プロローグ
布団。
それは人類が生み出した究極の堕落装置。
一度入ってしまったが最後、どこまでも人を引きずり込む底なし沼がごとく人を眠りという至高の高みへと誘い、その幸福感たるやもう地上には帰ることがかなわないとまで感じさせるほどだ。
ゆえに人の力ではもはやこの布団という存在から抜け出すことはできない。
『レンちゃん!今日は入学式なんだから早く起きなさい!もう鋼太くんも海理くんも来てくれてるんだよ!』
そう。
たとえ、扉越しに母親から起床の催促をされようが、友人が迎えに来ていようが、今日が高校の入学式だろうが、この布団という全自動人類堕落機の前にはすべてが無意味と化す。
起きるのもだるいし、もうひと眠り・・・
『もう!起きてこないならこっちにも考えがあるんだから!』
母さんが扉の前で何か言っているが、そんなのは気にしない。
なぜならこの部屋には物理と魔術で二重のロックがかかっているのだから。
ドアについている物理的なロックはどこにでもある普通のものだが、今回作った魔術ロック『安眠守君』はドアを力づくで開けようとしたものに軽い電撃を浴びせるほか、魔術を解除しようとすればカウンターマジックが起動して電撃で妨害することに加え、さらに魔術式を自動で書き換えることによって内側から鍵を開けない限り開くことはない鉄壁の守りを誇る自信作だ。
(鋼太と海理には悪いけど、先に行ってもらお。入学式は、別に出なくてもいいか。)
そう思い、枕の横にある携帯端末で電話を掛ける。
『おっす!やっと起きたのか蓮弥!』
朝だというのにどこからそんな元気が出てくるのか。
そう思わせるほどのはつらつとした声が端末の向こう側から聞こえてくる。
「おー。まだ起きたわけじゃないけどなー。」
『その声の感じからして、まだ布団の中かい?蓮弥。』
先のはつらつとした声とは打って変わって落ち着いた声色が聞こえてくる。
わが友人ながらよくわかっている。
「おう。そんなわけだから、先行っといてくれー。必ず、たぶん、もしかしたら、億が一、行けたら行くわー。」
『・・・こんなに来そうにないと感じるコメントはなかなかないんじゃないかな。』
『はっはっは!相変わらずだな蓮弥!』
『けど僕たちも紅谷さんから、蓮弥は絶対寝坊するから必ず連れてくるようにって頼まれてるから、できれば来てほしいんだけど。』
紅姫め。余計なことを。
「俺も行きたいのはやまやまなんだけどなー。布団がおれの事を離してくれなくて
「何が、誰を離さないのかな?」
言いかけた言葉が止まる。なぜか先ほどまで扉越しに感じていた母さんの声が妙に近くで聞こえたような気がしたからだ。
布団にくるまったまま、そっと顔を上げる。
そこには近所で美人の評判の我が母親が満面の笑み(目が全く笑っていない)でこちらを見下ろしている。
冷汗が出てくるのが自分でもわかる。
(なんでだ!?いくら母さんといえど解除するのには少なくとも一時間はかかるはずなのにいったいどうや、って・・・。)
答えは開け放たれていた扉の前にあった。
「ごめんなー。息子よー。」
そこには申し訳なさそうにこちらを見ている父さんの姿があった。
その姿は赤いひも状のものに簀巻きにされた状態で横たわっていて無理やり連れてこられたことがうかがえる。
(しまった!父さんを連れてきてたのか!)
「レンちゃん。お母さん、言ったよね?起きなさいって。」
「あー。いやー。」
その声音だけで言い訳することは無意味だと理解する。
これから自分に降りかかる事態を想像していると母さんの背後から巨大な赤い拳が現れる。
「あのー、加減してほしいなー、とか言ってみたり。」
「言い残すことはそれだけかな?」
最後の頼みの綱として父親の方を見るも
「息子よ。生きていたらまた会おう。」
最後の希望が絶たれたのち、黒井家の一室から轟音が鳴り響くのであった。