近づくためには、俺のそばにいる者を利用するのが早い。そう気づくのにさほど時間はかからなかった。
何度も命を狙われ、夜も不安で熟睡ができずに寝不足に陥り、思考はさらに後ろ向きに落ちていく。
俺は次第に人間不信に陥っていった。
この者は信頼に足ると思った側から裏切られ、絶望の淵に立たされる。
誰が敵で誰が味方か分からない状況下では、誰のことも信じられない。信じて心を引き裂かれるような思いをするぐらいなら、始めから期待しなければいい。
まだ十歳の俺にとって、俺の狭い世界で知る人物の裏切りは、心を閉ざすには十分すぎる出来事だった。
◇
ある日の夜、俺はぼんやりと窓辺で月のない空を眺めていた。
新月の夜は、遠くに見える森と夜空が溶け込んだように見える。闇が空を、森を侵食しているようで底知れない恐怖が足元から迫り上がってくる。
森はドラゴンが住まう神域とされ、人の立ち入りを固く禁じている。もちろん、王族である俺も立ち入ったことがない。
森の奥には竜の谷があるとされている。ドラゴンの棲家だ。本当かどうかは定かではない。伝承で聞いたのみで、自分の目で見たことがないからだ。
じっと真っ暗な森を見ていると、闇に引き込まれそうな気分になる。
そうだ、誰も人が入ってこないのであれば、森に立ち入るところさえ見られなければ罪に咎められることもないのではないか? 禁忌を犯せば極刑だ。だが、森に逃げてしまえば、追手が来ることもあるまい。
いっそ森の奥深くで、一人で生きるのもいいかもしれない。自分以外に誰もいないのであれば、誰かを疑う必要もない。案外悪い考えではないのではないか。
「ん? なんだ、あれは」
どこに焦点を当てるでもなく森を眺めていると、何か黒いモヤのようなものが立ち上った。真っ暗な夜よりも、もっとずっと暗い。
もしや、山火事か?
一瞬そう思ったが、あれは煙ではないと直感的に理解した。そんなものより、もっとずっと悍ましい何かだ。
そういえば、最近は地震が多い。大地が荒ぶっているのだろうか。何か、よからぬものがこの地に蔓延っているのか。
どうも後ろ向きなことばかり考えてしまう。あれが一体なんなのか。考えても答えの出ないことだ。そう決めつけて俺は思考を停止し、窓をしっかりと閉めた。
その時、小さく扉をノックする音がして、俺はハッと扉の方を振り返った。




