第22話 下の名前①
逢初さんは、黙って頷いていた。
何も、泣くことはないのに。
――――そして。僕に睡魔が訪れた。
僕が寝落ちしそうになるころ、彼女が僕の右手にそおっと潜り込んできて、猫の様に丸まったのをうっすら憶えている。
それから僕らは、2時間ほど寝た。
***
うっすらと人の動く気配を感じて目が覚めた。時計は7:30を指していた。
「やっぱり。家での立ち位置とかあるのか‥‥‥‥」
僕は、彼女の話を、ベッドの上で思い出していた。
逢初さんの思い出話は、僕には自分のことのように、ほろ苦い。
中学生の僕に、彼女の現状をどうこうできる訳じゃないけど、できれば彼女には、笑っていてほしい。
逢初さんの家の事情。よくある話ではあるよね。重婚制度のデメリットの部分。
父親が寄りつかなくなってしまった「実質的な母子家庭」。
大人達が、「置きヨメ」、「置き物妻」とか言ってるのがうっすら聞こえてくるけど、僕にもわかってしまうくらい良くないニュアンスで言う。父親の資源、お金とか、ちゃんと母子に渡されてるのか? 国の重複婚姻手当と子ども手当があれば、食べるに困る事は無いとはいえ、十分な暮らしができるとも言えない。
しかも、当事者の人達は、それを隠したがる。バレると一等下に見られてしまう、恥、って考えてしまうから。
あの時、お父さんの『右手』が大切な思い出だって言って、目を閉じていた逢初さん。
彼女を見ていたら、僕の記憶と被った。
なぜか鳴沢さん家の帰りの、綺麗な夕焼けを思い出したんだ。
自然と逢初さんに
「おいで」
って言っちゃってた。
‥‥‥‥ヤバイ。「何かイタイ事を言ってないか? 俺?」焦ったけど。
でも、あの後の逢初さんのリアクションもなんか変だった。手に持ったタオルで顔をおおってた。
え、待って。それタオルだよね? 雑巾寄りの。
――――渡したの僕なんだけどさ。
***
「あ、そう言えば、暖斗くんの『右手』って‥‥‥‥」
わたしは、暖斗くんの右手の上で目を覚ました。わずかに、彼が覚醒する気配を感じたから。
あの時、手に持ったタオルで火照った顔を隠しながら、わたしは思い出していた。この医務室に彼が初めて来た時のことを。
初陣の後、初めて彼が発症して医務室に来た日。
暖斗くんの手は震えていた。あの日、あの1回だけだったけれど。
みんなを守る為に戦ってくれた少年。
彼の手をさすりながら、「医療人として」自分にできる事はないか問うたはずだ。
今、わたしはその彼の『右手』に、甘えてしまった。
本当にこれでいいのか?
チクリ。
罪悪感の欠片が胸を刺す。
***
僕もそろそろ起きようか、と思った瞬間に、逢初さんがバネみたいに飛び起きた。
ああそうか。何回か、彼女が右手の上に乗ってるのを見た気がするけれど、こんな風に跳ね起きるから、「あれ、気のせいかな?」とか、僕が寝ぼけて見逃してたんだ。
彼女は、小走りにバックヤードにある洗面に向かって行った。そして、「おはよう」の声だけが聞こえてきた。
「おはよう。逢初さん」
「ごめん。やっぱり手痕がすごいよ、わ~~。わたし寝起きだからね。暖斗くんこっち来ちゃだめよ?」
「うん、わかったよ、というか、動けないからね。どうせ」
「あ、やっぱりまだ動けない? ミルク作るよ。待っててね」
「ああ、手が空いたらでいいよ。ここは女子の身だしなみを優先しなよ」
程なくして(20分ほど。そこが女子っぽくて逆にいいよね)、彼女は出てきた。手にはミルクを、そしてそのほほにはテーピングを貼ってあった。
「肌荒れとかニキビとか言ってごまかすから、暖斗くんは『知らない』で通してね」
うんうん、――「嘘のつきあい。そういう事とか」は全部女に任せときな――って、異母姉さんが言ってたからね。
あ、でもこれって、「僕らだけの秘密」、になるのかな?
いつも通りに、ミルクを飲ませてもらった。こんな事があったから、何か変化があるかと思ったけれど、彼女はいつもの、とても落ち着いた表情で、もの静かだった。
ただ、僕の肩にまわされた手が熱かったな。
手痕を消すためにお湯でも使ったからかな?
――――なんて思ってたら、変化があった。
まずは、彼女のセリフ。
「暖斗くんって、瞳が綺麗だよね。前から思ってたけど、やっと言えたよ」
「え? そう? そんなの言われた事ないかな」
「そう? 桃山さんや浜さんも言ってたよ。ああ、女子は男子に敬語使う空気の中では言いづらかったから」
「前からって、何時から?」
「そうね。初めて暖斗くんが医務室に来て、ミルク飲みながらわたしの顔ガン見した時かな?」
「最初じゃん。それに俺‥‥ガン見してねえし」
「うふふ。ごめんね。あの時はミルク飲むので必死だったし、初めてのマジカルカレント後遺症候群で不安だったしね」
「うん。それはまあ」
「あれからまだ何日かしか経ってないのに、わたしたちだいぶ打ち解けたね。実は、もう1つ、今なら言える、秘密にしてた事があるんだよ」
「ま、まだあんの?」
「うん。実はね。暖斗くんの寝顔が、赤ちゃんみたいなの。たぶん知ってるのはわたしだけ。麻妃ちゃん知ってるかな? 聞いてみようかな?」
――――なんだそれ。
「やめて。拡散禁止!」
「そっかあ。じゃあやめとくよ。でも、数々の親戚の子の面倒を見てきたわたしとしては、お世話したくなる寝顔なのよね~」
ミルクは飲み終わっていたけど、彼女はニコニコしながら、僕の胃のあたりをぽんぽんとたたいて撫でた。そう、まるで赤ちゃんをあやす時のアレだ。反論しようとしたけど、先に眠気が来てしまった。‥‥そっか、ミルク飲んだし。
さっきからガヤガヤと、人の気配が遠くに聞こえる。防音の医務室だけど、ここは食堂の厨房とつながっているバックヤードに近いからだと、思い出したりしな‥‥がら、お腹を撫でられる心地も‥‥相まって、‥‥‥‥まどろんでいく。
「どう? 眠ければ寝てもいいよ。その間にわたし、朝食行ってくるから」
僕にそう告げて、逢初さんはエプロンを外した。紺色のプリーツスカートがふわりと回ってから、――彼女の気配が消えた。
***
わたしは、洗面台でもう一度髪を整えると、相変わらず血色の悪い自分の顏を見た。ほほの白いテーピング。
まだ、ジン‥! と熱い。
しまった、と思った。
彼に許されて、『右手』に居場所をもらって、思いがけず舞い上がってしまった。滑るように口から言葉が出て、あんな馴れ馴れしい態度を。
彼との今後を考えて、絆を深めるのは良い。「医療人と患者」としても。
だけど、恋愛とかそういうベクトルでは、「その先」は無い。――――わたしは誰とも結婚しないのだから。
鏡の中の青白い顔を見ながら、深呼吸をひとつする。
そろそろ、食堂へ向かおう。




