第117話 医務室Ⅴ②
まずい。想像したくなくても、いやだからこそか?
敵兵と愛依との楽しそうな様子が、頭の中で流れまくってしまっている。
「やっぱりそうだよね。敵兵と長い時間一緒にいて、だもんね?」
僕が彼女に返事もせず、考え込んでしまったから、愛依まで疑心暗鬼にさせてしまった。
「‥‥あ‥‥ごめん‥‥何て答えようか思いつかなくて」
「嘘。‥‥『本当は仲良くしてたんじゃないか』って考えてたんでしょう?」
「‥‥‥‥!!」
見抜かれていた。やっぱり。女の子と嘘のつきあい、心理の見透かしあいをしても、絶対に敵わない。
経験があるんだ。すずって子がいる。僕の家「梅園家」の第一席家は3人姉妹。その末っ子が、すず。僕は「すーちん」って呼んでる。
つまり第二席家の第一子長男の僕にとっては「1歳年上の母親違いの姉」か。まあ歳が近くてほぼ双子みたいにして育ったんだけど。
その「すーちん」は僕が何考えてるのかをほぼ当てる。特に小学校くらいまでは。さすがにこの頃は正解率が下がってきたかな? ちなみにキャラは麻妃に近い感じ。
だから、身をもって知っていた。女の子に、大事な場面で嘘はつけない。通じないんだ。
僕は愛依の目を見ながら、ゆっくりうなずいた。
「やっぱりね。‥‥でもごめんなさい。それが普通よ。暖斗くんは信じてくれたけれど、それでも疑念って後から湧いてくるものだもん。‥‥ただ、わたしが暖斗くんにとって本当にどうでもいい相手だったら、その疑念すら浮かばないから。そこだけはわたしにとってプラスのポイント、かな」
「うん。なんか‥‥あらためてアイツ、敵兵の名前を聞いたら、なんか色々考えだしちゃった」
もう、正直に言うことにする。‥‥‥‥けど、言葉選びはなるべく慎重に。もう彼女は十分傷ついているんだから。
「わざとよ。『ゼノス君』って名前を出したのはわざと。さっきのわたしがそう咄嗟に考えたのよ」
しばらく、お互い何も言わなかった。――――いや、僕は何も言えなかったんだけど。
「‥‥‥‥何を、すればいいのかな?」
暗闇に近い授乳室の灯りの中で、そう聞こえた。
「‥‥‥‥何を、差し上げれば、信じてもらえますか?」
改めて愛依を見た。右胸に置いた手とそれに被せた僕の手のひら。あとは、パジャマ姿の愛依の動かぬ五体。
そこで気がついた。愛依のカラダに何かしるしをつけてしまえば。
そうしたら、愛依が僕のモノになったような気が――――する?
敵兵が愛依に何をしてようが関係ない。もっと強力な作為をしてしまえば。愛依を描いたイラストの上から、油性のマジックで黒く塗りつぶすようなことを。
愛依の質問って、そういう意味じゃないのか?
「何かをくれるの? 僕に?」
「それで信じていただけるなら。今わたしは首から下が動かないよ。暖斗くんが何かしようとしても、ね?」
確かにそうだ。こうして腕まくらをしてる時点で、これは愛依から頼まれてやっとこと。「信じてあげる」の言葉と引き換えなら、フェアなトレードのような気がする。
愛依は目を閉じた。「どうぞ」って意味か。
愛依本人が承諾してる。僕もそれがいいかと思い始めている。――何も問題はない、ハズだ。
【暖斗。 男はその人生で、一体何人の人の涙をぬぐうことができると思う?】
え? 涙?
あ、涙だ。
目を閉じた愛依のほほを、銀色に光る雫がひとすじ。
――危なかった。取り返しのつかない事をするところだった。
あれは、あのクサいセリフは、父さんが言ってたものだよ。昔、鳴沢さん家の帰りとかに。
いまだ答えの無い問い。
そして、その問いと対をなす「答えの無い問い」を、僕は父さんに投げかけている。
【まごころって、なに? ふつうのこころとどうちがうの?】
僕は、寸前で踏みとどまることができた。
そして今なら、僕は。
この「ふたつの問い」に答えを出せるかもしれない。
すうっと深呼吸をして。
「愛依‥‥‥‥‥‥」
「え? え?」
僕は身体を近づけて、密着させた。
「確かに今って。何かしようと思えばし放題だね。‥‥でも愛依がして欲しくない事はしたくない。しない」
「して欲しくない、こと? え? だって」
「うん。一瞬そうしようかな? って正直思った。けど、動けない女の子に対して、っていうのはやっぱちょっとというか、思いっきり卑怯だよな、と」
「わたしは『治験』って名目でもいいよ?」
「あ、名目って言っちゃってる」
「‥‥暖斗くん‥‥‥‥怒ってる? さっきから右手がじわじわ熱くなってきてるよ?」
「怒ってるかも。わざと敵兵の名前を言って僕をざわざわさせる愛依に。自分を安く売ってこんなことを言う愛依に。」
本当は怒ってないよ。君に向けてのポーズなんだ。
この子は危うい。
さっきから無意識なのか、ちょっと誘うようなしぐさやセリフが混じってる。
今は僕に向けられてる。でもそれを僕意外の誰かにするかもしれない。
そう考えると首の後ろのあたりがチリチリするんだ。
本当に、ちゃんと見ていないと、捕まえていないと、ある日ふわっといなくなってしまうような気がしてくる。
愛依は、目に涙をたたえたまま動けない。僕が、枕元のタオルでそっとぬぐった。




