第9話 右手Ⅱ②
「身体機能、顎顔面領域以外の回復認められず。夕食も経口にてミルク。若干の嚥下不良、嘔吐反射。就寝から30分経過、バイタルサインに異常なし、っと」
わたし、逢初愛依はPCにそう打ち込んで、モニターの向こうの暖斗くんの寝顔を見る。無邪気な寝顔だ。
「ふふ、本当に赤ちゃんみたい」
初陣の後、医務室に運ばれてきた暖斗くんの右手は、微かだけど震えていた。
無理も無い、とわたしは思う。初出撃の前に受けた説明では「DMTが普通に戦えばBotに負けることはありえない」と、艦長の子恋さんは言っていた。
とはいえ、負けて死ぬ確率が0%になる訳ではないのだ。
正規軍、大人達の居ない状況で、暖斗くんは重い役割を背負ってしまったのではないだろうか? わたしが知る限りの彼は、そんなに戦争向きなステロタイプの人柄ではない。
戦闘が終わって、首から下が動けなくなり、医務室に運ばれる。
怖くない人などいないのでは?
そして、この艦もなんだけど、彼を取り巻く環境の変化が早すぎる。この先、軍人としての決断が必要になった時に、彼は苦しんだりしないだろうか?
わたしは暖斗くんのそばに近づくと、あらためて彼の「右手」を見つめた。
あの日、確かに少しだけ震えていた右手。たぶん、正直に彼に伝えてしまったら、暖斗くんの心やプライドを傷つけてしまうのではないか? 今は、暖斗くん自身DMTを駆った高揚感や初陣の緊張で、気が張っている状態、‥‥だとすると、その気持ちが切れた時が気がかりだ。
「そういえば『新兵のメンタルヘルスとPTSD対処法』って、電子書籍図書にあった‥‥医師薬出版の。症例別のフローチャートが付録されてる本だったよね。確か」
‥‥あとで目を通しておこう‥‥。
「右手」は、わたしの方へ投げ出されたまま、手のひらを仰向けにしている。そっと、手に取ってみる。
今日は‥‥‥‥震えてない?
あの時とっさに、「突撃する赤ちゃん」なんてからかったけれど、少しでもそのプレッシャーが紛れてくれればいい。
もう一度、彼の「右手」を両手で持って見てみた。――――そういえば、わたしって、男性の手をちゃんと見た記憶がないかも。家には母と妹2人。父は、「本家」の方に足が向いていて、ウチの家には滅多に寄り付かないから。
「‥‥‥‥右手。そういえば右手って」
手のひらを見つめるわたしの目に涙が浮かぶ。
それは幼き日々の、ちょっぴり切ない記憶。
それは、幼い頃の、ちょっぴりあたたかい思い出。
ふと気が付くと、わたしは吸い寄せられるように、右頬を暖斗くんの手のひらに押し当てていた。
そのままベッドに倒れ込む。
体を猫のように丸くたたんで、ベッドの脇、暖斗くんの足横の狭いスペースに体をすべりこませた。
そして。
そのまま、彼の手のひらを枕にしてゆっくりと目を閉じる。
そうだ‥‥初出撃以来、仕事と心配事がいっきに増えて、わたしもあまり眠れていなかったような。
「それにしても、暖斗くんの手はあったかいな‥‥‥‥」
彼の心臓が脈打つたびに、大量の熱が右頬から流れ込んでくるようだった。
その熱は、そのままわたしの心臓や肺に入り込み、血液を温ませて、やがて全身をじんわりと包み込んでいく。
その熱に、安堵を感じるわたしがいる。
気が付くと、わたしは、彼の傍らで、静かに目を閉じていた――。
***
僕は、夢を見ていた。「これは夢だ」と自分でわかるタイプのヤツだ。
DMTに乗っていた。
たくさんのBotに囲まれて、だけど回転槍を繰り出してどんどん敵を倒していった。
ただ、中々敵が減っていかない。回転槍を持つ右手がだんだん重くなって、動かなくなってきてしまう。と、そこに、急に背中に人の気配を感じる。DMTのセンサーに反応したんじゃなくて、「感じる」っておかしいんだけど。
でも夢だから。
後ろの草原に誰がいて、僕を応援してくれてるみたいなんだけど、DMTで踏まないように戦うのがけっこう大変だった。
結局、右腕の力を振り絞って槍をふるい、最後のBotを仕留めて勝利を確信して。
「やった。勝ったよ!」って、後ろの「誰か」に振り返った――ところで目が覚めた。
「‥‥‥‥」
ピッ‥‥ピッ‥‥ピッ‥‥。
バイタルセンサーの電子音が、静かに響いている。いつもの医務室だ。
そうだ。夕食を摂ってから、逢初さんに身の回りのお世話をしてもらいながら――寝てしまったんだった。医務室だと時間の感覚が分かりづらい。時計は6時を示していた。
「もう、朝か」
胸を反らしてあくびをする。
「いててて」
まだ、体中に筋肉痛のような痛みはあるが、もう少しは動けるようだ。
と、思ったと同時に、右手の手のひらに違和感を感じた。
右手が重かった。
そんな夢をさっきまで見ていたような。
右手だけ回復が遅い? 上に何か‥‥‥‥乗っていた?
「なんだこれ」
右手の薬指と小指の間に黒い線がひとすじ。見ると頭髪が1本挟まっていた。長いな。30センチくらいか?
黒くてストレート、細い猫っ毛。たぶんしなやかな感じだ。
「失礼しま~す」
医務室に逢初さんが入って来た。
「あ、おはよう」
「おはようございます! 暖斗くん。あ、やっぱり。動けるようになってるね。バイタルと血糖値記録させて。あと酸素飽和度も」
そう言いながら彼女は時刻をチェックする。
「ぴったりのタイミングで来たね」
「あ~それは。言ってあるよね? わたしの軍用スマホには、この艦の全員の体の状態送られてるからね。医師権限でリアタイでね。だから見ようと思えば『起きてる』、『寝てる』、『ドキドキしてる』全部わかっちゃうよ?」
そうだった。僕らは持ち込んだ私物の自分スマホとは別に、体験乗船用の「軍支給品のスマホとパッドPC」を持たされてる。
その中の「アノ・テリア」という通話アプリで、個別に、または全員と、個別通話、チャット、メールとかができる。
今は国中のネットが繋がらない状態だけれど、戦艦の中央CPがホストになって、艦の内部と周囲、ある程度までならスマホとして普通に使える感じだ。検索も出来るし、電子書籍も動画も見れる。
ただし、国のネットが通常運転だった出航2日目までで更新は止まってて、中央CPがセーブしてるデータまでだけど。
気になるドラマや動画の更新が止まったって、女子達はブ~ブ~言ってたなあ。
「脈拍とかが異常に上がったら、わたしのスマホに通知がくるから。咲見くん、こっそり変なことしちゃダメですよ」
「‥‥‥‥!」
そう逢初さんに言われて、思わず「ぶほあ!」ってなりそうになったがギリ耐えた。
今なら確信できる。彼女は天然で、このセリフに深い意味は無いのだ! 無いのだ! ――と。
だけど。何か忘れているような。
‥‥‥‥僕の右手が何だったっけ。忘れた~~。まあいいか。
※「医師権限で乗員全員のバイタルを把握」は‥‥。




