第80話 アポリアⅠ③
「べびたん?」
聞きなれない単語に、思わず僕は聞き返す。
「え? わたし、そんなこと言った?」
「うん」
「そうだっけ?」
ちょっと芝居がかった感じで誤魔化された。
「‥‥‥‥まあいいや。でもどうして、なんでさっき‥‥泣いてたの‥‥?」
それよりも。涙のワケを訊きたい。もう、訊いてもいいよね?
まだ答えを全部もらってない気がしたんだ。
「‥‥‥‥」
愛依の思案顔。でも、思い当たる答えが無さそうな表情だ。
「‥‥‥‥わかんない。何となく悲しくなって、あ~、って涙が出てきて。出てきてから、『あ、わたしダメかも』って感じがすごくして。‥‥あ~。‥‥わたし、めんどくさい女なのかな。いやだな。そういうので暖斗くんに引かれると」
「大丈夫だよ。僕もとなりの女の子に泣かれるのは初めてだったけど、う~~ん。不思議となぜか落ち着いた気持ちになった。ああ、悲しいんだなって」
「あの時、もしかしたらひどいケンカになってたかもだよね?」
「大丈夫。たぶん、えっと、涙を止めたい気持ちの方が多かったから」
別にキザなセリフを言いたいわけではなく、ただ、あの時の僕の心の在りようを言おうとしたんだけど、上手く言えなかった。――やっぱりキザなセリフになってしましそうで。
愛依は、あの大きな黒瞳で、僕をじっと見てくれている。いつもより熱い視線すら感じる。
照れ隠しもかねて、ある提案をしちゃおうかな。
「あのさ。愛依。ちょっとお願いあるんだけど?」
「何? 今のシチュだと、大抵のお願いはOKしちゃうかもだよ」
僕は、息をす~~と吸って。
「あの。もう一回後ろむきで腕まくらしない? ほら、なんか『新鮮』だったんだよね。色々と」
「やだ」
ノータイムで拒否られた。はは。
愛依は起き上がってしまった。作戦失敗か? フォローを試みる。
「後ろ姿が良かったんだよ。あと、もしかしたら『後ろ向き』の方が後遺症の回復早かったりして?」
「う。‥‥‥‥それは検証しないと是とも非とも言えないわ。でも、今日は後遺症じゃあないのに」
「心拍数が異常だったんでしょ? 大丈夫かな? 僕としては自室に帰るより、ここで愛依に、付き添ってもらった方が生存率高くない?」
愛依は、上掛けで体を隠しながら。
「‥‥う、‥‥なにかこの頃、わたしの方が言い敗けてるような? それに暖斗くん、また口もとがにまにま、緩んでるよ。‥‥‥‥いいよ~だ。その口もと、わたし見たくないから、お望み通りこうしてあげるもん」
愛依がすべり込んできた。
後ろ向きで。
「こうしてほしいんでしょ?」
と、言いながら。背中をそっと沿わせてきた。
正解、だったのかな。
僕らは、この「ふれあい体験乗艦」で色んなことを経験してきた。色んなことを乗り越えてきた。僕と多賀さんが食堂にいたという事実、そこにあった空気を、愛依は何か感じ取ったみたいだ。
でもこんなつまらないことがキッカケで、愛依とのつながりが切れるなんて、もう想像もしない。
本当に「ふれあい体験乗艦」を始めたころとは全然違うなぁ。
こんな時思い出すのは、あの夕焼け。
「6組の鳴沢さん事件」。彼女の家からの帰り。父親と一緒に、公園から見ていた。
あの時父さんはこう言ったんだ。
「なあ、暖斗。男が、一生の内で、どれだけの女性を救えると思う? どれだけの女性の涙を拭けると思う?」
僕はあの時5歳くらいで、正直何も考えて無かった。あの後、父さんは照れながら、「今言ったことは忘れてくれ。鳴沢さんの家の事情を考えたら、ちょっと感傷的になったんだ」みたいなことを言っていたと思う。
国体維持法、指定特別婚姻対象者、だっけ。
父さんはそんなこと言ってるから「対象者」になっちゃうんだよ。なかなか評判の悪い法律だから、僕はみんなには内緒にしてる。これ知ってるのは麻妃とひめちゃんくらいかな?
もちろん、父さんがそういう生き方を選んでいるからそうなった訳で、別に悪いことをしているんじゃないし、‥‥‥‥いや、むしろ良いことしてるからこうなっちゃったんだけどね。
でも、この体験乗艦でだんだん考えが変わった。実際に目の前の人と深くふれあうようになって、その人が色んな考えを持っていて、夢とかを持っていて、みんなそれぞれ必死に生きていることがわかったんだ。
僕も今は、できるなら誰かを救いたいと思っている。まあ、ただの無力な中学2年生だだけどさ。
それは、父さんと同じ道を進む、ってことを意味しているのかな? はは。僕も「対象者」になっちゃうかもね。将来。
しかし、なんなんだろ? 目の前で友達が、同級生の女の子がべそかいたのに、逆に穏やかな気持ちになるなんて。でも、それがたぶん、僕の「本体」なんだと思う。
取りあえず、涙を拭くとかじゃあないけど、愛依のそばにいて、それに近いことは今できた。
うん、まあ、できた、よな?
ちょっと傲慢かな? 「この子を救いたい」――って思うのは。
あ、「敵から」はもちろんなんだけど、それだけじゃなくて。
この子の笑顔を曇らせる、色々な何かから。
まあ、多賀さんの本性発現イベントで、愛依の気持ちを揺らした張本人が今言うのもアレなんだけどさ。
愛依は、相変わらずこちらに後頭部を向けたまま、静かにしている。‥‥まだ寝入ったかどうかはわからない。
うん、やっぱり。表情が見えないのが返って新鮮な感じだよ。
僕はきっと、父さんと同じ道を歩む。――つまり、もう君のことを放っておけなくなるってことなんだ。みなと市に帰ったら、ゆっくりと色々考えよう。出来ればふたりで。
君の境遇と、悲しませる色々なことと。
ふたりで考えれば、きっといいアイデアが浮かぶと思うんだ。――もし浮かばなくても、その時はその時で、え~~と。まあふたりでいれば、何とかなると思うから。
不思議だ。愛依のことって、無限に考えていられる気がする。
なんて思考を最後に、僕はうとうとしながら寝てしまった。
あ、お風呂のこと、完全に忘れていた。
※「隣の子が急に泣き出した時の対処法ー-咲見暖斗の場合」
※ 事実上の「第三部プロローグ」かも。
 




