第29話 医務室Ⅱ②
医務室にて。スポ中コンビが僕の「ミルク飲む件」に絡んでくる。やだなあ。
「まあまあ、今日大活躍の暖斗くんは疲れてるだろうし、それ確か、はやく飲んだ方がいいんでしょう? 私たちの検診で待たせちゃったからね」
僕の困惑と愛依の表情を読んだ桃山さんが、そう言ってスポ中ペアを連れて退出してくれた。助かったよ。
ガヤガヤと騒々しかった医務室が急に、シン‥‥、と静かになる。
「‥‥‥‥じゃあ」
愛依は医務室の照明を落とし、暖炉の明かりのようなダウンライトにしてくれた。そして僕の頭近くに体を寄せると、いつものように僕に前かけを着け、「おつかれさま」と囁いた。
そして、いつものように僕の首に手をまわすと、スプーンの先を僕の下唇に、ちょんと当てた。とりあえず、僕は、いつものようにミルクを飲み干す。
今、「いつものように」って3回言ったけれど、いつもと違う所があった。愛依がなんか近い。
前々から顏とかをググっと近づけるのは、愛依が患者さんに接する時の「医療人モード」の時にあったけど、今日はさらに近いよ。
あと、もうひとつ。愛依がなんか熱い。ミルクを貰う時は、愛依はいつも目を閉じてみえたはず。実はしっかり薄目を開けてるんだけどね。だけど今日は大きな黒瞳で僕をじっと見ている。
「約束守ってくれたね」
愛依が言った。
「約束‥‥、無事に医務室に帰ってくる、ってヤツ?」
「そうよ。忘れてたの?」
「忘れてはないけど、敵を倒すのに集中してたから」
「‥‥‥やっぱり忘れてたんでしょ。ふふ。でもいいよ。無事に帰ってきてくれたから」
そう言うと、愛依は2回目のミルクを作りに、バックヤードに消える。
また同じ姿勢でミルクをいただく。けど、明らかに違う所が。愛依は、僕に飲ませる時には、僕の身体と愛依の身体にうまくすき間を作っていた。だけどさっきから、その「すき間」を感じない。
僕の右肩に何かが当たってしまっているような?
ただ、怖くてとても確認できない。
やがて、2回目分も飲み終わる。僕はベッドの背板を下げて、眠る姿勢になった。
「暖斗くんは寝る?」
「うん、そだね。ちょっと、ウトウトしてきたかも」
「わたし、いまから夕食とお風呂予約してあるんだけど、また戻ってきてもいい?」
そっか。パイロットが増えて仕事が残ってるんだ。大変だな。
「ぜんぜん、いいよ。もう寝てるかもだけど」
「寝てるかも、かあ。じゃあ。今言っておかないと、だね?」
ん? 何を?
白セーラーと白衣が近づいてきた。愛依は、ベッドに横たわる僕に正対すると、もじもじしながら、こんなことを言った。
「あの、またお願いしたいです‥‥‥‥」
「ん? 何でしょう?」
一瞬、なんの事かわからなかった。彼女は、少し恨めしそうな顔をしながら。
「暖斗くんの『右手』を借りたいの」
と、囁くように言った。
あ、そっちか。
「いいよ。ぜんぜんOK。だって、OKだって、前に言ったよね」
「うん。だけど、寝ている人のを勝手に借りるのもどうなのかなあと思って。一応お断りしなきゃ、だよね?」
そんなやりとりをして、彼女は退出した。医務室に残った僕は、意識がまどろんで行くのに任せて、ゆっくりと目を閉じた。だけど。
僕は愛依が去ってから、何となく浜さんとの会話を思い出していた。
「右手の震えはいつ止まったのか?」
うとうとしながら思索する。
医務室の自動ドアが開いた。愛依だ。
思ったより早く帰って来た‥‥んだけど、あれから小一時間か。僕は結局寝つけなかったんだ。
愛依は、照明を落とした室内をまっすぐ進んで、ノータイムで僕のベッドに乗ってきた。僕が寝入ったと思い込んでるのか? まあ、今までミルク飲んだら速攻寝てたからね。そうなるか。
「ありがとう。君だったんだね」
自然とこんな言葉が出た。
「あ、ごめん。起こしちゃった? そうです。わたしです。右手借りてるよ」
愛依はもう僕の右手に頬ずりしていた。一瞬ひんやりする素肌の向こうから、湯上りの熱を感じた。髪が少しだけ濡れている。
「‥‥‥‥そうじゃないんだ。わかったんだよ。浜さんとかと色々話してね。僕は初陣のころ手がよく震えてたんだ。でもいつの間にか止んでた。手の震えを止めてくれたのは、君だったんだね?」
瞬間、愛依が跳ね起きた。
「そうなのかな」
「そうじゃないのかな。僕はそうだと思うけど」
浜さんの質問の答え合わせ。パズルが組み上がったわけじゃない。消去法と直感で、その答えが浮かんできていた。
「わたしはそうだと思わないよ。暖斗くんは、つらいとか辞めたいとか言わないじゃない?言ってもいいんだよ? でも、暖斗くんは言わずに自分自身で克服する道を選んでる」
「愚痴ったりしなかったのは、やっぱり男子が僕ひとりだからかなあ。他の子が不安になるかも、とかは考えた」
「だから、暖斗くんの力だよ。わたしは医療面でサポートをしただけ。わたしが主体的に動いた結果じゃないよ。『患者は治るんだ。治すんじゃない』って、バイト先の小児科長の言葉」
「今日はやけにはっきり話す感じだなあ。いつもはもっとこう、ふんわりした感じなのに。謙遜してるの? 愛依」
「そんなことないけど、暖斗くんは寝ないの? ミルクを飲んだら、赤ちゃんはねんねんの時間よ」
「あー。そんな事言う? 右手貸すのやめよっかな」
「あ~もう。ふふ。じゃあ暖斗くんが動けないうちは借りちゃおうかな。ね、わたしはこのまま仮眠するよ。真面目な話、回復のためにはもう寝たほうがいいよ」
愛依はそう言うと、僕の右手をマクラにして寝てしまった。仕方なく僕も目を閉じた。
なんだ。
愛依が居てくれたから、僕は戦えるんだって思ったんだけどな。言うタイミングがなくなっちゃったよ。
***
1~2時間は寝ただろうか? わたしは暖斗くんの手のひらの上で目を覚ました。持っていたハンカチでわたしの顏と彼の右手を拭った。
うれしい。うれしい。うれしい。
彼はわたしの献身を身をもって感じていてくれた。彼の言いたい事はうまく躱してしまったけれど「伝わったよ」と、その赤ちゃんみたいな寝顔に言いたい。
暖斗くんは、医務室で寝ている時に、自分の手が震えていたのは知らない。わたしはそれを彼に伝えるつもりはない。
それにまさか、暖斗くんの右手の震えを止めるために、わたしの心臓と左胸を差しだしました、とは言えないからね。
ごめんね。暖斗くん。




