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飽和

作者: 米野翔

記憶が溢れる。その奇妙な感覚を初めて感じた。


彼女には恋人がいた。彼女よりも少し背の高い、穏やかな人だった。彼女にできた過去の恋人は、彼女を自分の一部のように扱い、自分のテリトリーから彼女が外れると激昂するような人ばかりだった。恋愛に生活が支配されることを嫌った彼女に彼はピッタリだった。お互いの私生活に干渉しすぎず、心地いい距離感を保った付き合いができた。

彼女は仕事が好きだった。大学を卒業後、出版社に就職し、彼女の文章を褒める人も多かった。彼女は絶好調だった。しかし周囲からの、期待からくるプレッシャーで彼女は追い詰められてしまった。

そんなとき、彼女の恋人は手を差し伸べてくれた。彼女が泣いている夜にはすぐに駆けつけてくれた。彼女のぐちゃぐちゃになった心にかかる、温かい彼の重みはどこまでも沈んでいくようだった。

そして彼女は彼に依存した。彼がいないと生活が成り立たない。SNSの返信が遅れようものならヒステリーを起こし、その気持ちを彼にぶつけた。彼女は、かつての彼女の恋人のようになってしまっていたのだ。

その結果彼女の恋人は別れを告げた。連絡手段を全て絶たれた。そして転勤によって彼は引越し、とうとう彼女が彼と接触する手立ては無くなった。

彼女の心はズタズタだった。どんな音楽を聴いても、どんな美味しいものを食べても、その傷は癒えなかった。「死にたい」と漏らせばすぐに抱擁してくれたこと。涙を拭ってくれたこと。彼の声色が、温もりが、眼差しが、空っぽの彼女に張り付いていた。


そしてそれから1年が経った。幸いにも彼女は職場での人間関係に恵まれ、周囲の人の支えによって仕事を続けることができた。しかし彼女の恋人との心の傷は、全く癒えていなかった。目まぐるしくすぎる日々の中で、傷ついた心の部分だけ冷凍されたように「そのまま」だった。彼女はもう、恋人との日々に憂うことはなかった。

それでも時々思い出すのだ。2人で買ったアクセサリー、訪れた観光地。それらの欠片が彼女の心にぶつかるたびに、断片的に。ただ、もうあの頃のように鮮明に思い出せない。細かい部分は靄がかかったように抜け落ちている。きっと彼女のメモリが飽和して、少しずつ記憶が溢れていく。

彼女にとって、あの日々とその傷を抱えて生きていくこと。それは彼女の固執に反して次々に溢れるものだった。

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