第8話
「ねえ、そこにいます!?」
「いるよ、うるさいな!!」
ラルフはドアの向こうから叫ぶザイヤに荒々しく返事をした。
今、ザイヤは入浴中である。授業から帰ってきたら、「頼むからひとりにしないでくれ」と懇願され、夕食には付き合わされるわ、勉強も床で構わないからとラルフの部屋でやるわで、とにかく付き纏われて大変だった。
挙げ句の果てに、トイレや風呂まで付き合わされている。
怖いからドアの外にいろ、というのだ。今はシャワー中。
「怖いからなんか喋ってて!!」
「あー、もうイライラする……」
「教科書の音読でもいいから、とにかくずっと喋っててください!」
「ったく……」
どうせ喋らなかったらザイヤはいつまでもうるさく頼み続けるだろうし、抗うのは諦めて手に持っていた歴史の教科書を開いて一行目から音読した。
シャワーの音がする。次第に音読に集中し始めた。
(おや? ここは記憶と違うな。間違えて覚えていたかもしれない)
浴室のドアに背を預けて胡坐を掻いていたラルフは、鉛筆でチェックを書き込む。
(似たような語句が並ぶから、曖昧になっていた。こういうところを試験で突かれると落としやすい。確実に覚えておかないと)
改めて記憶を正して、暗記していく。
「ねええええええええ!!」
急にドアが開いて、危うく背中から転びそうになった。
そこにはバスタオルを巻いただけの裸のザイヤがいる。まともに体を拭いていないのか、髪も体もびしょ濡れだ。ザイヤから滴る水がラルフの頬に垂れ落ちる。
カッと頬が熱くなった。
どんなに進学校で5年間を過ごしてきたとしても、健全な男子高校生。女の裸体を見て、なにも思わないわけがなかった。
さっと目を背ける。
「服を着ろよ、服を!」
「ラルフさんが急に黙るから! 話し掛けても返事してくれないし!」
「え、あ、ああ……ごめん、気付かなかった」
つい集中すると猛進してしまう癖がある。
(いや、なんで僕が謝るんだよ? むしろ親切にしてやってるのに!)
「喋り続けてください! お願いしますよ!?」
怒りに任せてザイヤは強くドアを閉めた。風圧でラルフの前髪が揺れる。体を拭く音がした。
わなわなとしてラルフも言い返す。
「なあ! 僕が優しいのわかってる!? トイレに2回! 風呂にまで付き合ってやってるんだけど!?」
「わかってますよ!」
「もう少し感謝しろよ!」
「してますよ! でも怖いんだから仕方ないじゃないですか!」
まあ、そうなのだろうけど。
しかし実際に彼女の幽霊を見ていないので、本当にそんな幽霊のようなものが存在するのか疑わしい。確かにエレベーターから悲鳴は聞こえるけれど、目の当たりにしていないからどうも実在する人の声なのじゃないかと思ってしまう。悪戯とか。
少しして、今度は優しくドアが開いた。
部屋着になっていた。
石鹸の香りがする。
「はー、よかった……安心した」
「僕はとんだ迷惑──」
言い掛け、やめた。
ザイヤの左足首には、まだあの手形がくっきりと残っていた。自分で自分の足を掴んだのでは、あそこまではっきりとは残らないだろう。
何者かに足を掴まれ、引き摺り落とされた。
それは事実に違いない。幽霊の仕業なのかは知らないけれど、ザイヤは誰かに狙われている。さらにザイヤは外部進学生だ。ほとんどが中学からの顔見知りの中で、そんな状況下に置かれたのでは恐怖に支配されるのも致し方なし。
「まったく……。僕もシャワーを浴びるからどいてくれ」
「わかりました。じゃあ、なにか歌でも歌っててください」
「……は?」
既に用意していたタオルと着替えを手に、頓狂な声を挙げてしまう。ザイヤは、さも当然とばかりに首を傾げた。
「だってラルフさんがお風呂に行ってる間、私がひとりになっちゃうじゃないですか。ここで待ちますから、喋っててください。大きめにね! 応接室はエレベーターがあるから本当に怖い! 1秒たりとも隙間を与えず喋っててください!」
「息をさせろ!」
「息はして!」
もう言い争っていても時間が無駄に過ぎるだけだ。
この学校は戦場だ。成績がなによりも重視される。学年首席だけがこの直結部屋を用意されるというのに、彼女はその貴重性を知っているのだろうか。
とにかくドアを閉めて、頭からシャワーを浴びる。
「喋って!!!!!!」
ドアがどんと殴られる。
「あーーー、もう!」
呻きつつ、歴史の年号と大きな事件を記憶で遡り読み上げていく。頭を洗い、体を洗い、シャワーを止める。その頃には、すっかり喉が渇いていた。声を出すというのは、思った以上に喉を酷使する。
タオルで体を拭き、下着を履いたところで──
「それだ!!」
と、ザイヤがドアを開けてきた。
「お、おい!」
なぜだか胸を隠してしまう。そんな情けない自分の反応が恥ずかしくて、早々に服を着た。
「それですよ、それ!」
「なんだよ! 服を着させろ!」
「歴史ですよ! この屋敷の歴史を遡れば、彼女についてもっとなにかわかるはず! そしたら助かる方法も見付かるかも!」
そんな簡単に行くだろうか。けれど、もう縋るのはそういった頼りない選択肢しかないのだろうとも思いつつ。
「なら図書室だな」
「そうですね! 早速、明日の授業終わりに図書室に行ってみます!」
「施錠されてるぞ」
「……え?」
歯を磨く。それに倣って、ザイヤも歯を磨き始めた。
「校舎に図書室があるけど勉強スペースの取り合いになって、不公平だっていう意見が出て今は閉鎖されてる」
「なん、だと!?」
歯磨き粉が飛んでくる。頬についたザイヤの飛沫を苛立たしく指で弾き、口を漱いだ。同じくザイヤも歯磨きを終える。
自分の部屋に戻る。そのあとをザイヤが追ってきた。
「鍵は職員室で保管されてるから、借りに行かないといけない」
「……仕方ない」
「ま、頑張れ」
「わかりました」
「じゃ、これで──」
おやすみ、と嫌味たらしく言おうとしたところで、ふと気付く。ザイヤがまだすぐ後ろにいた。しかも枕と布団を抱えているではないか。
「……なんだよ」
「え、一緒に寝かせてくださいよ。床でいいですから」
「はあ!?」
「ひとりで寝たら夢枕に出る展開なんですよ、このままじゃ!」
「展開ってなんだよ!」
「映画の王道パターンですよ!」
「なに言ってんだ!?」
「お願いします!!」
強引にラルフの部屋に入ってきて、床に枕と布団を敷いてしまうザイヤ。
(ほ、本気か? 高校1年と2年の男女が一緒の部屋に、ねねねねねね寝る、だと?)
ラルフの動揺を気にも留めずに寝転ぶザイヤは、最後に勉強しようというのか教科書を開いて熟読している。立ち尽くすラルフに気付いて、不思議そうな顔をした。
「寝ないんですか?」
幽霊よりもこの神経の図太さのほうが怖い。
ラルフは洗いざらしの頭を掻き毟った。
「もう、どうなっても僕は知らないからな!」
ばたん、とドアを閉める。
ベッドに潜り込んで瞑目するも、そんな簡単に寝られるはずもなく首を起こしてザイヤの様子を見た。
「……寝てる」
いとも簡単に寝ている。
そういえば、昨日はほとんど寝られなかったような話をしていたなと思い出して、脱力した。ランプの灯を落としながら成績を落とさないようにしなければと強く誓った。