第14話 右手Ⅲ①
「寝ちゃいましたか。赤ちゃん」
わたし、逢初愛依は、診療用丸椅子を立ち上がった。そして、寝入った暖斗くんの顏に目を向ける。
無邪気な寝顔。本当に赤ちゃんみたいな寝顔。
「ふふ」
思わず口もとから笑みがこぼれる。
あれから、そう、自分の家の事情を話してから、2回目のミルクを飲んで(冷めてしまったけれど)、少し雑談をしていたら、彼がウトウトしだしたのだ。
「笑ってほしいな」
彼から言われた。親からも、周りの大人からも、女子からも、ましてや男子からなんて。
こんな言葉をもらったのは初めてだ。なんだろう、胸の奥がぽやっと温かい。
彼は「右手」の手のひらを天井に向けて、指を開いている。まただ。毎回こうしているという事は、幼少時の入眠儀式の残渣かもしれない。手の甲でマットレスをなぞる、とか。
「ふふ、本当に赤ちゃんみたいなんだから」
自然と口にしてしまう。
「さて、始めなきゃ。失礼しま~す」
さっき暖斗くんにOKをもらった、リハビリマッサージの準備に取り掛かる。彼の生体情報は、室内の非接触型センサーが感知して、常時中央モニターに表示している。だけど、さらに詳細で精密なデータを取るとなると、やはりアナログで接触型になる。データも自分のPCに直送されるから手間が省ける。
パイロットスーツを開け、下着をめくり、暖斗くんの腹部にセンサーを貼っていく。同時に手首と足首にも。いつもバイト先でやっているせいだろう、抵抗なくできた。その後、リハビリ開始。手足をさすったり、ゆっくり折り曲げたりしてみた。初回なので軽めにやってみたが、暖斗くんが痛がる様子もなく無事終わった。
「マジカルカレント後遺症候群ってものすごく知見が少ないのね。そもそも軍事機密で、関わった医療関係者が少ない。だからタテヨコにも広がらない、広げられない。症例数が少ない。発現の不確実性が高い。症状が不安定。効能を示す治療法、薬剤無し。――――結果、予後の対処法が確立しない、できない」
わたしは、暖斗くんの腹部に塗った軟膏を拭き取りながら、語りかける。
「ごめんね。暖斗くん。力になれなくて。なんで病気になるか、っていう根源がまだ全然掴めてないの。だから治療法がない、作用機序もないからお薬も無い。ミルク飲んで寝てたら治るって、驚いたでしょう。ただの対処療法、医療の敗北よ。EBMがなきゃ、ダメだよね」
でもこれは「反撃のチャンスなのだ」とも思う。彼は今までの3回の出撃で、3回とも病変が認められた。初めての「発症確率100%」患者なのだ。
正直、3度目の出撃で暖斗くんに症状ありの報が来た時には、心臓が脈打った。
しかも1回目は、重力子回路に余剰電圧をかけていない、「マジカルカレント後遺症が理論上おこらない」はずの症例。さらなる謎は出てきたが、そんな事実に対して、準々医師資格者「なんちゃってドクターのさらになんちゃって」の自分に今できること、は。
「暖斗くんを必ず回復させること、そして、臨床レベルでのデータの蓄積。いつかわたし達はこの病気にも打ち勝つ。必ず。わたしを含めた、多くの人たちのデータを見た、使った、誰がが、必ず。それが医者の端くれ、『医療人』の矜持」
***
医務室でPCにデータを整理し、記録する。実はこの体験乗艦が決まった時に、小児科長から軍医の紹介を受けていた。
一般病棟を訪れた軍医さんは年配の男性3人だった。名刺をいただいたが、かなり上のほうの方々だった。
その内の1人は、わたしの父を知っている、と言っていた。父は、医療関係の器材を卸す商社マンだ。きっとこの病院にも出入りしているのだろう。何しろ父が家に滅多に来ないから、そういう会話もなかった。
こういうことで父の動向を知るのは、ちょっと悲しかった。
「梅園先生の息子さんも決まってね。それであなたに頼みがあるのです。逢初さん」
3人の先頭にいた紳士然とした男性がそう言っていた。「梅園」というのが咲見暖斗くんの父親姓だというのはこの時知った。咲見というのは、第2席夫人であるお母様の姓なのだろう。
4人の妻との重婚制度は、その家ごとに色々と事情がつきまとう。
あと、準々医師のわたしにも「センセイ」とまでは呼ばれないが、一応医師の方々からも「さん」付けで呼ばれる事を知った。
だって、小児科長は、わたしの事「愛依」って呼びつけだから。みんなの前でも。
でもわたしを「先生」と呼ぶと、ベテランの看護師長よりもわたしのほうが格上となってしまう。1年半前までランドセルを背負っていたわたしが。
資格絶対のヒエラルキーを感じるとともに、命を預かる「医師」の重みも感じた。
頼みというのは、暖斗くんのマジカルカレント後遺症のことだった。昔から彼の事を知っている口ぶりだった。
14才になるのを待っていた、とも。
そして、後遺症の今ある知見を全て見せてもらった。データを貰った、のではなく「見せただけ」なのは、小児科長がわたしの記憶力を軍医さん達に伝えていたから。そしてデータで渡すのがご法度だからだろう。
まあ、民間人の中学生に見せる事ができるデータなんて高が知れていて、きっと本当に軍事機密な事は当然伏せていたのかな? とは後で想像したけれど。
その上で協力を要請されて、即時了承した。こちらとしては軍の戦艦に乗せていただく身分で、断る理由がない。先生方の研究では、AI検算でも高確率でマジカルカレント後遺症が発現するとのことだから、その対処は必要だったし。
「能力者のパイロットが戦場で力をふるえば、多大な戦果が見込めます。が、後遺症候群を克服できなければ、エースパイロットを何日間も不稼働にすることになりますね。――――さらにそれが敵に知られれば、大きなリスクになります。逢初さん」
あの時、重い、と感じた言葉だったが、今はさらに重い。本部運営と連絡が取れなくなり、ネットもつながらない。この戦艦「ラポルト」が遊撃する事態になり、大人達のヘルプが見込めない状況。
あれから1ヶ月、船医として、後遺症対策を中心として特別極秘研修を受けたけれど、ふと気になった。
あの研修は、15人の船員全ての命と健康を、わたしに負わせるため?
運営や軍部は、「こうなること」を最初から予想していた?
いや‥‥‥‥まさかね。
PCから手を離し、わたしは両手を突きあげてストレッチをする。暖斗くんは‥‥‥‥まだ眠ったまま。医務室のバックヤードと食堂の厨房はつながっているので、そちらへいって、あまり飲まないけど、コーヒーをもらって来た。
傾けたカップの先に、暖斗くんのベッドが見える。まだ、「右手」のひらを上に向けて寝ている。ふふ、と笑いそうになったが、すぐに真顔になった。嫌な予感が背に走ったからだ。
マジカルカレント後遺症の彼は、現在首から下が動かない。だから、体位変換も打てない。
医務室のベッドは、自分が家に持って帰りたいくらいマットレスの体圧分散がすごい。でも、ずっと同じ姿勢で寝るのはいただけない。
肺血栓塞栓症や、もしも、後遺症で心機能が低下していたら褥瘡の可能性もある。
わたしは立ち上がって、暖斗くんの体をさすった。
ぐう。すう。‥‥彼は寝息をたてたまま。幸い異常はなかったよ。
一通りの施術が終わって、暖斗くんの体を元に戻すと、右手がやはり、上を向いていた。
本当に、手のひらを見せて上を向くんだね。必ず。
「なぁんで?」
思わず声をあげ、ふきだした。




