第2話 医務室Ⅰ②
「なんで医者に?」
僕がこんな質問をしたのは無意識に、ほ乳瓶の話から離れる目的だったのかもしれないけど。
彼女、逢初さんは笑って肩をすくめて。
「うふふ。よく聞かれます。えっとね。『人を救うお仕事が素晴らしいから』」
「あは。やっぱそう?」
彼女は、謙遜する感じで話していたけれど、それがちょっとだけ思いつめた表情に変わって、そしてこう続けた。
「‥‥‥‥って気持ちも嘘では無いんだけど、社会的な地位と報酬が得られるからよ。わたし、‥‥‥結婚とか、するつもりが‥‥無いから‥‥‥、経済的に自立したいの。そんな打算と不純な動機で乗艦希望出したら、受かっちゃったね」
何だろう。彼女のプライベートが垣間見えて、少し切ない気持ちになってしまった。
僕もちょっとセンチメンタルになる。‥‥‥‥聞いたのマズかった、かな‥‥?
「あっ、何か、話がすごく逸れてない? 説明はまだ途中なんだからね?」
話題逸らしがバレた。「ほ乳瓶でミルク問題」の放置。彼女は人差し指を顔の横に立てて。
「咲見くんの病名は、『マジカルカレント後遺症候群』、っていうのね。これが何で起こるかはまた説明するとして、今は対処方法を。 首から下が運動障害、ってだけじゃなく、固形物を咀嚼して摂取することが困難になるの。急性的な口腔的弱者。その対処療法として、ほ乳瓶でミルクを摂取して栄養補給、からの回復、が、最適解になってしまうの。あと‥‥」
「あと? 何?」
「ちょっと怖いこと言うんだけど、マジカルカレント後遺症って、全身がひどい筋肉痛、みたいな状態なのね。だから、遅滞なくすみやかに、体を作るタンパク質や必須栄養素を摂らなきゃならないの。そうしないと『糖代謝』がおこって‥‥」
「また難しい用語キタ」
「このまま栄養補給がされないと、どうなると思う? 咲見くんの体は、今ある筋肉を分解して、エネルギーに変えてしまうのよ。生きてくためのエネルギーとして使うために。だから、どんどん筋肉が細くなってくから‥‥」
僕はその言葉には身を乗り出した。‥‥‥‥いや、動けないから首だけだけど。
「あ! それは困る。困るよ! 研修でさんざん言われたんだ! 今でもパイロットの体を作るためにあれこれ筋トレしてるのに。Gに耐えられなくなるよ。筋肉減っちゃうのはヤバイ」
「でしょう? だから」
「はあぁ、状況がわかってはきたけど‥‥‥‥」
「今の咲見くんでもむせずに飲めて、体――筋肉を作るのに、適切な飲料とその摂取方法が――」
「これ、かあ」
僕は彼女が手に持つ透明のビンを見た。横目で恨めしげに。
「あ‥‥?」
彼女が、僕の首もとを見て目を丸くした。
「どしたの?」
「ご‥‥ごめんなさい。咲見くんの口もと拭いた時、タオルだと思ったらわたしのハンカチだった‥‥」
「え、あっ、そう。別に、気にしないけど」
「ご、ごめんなさい。汚くないからね。汚くないからね」
必死に頭を何度も下げる彼女。さっきから僕との距離が近いから、彼女のしなやかな黒髪が、何度も僕の鼻先をかすめる。‥‥‥‥なんだか、‥‥必死に謝る彼女の様子を見ていたら、この娘に悪い気がしてきた。
僕は、深呼吸をして腹をくくった。そして。
「そんなこと無いよ? むしろ、そこらへんのタオルよりキレイでしょ?」
「え?」
「ええと、じゃなくて。う~ん、イヤだけど、結局飲むしか無いんだね。それを」
「あ、決心してくれた?」
「もたもたして、筋肉落ちるのヤだし」
「そんなに、急激に落ちるものではないけれども。‥‥‥‥じゃあ、行っていいんだね?」
僕は、小さく頷くと、ベッドの上で軽く目を閉じた。少々、どころではなく恥ずかしいがしょうがない。もう飲むと決めたから。
その訳は。
彼女――逢初愛依さんの、ちょっと前のめりだけど真摯な説得に、熱意や誠意を感じたから。
これ以上ごねたら可哀想だよ。
彼女の任務は「パイロットの治療」。
「‥‥‥‥悪いけど、飲むトコは見ないでいてくれると‥‥」
「うんわかった。添えたあとは目を伏せるね?」
僕は観念して目を閉じる。とても直視なんてできないから。
口もとに意識を集中する。あのほ乳瓶の飲む所‥‥おしゃぶりみたいな‥‥何て名前だっけ?
いいのか? 「おしゃぶり」ってネーミングで? いや? 他に名前あるのかな?
いや待て待て。今名前関係なくね? とにかく飲んで回復しなきゃ。
‥‥‥‥あれ? ほ乳瓶のアレ(名称不明)、まだ口もとに来ないんだけど!?
「逢初さ‥‥‥‥!?」
慌てて目を開けると、あれだけ近かった逢初さんの白衣とセーラーは。
――――遥か遠くにいた。
彼女は、その腕をめいっっっぱい伸ばして、めいっっっぱい僕から距離を取って。
座りながらミルク瓶を持っているから。
遠い。むちゃくちゃ遠くにいる。伸ばした二本指でほ乳瓶をつまんでるだけだから、繊細なコントロールができる訳もなく。――僕の口もとには届かないでいた。
彼女の――表情は、顔を逸らしているのでよく見えない。
僕は問う。
「‥‥何で? もっと、ミルクを赤ちゃんにあげる時って、もっとこう、こういう感じだよねえ?」
母親が我が子にするイメージ。それを身ぶり手ぶりで伝えようとした。けど、首から下は動かないんだった。
さっきまで、近すぎるぐらいに顔を近づけていたのに。それこそ彼女のまつ毛の本数を数えられるくらいに。
一体急にどうしたのだろう。僕、この子に何もしてないよな? だって、体動かないんだから。
彼女の前髪がかすかに揺れる。そして。
逸らしてした彼女の顔が見えた。あの大きな黒瞳は濡れ、流れる黒髪と対照的だった白肌の両ほほは、今はこれ以上ないくらいに紅潮していた。
そして、彼女の口からこぼれたセリフは‥‥‥‥。
意外なものだった。
「‥‥‥だって、わたし‥‥‥‥あなたのお母さん‥‥‥‥とかじゃないし」
※同級生女子に、普通は絶対に言われない台詞。