第40話 裏切り①
「窓を開けて逃げようとしなかったのは正解さ。外の白い煙はね、砂塵とかじゃ無い。神経毒なんだよ。だから、連れの女の子達はここへ近づけない。いや、近づかせないんだけどね」
わたしが洗面台から部屋へ戻ると、彼は得意げにそう言った。
ストックホルム症候群、という病気をご存じだろうか。大昔に、欧圏の都市名が由来でつけられた病名だ。誘拐や監禁された被害者が、生存戦略として犯人との心理的なつながり――女性であれば犯人を好きになったり――を築くことをいう。
いわゆる、|心的外傷後ストレス障害《PTSD》の一種。
わたしも今、目の前にいる男性、敵性外国兵に囚われている状態が続く。一時は危害やセクハラを加えられる気配もあったが、途中から彼の態度が軟化した。
わたしも、彼と談笑することに、不思議な安堵を覚えてしまっている。
穏やかにお話している分には、暴力を受けたり、服を脱げ、身体を調べさせろ、とかは言われないだろうから。
「どう? 顔を洗って色々考えたら、俺のプロポーズを受ける気になったとか?」
彼は爽やかに笑った。あ~あ、この笑顔に騙されて、海を渡った女の子とかいたんだろうなあ。
その子が向こうで幸せになっているならいいけれど。
「いいえ。洗面のお水と一緒に流して来たわ」
わざと無表情でそう言うと、彼は手を叩いて笑った。
「でも、一考の余地はあると思うね。ずっと気になっていたんだけれど、その服、そんなにいいものでは無さそうだし、着古してヨレヨレじゃないか?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥え?」
身長190センチの彼が、上からわたしの胸元をのぞきこんでいた。
「きゃあ!」
わたしは慌てて胸元をおおう。
そうだ。くたびれれているから、上や横から「中」が見えてしまうと、渚さんに注意されたばかりだった。敵兵に遭遇して命の心配ばかりだったから、胸元なんて気にしていられるワケがなかった。
見えた? ――――見られたの?
イケメン敵兵に限界ギリギリまで肌を晒してしまった。
あ、もしかして、『三つ目の質問』で、急にえちえちな展開になったのも、わたしの胸元が着火点とか?
なんか目つきが急にいやらしくなってたし。じゃ、やっぱり本気でわたしをアレしようとして‥‥‥‥。
無意味な思考がぐるぐる回った。
「そろそろいいかな?」
わたしが色々妄想しているところで、彼にまじまじと見つめられた。せっかく戻した顔から、また火を噴いてしまう。
「一考はしてくれよ。正直、君は現在決していい暮らしはしてないよね。不躾で失礼だけれども。結婚は上手くいく? 金持ちのヨメになれたとしても、他のヨメに打ち勝って、愛情を注いでもらえる算段はあるのかい?」
「‥‥‥‥そ、それは‥‥‥‥」
ものすごく痛いところを突いてくるよこの人。それは実際彼のいうとおりだ。わたしは安い女だから、こんな風にちょっと自分事を聞かれて、優しく相談に乗る雰囲気を作られると、ふわふわと重心がそちらにたなびいていく。
そして、長年心にたまった物が、口からつい、あふれてきてしまっていた。
「‥‥‥‥わたし、結婚はもう諦めてる。医者になるの。そのためにラポ‥‥色々資格とか取ったりして。家も、言われた通り裕福ではないわ。お父さんの足もお金も、わたしの異母弟の方に行ってしまうし、お母さんは、それが面白くないの」
「なるほどね。医者か。すごいね。君は。きっと、人が知らないような努力をたくさんしたんだろうね」
「‥‥‥‥‥‥そ、そんなことはないけど」
「そうか。お母さんと上手くいかないんだね。それを同じ女同士、張り合ってしまう所があるのかな? 君の気持ちを少しでも、お母さんがわかってくれたらいいのに」
「‥‥‥‥‥‥うん」
「旦那さんと上手くいかないお母様。きっと君に八つ当たりをしてしまうよね? それを君は、心の綺麗な君は、受け止めてしまうんだ」
「‥‥‥‥うん」
「自分さえ我慢すれば――なんて考えているかい? お母さんだって辛いんだから――なんて。そうかも知れないけど、じゃあ、君の心は、一体誰が受け止めるんだ? 誰が救うんだい? 辛かったろう?」
「うん」
彼の言葉は優しかった。この上なく。
わたしは、わたしの抱える家族の問題を、ひとつ、またひとつと話した。
彼はあくまで親身だった。わたしの言葉をひとつひとつ丁寧に聞いて、復唱して、子宮に響くような男性的な低い声で、紳士的な相づちを打ってくれた。
耳当たりの良い優しい言葉を、わたしにシャワーのように浴びせ続けた。
その言葉のシャワーを全身に浴びながら、わたしは必死に泣くのを堪える。
「ほら穴理論」の本の中で紹介されていた、心理学の知識があったから。
彼は、わたしの外見から生い立ちを予測して、「誰にでも当てはまるような」優しい言葉のかけ方をしている。コールドリーディングだ。
たぶん、脅しで屈しないわたしを、懐柔する「甘い罠」だ。
知らなければ、彼の言葉を鵜呑みにして、その胸で泣いていたかもしれない。
でもやっぱり、不覚にも、胸が熱くなってしまった。わたしが、家の問題、わたしと家族のことについては、今まで誰にも話したことはない。
そう、あの瞳が綺麗な少年にも。
これを誰かに聞いてもらったのは初めてだったから。
彼――イケメンの敵性外国兵さんは、少し首を捻りながら。
「‥‥まだ名前を聞いて無かったな。私の名前はゼノス、という。ゼノス=ティッシオだ。君は? お姫様」
「‥‥‥‥逢初愛依です」
一瞬躊躇したけれど、するっと口にしていた。
なにか、わたしの大切にしていたものを、あっけなく彼に渡してしまったような気分だった。
それだけ、わたしの家族の問題は、わたしの心の重荷だったんだ。たとえひととおりでも彼が聞いてくれて、たとえ甘い毒でも、優しい言葉をかけてくれたのなら、わたしは揺れてしまう。
そう。彼の胸に飛び込んで、向こうの国に渡ってしまえば、少なくともわたしは、結婚と、絋国女性の地位の低さと、家族の問題からは解放される。
いけない。差し出された彼の『右手』を取ってしまった女性の気持ちが、わかる感じになってきちゃった。あの厚い胸に飛び込んだなら、それはそれで楽になれるのだろう。
‥‥‥‥なんだか、彼に自分の名前をしれっと名乗れたのが理解できた。あの時わたしは、彼の前で、精神的な意味で服を脱いだのよね。1枚ずつ、すべての服を。
彼の前で全裸になった。そして言葉のシャワーを浴びた。きっとそう。
その様子を想像してしまった。
どうしよう。今、「一緒に国へ行こう」と右手を差し出されたら、わたしは、さっきと違う答えを出してしまうかもしれない。
「さて」
彼――ゼノス君が。
「ここで五つ目、最後の質問だ。水口聖子事件、って知ってる?」
突然口を開いた。
「なに?」
わたしは絶句する。
だって、今までの会話の流れを逆さにするようなひと言だ。
わたしは、それまで脳内で考えていたことが、一瞬で真っ白になった。
「質問は、さっきのが最後じゃなかったの?」
「‥‥ああ、君の名前を聞いた事? 当然違う。それは挨拶」
彼は赤銅色の肩を撫でながら、続けた。
「やっぱり自国の歴史でも、若い子は知らないのかな。じゃあ、外国人の俺だけど」
と、ゼノス君が説明しようとしたので、制止した。
「‥‥知ってるわ。水口聖子事件。10年前の戦争で、暗躍した女性スパイ。10年前、重力子エンジンを単独開発していた絋国は、またしても世界覇権目前だった。周辺国は団結して絋国包囲網を敷いた。それがグラビトン・ウォーズ。軍事力に勝る絋国は、連合軍を圧倒したけれど、ハード面で勝てないと踏んだ連合軍は、攻め手を変えた。
絋国女子の多さに目をつけ、見目麗しい男性を訓練して絋国の女性に逆ハニートラップを仕掛けまくった。『惚れた男の為なら何でもする』という女性の純情を、凄まじい悪意と共に、国家レベルで悪用した。結果――おびただしい情報漏洩と、連合国のシンパサイザーとなった多くの絋国女性は、絋国内の選挙結果にまでも影響をあたえた。
‥‥絋国がその事実を把握したその後は、粛清の嵐。他国の男性と関係を持った女性は、ことごとくスパイを疑われ、冤罪も多かった。その事件の中心的、象徴的な人物が、『水口聖子』。彼女の名を取って一連の事件はそう呼ばれて、ただでさえ低かった絋国女子の地位は、その後なお一層低くなった」
ゼノス君は、拍手をする。
「わお。すごいね。スマホで調べるより正確かな? 正に博覧強記だね? 君は何者? ‥‥‥‥ま、いっか。それは後回し」
そして、
「で、僕が言いたいのは、その時出来た法律の事なんだ。法律は詳しい?」
「‥‥あ! ‥‥‥‥」
「これでも俺はかなり気を使ったんだぜ? ほら、こんな風に」
ゼノス君は、三度銀色の銃を取り出すと、わたしの足と足の間に差し入れ、クイッと持ち上げた。プリーツスカートが長い銃身に引っかかってめくれ上がる。下着が見えるギリギリまで持ち上げられた。
咄嗟にあらがうことが、わたしにはできなかった。固まっていたから。
彼の言う「法律」。絋国の国内法。
それはある意味、わたしの太ももの間で遊ぶ銃口よりも、恐ろしい物だったから。
※愛依さんへの「言葉での責め苦」




