第4話 右手Ⅰ③
医務室。小休憩を入れてから、またスプーンマラソン再開だ。
逢初愛依さんの華奢な上腕が、するすると僕の背中に伸びている。その手は、僕の肩をとらえると、また、ちょうどいい具合に肘で僕の頸椎を受け止める枕を作った。
「上手だね。もしかしてこういうのって、慣れてる?」
素直にそう思った。ちゃんと姿勢を作りながら、僕の右肩と彼女の間には、ギリギリ空間が作られている。
「うん、まあそうだね。親戚の家とか行った時に、姪っ子たちの面倒みて、よくやらされてたから。慣れてる、のかな? 乳幼児のお世話」
視線を上 ――――に向けて、思い出す仕草をする。
「‥‥中には、わたしをお母さんと間違える子もいて」
「やっぱり。上手だったんだね」
言いながら口もとにスプーンが来たので、タイミングよく口に入れた。彼女は、褒められて気を良くしたのか。
「それでね。あのね。お母さんのすぐ下の叔母さんとこの子なんかね」
うんうん、しゃべれないから目で返事をする。
「わたしのことお母さんと勘違いして、わたしのおっぱい吸おうとするんだよ? うふふ」
「‥‥‥‥ぶほあ」
「あ‥‥‥‥ごめん。今のはわたしが悪いよね‥‥‥‥」
とりあえず、逢初さんが天然だということはこれで確定した。警戒してたのに不意打ちしてくんなこの子。見えない角度からパンチを飛ばす天才肌。
「暖斗くん。ひとつ、提案なんだけど」
僕が吹いたミルクを拭き取りながら、彼女の方から話しかけてきた。助かった。もうどうにもリアクション出来なくて、寝たふりでもしようかと思ってたから。
「あのね。やっぱり前かけ作ります。よだれかけ。この頻度でパイロットスーツ汚してたら、不効率だよね。あと」
あれ? 提案ひとつじゃ? ま、いいか。
「ミルク飲んでる時にわたしが話しかけた時のお返事。まず、『YES,いいね、そう思う』の時はウインクして。それで、『NO,良くない、違う』の時は眉をしかめてみて。それで、会話しましょう」
不思議な娘だな。ミルク飲んでる時まで会話する必要あるか? と疑問が浮かんだけど、まあいいや。飲んでる時はタイミング合わせるから、喋りかけづらいし。
「うん、いいよ。あ、でもウインクは何かなあ、代わりに両目を閉じるよ」
そう返した。
それから、彼女はまた僕を介助して、スプーンを口に運んだ。
「‥‥咲見くんは、やっぱり結婚とかするんだよね。将来」
彼女は薄目を開けたまま、僕に問いかけてきた。僕はゆっくりと両目を閉じる。YES。
「うん、そうだよね。『結婚しなさい』って同調圧力すごいもんね? この国」
また両目を閉じる。彼女は笑ってみせた。僕にはそれが作り笑いに見えたのだけれど、なにぶん彼女とのつきあいは短い。そう見えただけかもしれない。
「じゃあ、将来、咲見くんの奥さんになる人たちには、ぜひ、優しくしてあげてね」
逢初さんはそう言って、もう一度同じように笑った。
***
「寝ちゃったかあ」
わたし、逢初愛依は、スプーンを暖斗くんの口から離した。背中に回していた腕を、そっと抜きとる。
「あ、そうだっだ」
ポケットからスマホを取り出して、暖斗くんに向けた。あ、盗撮じゃないよ。経過観察記録と学会用だよ?
「ふふ、なにこれ。本物の赤ちゃんみたい」
彼の寝顔は、無防備で、無垢だった。
確かに、赤ちゃんぽいと言えば赤ちゃんぽい。
「初陣で、きっとすごく緊張したんだよね。プレッシャーもあったんだよね」
温かいタオルで、そっと暖斗くんの寝顔をぬぐった。
艦長の子恋光莉さんからは、何か異常がないか、気が付く事があったら、と心配の声をもらっていた。ドローンで暖斗くんと一緒に戦った麻妃ちゃんも、幼馴染みを気にかけていた。
「モテモテじゃないの。咲見くん。色んな女子に、心配してもらって」
正直、麻妃ちゃんの存在は心強い。あの2人は本当に兄弟の様だし、何より麻妃ちゃんが暖斗くんに対して、何でも意見を言える空気なのが良い。きっと、彼女に相談すれば、困ることは無いんじゃないかなあ。
「う~ん。今どき珍しい男の子だよね。幼馴染みとはいえ、あんなに女子に対して『高圧的に接しない』なんて。ありえないよ。わたしも普通に話すOKもらったし」
もう一度、わたしは暖斗くんの寝顔を見直す。
そういえば、こうして自分が顔を近づけるたびに、彼は、困ったような表情をして、首を引っこめていた。そうか、わたしは、小児や高齢者の患者様と話す機会が多いから、このくらい顔を近づけるのが普通だけど。
同世代の男子からしたら、近すぎてびっくりするよね。やっぱり。
「ふふ、本当に、赤ちゃん、みたい」
彼の胸に、そっと手をのせてみた。暖斗くんの体温と、呼吸の動きが伝わってくる。わたしは無意識に、こんなことをつぶやいていた。
「あなたは、わたしの、【べびたん】になってくれるのかしら?」
***
「さて、わたしの艦内医療の初陣も、とりあえず終了ね~」
PCに診療報酬明細書と報告書を打ち込んだ所で、わたしは席を立った。両腕を高く上げて身体を伸ばしてから、暖斗くんに夏掛けをかけようとした、その時に。
「?」
わたしは、あることに気がついた。
「これは‥‥‥‥?」
暖斗くんの『右手』が、微かに、微かにだけど、震えていた。
思わず、わたしは、両手でその右手を包んでいた。
この人は‥‥‥‥!
「今日は大変だったね。暖斗くん。‥‥‥そうだよね。本物の軍の人も居なくて、大人ですら、1人も居なくて。何かあっても、この中学生16人でやらなきゃならないんだもんね。プレッシャーだったよね。苦しかったよね‥‥‥‥わたし、気づいてあげられなくて、ごめんね」
わたしはそのまま、震える彼の右手を、ずっと包んでいた。
※「右手」「べびたん」




