第7話
集中が途切れたのは突然だった。
ぷつん、とバッテリーが上がったみたいに脳が働くのをやめてザイヤは我に返った。
なにをしていたのかしら。
混乱するほど、ザイヤは集中していた。
手元を見ればノートに文字が書き殴られている。数学の問題と、物理と、工学、化学だ。ぺら、ぺら、とノートを捲っていくとどれも解いた覚えのあるものばかりだ。
ザイヤの掌底は鉛筆のあとで真っ黒に汚れている。
どうやら勉強していたらしい。
「すごいな、ザイヤ」
自画自賛してしまう。これほどの集中力があれば、努力を重ねて成績が伸びたのもわかる。
そんな子が、ゲームの冒頭でただ死ぬだけだなんて世界観とは実に恐ろしい。生き延びるものと、そうでないもの。選ばれなかったものは、常に悲しい人生を送るのだとは考えたくない。
ザイヤはゆっくりと背後を見た。
そこには応接室に続く赤茶色のドアがある。
何時になったのだろう。
もうラルフは帰ってきただろうか。机を使って、足に負担をかけずにほとんど腕力で立ち上がる。足を引きずりながら、そろりとドアを開けた。
応接室は空っぽだ。誰もいないくせに、家具だけは揃っている。エレベーターを塞ぐベニヤ板にも異変はない。
素早く隣のドアを叩いた。
「ラルフさん、いますか?」
応答なし。
困った。集中力が切れると、途端に恐怖が蘇ってくる。没頭しているうちは忘れていたのに、思い出すと急に怖い。
そうだ、化学で難しい問題があったからクドモアに聞きに行こう。3階の部屋を使っていると聞いたし、ひとりは怖いし。怖いし。聞きに行くだけ、という口実。
部屋に戻って、分厚い教科書を脇に挟んで足早に部屋を出る。鍵を掛けて、廊下に出た。
(本当に人が住んでるの?)
それほどに廊下は静まり返っている。まだ授業中だとしても高校1年の寮生はいるはずなのに、物音ひとつしない。天井が高いせいで、殊更に不安が煽られる。
階段は中央にあった。
いくつもの部屋の前を通り過ぎ、階段を降りていく。踊り場でのクリアリングも忘れない。
(同じ手は喰らいませんよ!?)
なんて強がりながら彼女がいないかをちらりと確認し、3階に降り立つ。
変わらない風景をまた歩き進め、3階の直結部屋をノックした。反応なし。さすがに教師としての仕事をしているのだろうかと思い、踵を返そうとした。
「どうしたぁ?」
クドモアの声。
よかった、いてくれた。
「あ、先生! 問題でわからないことがあったので教えてください!」
「どうしたぁ?」
「あの、この参考書の117ページのところなんですけど、この化学式の反応速度を求めるときに触媒の──」
きぃ、と蝶番が音を立ててドアが開いた。
クドモアが開けてくれたのかと思ったけれど、ほんの数センチ開いただけで後に続く反応がない。しかも、ドアの向こうはやけに薄暗かった。
まるで窓がなにかに塞がれているみたいに。
「……先生?」
沈黙。
暗闇から冷気が吐き出されてくる。
「どうしたぁ?」
クドモアの声。
けれどザイヤは馬鹿じゃない。
数々のホラーゲームを制覇し、数々のホラー映画を大画面のスクリーンで観賞した女。
(この展開は、まずい)
部屋に入ったら、終わる。
ザイヤは走った。
振り返りもせずに足の痛みも気に留めずに、自分の全力をもってして走り抜けた。階段を駆け下りる。
3階からふたつ分の階を下りれば、そこは正面玄関に着くはずだった。外に出られるはずだった。──が、まだそこは景色の変わらない左右にひたすら寮室が続く廊下がある。
「な、なんで」
息を切らせながら壁を見て、ぎょっとした。
3の数字。
3階から下りたはずなのに、ザイヤはまだ3階にいた。
(いや、違う)
ザイヤがいたのは、5階だったのだ。
3階に下りたつもりだったけれど、いつの間にか5階に上がっていた。まるで誘蛾灯に誘われる愚かな虫のように。
彼女に導かれるように。
そうとわかると、鳥肌が立った。
「あっっっっぶねえ……! マジあぶねぇ……!」
あのまま部屋に入っていたらどうなっていただろう。きっとエレベーターに引き摺り込まれて、今頃は死体になっていたはずだ。おそるべし、怨念。
自分の危機察知能力に感謝したい。
「おい」
「おんぎゃぁ!?!?」
振り返ると、そこには白衣を着たクドモア。驚いて落としてしまったザイヤの教科書を拾いながら、煙草を唇で挟む。
「顔、真っ青だぞー」
教科書を手渡してくれながら言う。受け取り、呼吸を整えた。本物のクドモアだ。
「す、すみません。ちょっとしたトラブルが……」
「へえ。で、3階でなにやってんだぁ?」
「あの、問題で難しいところが」
「どこよ」
「ここなんですけど」
参考書を開いて指を差すと顔を寄せ、眉間に皺を作り、目を細めた。それが凝視するときの癖らしかった。少し首を傾けているせいで、骨張った顎と首のラインが浮かび上がっている。
「こんなところまで勉強してんのかぁ? これ、高3の範囲だぞー。下手すりゃ大1のレベル」
「えっ? そうなんですか?」
「まあ、いいやぁ。貸してみー。これはさぁー」
言いながら参考書を受け取り、白衣の胸ポケットに入れていた鉛筆でヒントを書き込んでいく。公式と、その考え方。
「ああ、そうか。そういうふうに応用するんですね」
「そそ」
納得。
忘れないうちに他の問題も解いて頭に刻んでおかないと。
ザイヤはぶつぶつと呟きながら教科書を返して貰い、階段を上ろうとした。
「ちょっと待ちんしゃい」
「はい?」
呼び止められ、振り返る。
「足、どしたぁ?」
「え? あ、お昼に階段から転んだんです」
「へえ、どれよ」
クドモアは断りも入れずに屈んでザイヤの左足首をぐっと握った。
「いっっっっ!?」
「あーららー。腫れてやんのー。なのに、なにこの包帯の巻きかたぁ。下手くそにも程があるんですけどぉー?」
これはあの保健医ババアがやったんだ、と言ってやりたいけれど痛くてそれどころじゃない。
「ま、あらかた予想はつくけどねー。俺の部屋に連れ込むのも悪くないんだけど、上にバレると面倒だから4階まで戻るかー」
「連れ込むって言い方……」
「あ、想像したぁ? そういう関係になる? 俺、ザイヤなら全然アリよー?」
「この人、ヤバ。教師の資質とはいかに」
「教師の前に男女だしさぁ」
「犯罪者予備軍。なぜ教師になれたのか甚だ疑問」
とか言いつつ、掴まれよとばかりに右腕を差し出してくる。
「どうぞ、花嫁サーン?」
「それ全然笑えないんですけど」
「そ? 俺は笑えるー」
ありがたくクドモアの右腕に掴まって4階の直結部屋まで戻った。
応接室のソファに座ると、クドモアが傍に膝をついて靴下を下げた。包帯はほとんど足に絡まっているだけで、サポーターの役割を果たしていないほど緩んでいる。
クドモアは包帯を巻き取った。
(……意外と優しい)
ふざけている口調なのに、気怠そうな表情なのに、手付きは妙に丁寧で優しい。ザイヤが反応に困るほどだった。
「あ、下着水色だぁ」
「この変態クソ教師!」
スカートの裾を押さえるも、クドモアは肩を竦めるだけだった。本当に遊ばれているとしか思えない。
ぐ、とキツく包帯を巻かれ、鈍い痛みが走った。
「動くと痛いから、固定させておきなさいねー」
「……わかりました」
ふざけたり、真面目になったり、よくわからない。
「はい、終わりー」
「ありがとうございます」
固定されてだいぶ楽になった。
(あのババア、手ぇ抜きやがったな)
胸中で悪態を吐いておく。
ふと、視界が暗くなった。挙げ句、ぎしりと軋むソファ。
見ればザイヤにクドモアが覆い被さろうとしているではないか。
「なになになに!?」
「え、ご褒美もらおうかと思ってー?」
「あなた教師でしょぉ!?」
「え、関係あるー?」
「大ありでしょうよ!」
どんどんと近付いてくるクドモアの胸を押し返すも、びくりともしない。ああ、キスされてしまう、と目をぎゅっと瞑り、唇の先が擦れ合ったところでクドモアがぴたりと止まった。おそるおそる目を開けると、眼鏡の向こうの真剣な眼差しに射抜かれる。
「いいの? いいなら、続けるけど」
その急に変わる声音、やめてほしい。
ザイヤはぶんぶんと首を振った。
ホラー映画の鉄則。いちゃいちゃする奴は真っ先に殺される。ホラーの世界ならば純潔を保つべし。
ふとクドモアが離れて行った。
「残念」
「なにが残念!?」
本当にこの人どうやって教師になったんだろう。
「そろそろ2年の授業も終わるし、ラルフも帰ってくるよー。安心して、勉学に励みなさーい。んじゃあ」
教室と同じく、軽い口調と仕草でクドモアが出て行く。格好良く白衣を翻す様がなんとも大人の余裕を思わせて感じ悪い。
ややあってから、ラルフが帰ってきた。
自室にいるだろうと思っていたのか、応接室のソファに座るザイヤを見て訝し気に目を細める。
「なにしてるんだ?」
「清廉潔白を大切にしようと誓った今日この頃」
「なに言ってんだ」
とにかく、ひとりにならないように気を付けないと。
彼女は、やはりザイヤがひとりになったときを狙ってくるようだ。