第4話
ラルフは宣言どおり、2階までしか一緒に来てくれなかった。2年生の生徒達に紛れてしまうラルフの背中をそれこそ仔犬よろしく見送り、ひとり寂しく3階に上がる。
(けど、きっと学校でひとりになることなんてないし)
期待と不安を抱きつつ、3階に降り立った。
すると、生徒達がさざ波のようにザイヤを避けた。
どうやらザイヤが5階の住人であり、エレベーターの花嫁に目を付けられたと既に噂が回っているらしい。
「あ、あの──」
話し掛けようとすると、なにも聞こえなかったみたいに生徒達に逃げられてしまう。
(クラス分けがどうやって発表されてるか、聞きたかっただけなのに)
まあ、確かに5階から落ちたと聞いたら怖くて近付けないよな、と思いつつクラス分けが掲示板に貼り出されているのを見付けた。群がっていた生徒達がザイヤに気が付いて逃げてくれたので簡単に見ることができた。こういうときは便利ね、はいはい。
1年生は4クラスあるようだ。ザイヤはA組に名前がある。
階段を上ってすぐがA組だったため、やや廊下を戻る形になった。
学校は日本の作りとほぼ同じだった。北側に廊下があって、南側一面が窓。西側に黒板、東側に教材や体育着を入れておくロッカー。
この世界観は一昔前のヨーロッパに似せてある。
スマートホンも電車も普及する前。家電製品もほとんどなく、照明はランプ。移動手段は馬車か自転車か、売り出され始めた車。けれど自動車は高級すぎてほとんどない。
水道下水、ガスに電気もあるけれど、電気は貴重で動力源が不安定ということもありエレベーターの類はそれこそ金持ちにのみ許された便利品。だから寮のエレベーターもボタンを押しても作動はしない。今の学校は広すぎて電力が行き届かないのだ。
もちろん日本なんて国もなく、3つに分かれた大陸に小さな国が40ほど。戦争は現在のところなく、いかに経済を発展させるかについて各国が躍起になっている高度成長期といったところだ。
だから学歴が重視される。
教室は南北にそれぞれ入口があった。ザイヤは黒板側のスライドドアから入った。
自分の席を探さなくとも見当はついた。
6行6列ある机の中の、一番窓側の前から4番目。
前後と隣からやけに机を離されている席がひとつある。
確認のために黒板に貼付された席次表を見ると、やはりその席にザイヤの名前があった。
教室中の誰もが背を向けている。けれど意識は針のむしろのように向けられていた。
教室が静まり返っているのがその証拠だ。なんの意識もされていなければ、今もきっと雑談で賑わっているはずだった。ザイヤが入ってきた瞬間に誰しもが無言になったというのは、つまり、そういうこと。
それでもザイヤはひとりじゃないから安心した。
たとえ会話してくれる人がいなくても、教室にいればひとりではない。
机の上にはコサージュが置かれていた。
入学式のためのものだろう。生徒達は皆、左胸にコサージュが付いている。
入学式までにこれを付けて待機していろ、という意味か。
陸の孤島に座り、コサージュを裏返す。造花のコサージュはひどく乾いていて軽い。
安全ピンではない。
(なんだ、これ)
ドアの鍵を閉めるような、金属のつまみが付いている。試しに回してみるけれど、時計回りにも、反時計周りにも、延々と回転し続けて外れる気配はない。引いてみても、変化はなし。
「これ、どうやって──」
付けるのか。
そう訊ねたいのに、振り返れば後ろの席の女子生徒はさらに後ろの席の子と喋っており、こちらを向いてくれない。前の席の女子も、やはり違う生徒とわざとらしく会話を盛り上げた。隣は空席だし。
教室を見回しても、ザイヤに話し掛けてやろうとする生徒は、ましてや話を聞いてやろうとする生徒はいない。
(安全ピンにしとけや、そこは!)
むしろコサージュの作りに腹が立ってくる。このまま力づくでやっても壊れてしまいそうなので、もはや付けないでおこうと諦めた。
ややあってから、教師が入ってきた。
なんということ。
化学の先生じゃないか。今日は白衣でなく、しっかりとした黒の正装だ。相変わらず大人の男の色気がだだ洩れている。
「今年新任の担任クドモアだぁ。講堂行くから、クラスで固まって廊下で待機ー」
ああ、そうそう。
クドモア。ようやく名前を思い出した。名前しか明かされないミステリアスな先生という設定だった、そうそう。
クラスメイト達がぞろぞろと廊下に出るのにくっ付いて行く。教壇の前を通ろうとしたとき、クドモアにトントンと指で肩を叩かれた。彼はまた火の点いていない煙草を咥えている。
「コサージュどうしたぁ?」
「すみません、付け方がわからなくて」
握ったままのコサージュを差し出すと、クドモアは眉間に皺を寄せてコサージュを引っ手繰った。裏返し、つまみをぐっと握って引く。するとすぽんっとつまみが外れて針が出てきた。
「おうん!? さっきは外れなかったのに……」
「つまみを強く挟むと根元に余裕が出来て、針から外れるようになってるー」
「あ、なるほど……」
するとクドモアはそのまま首を傾げて顔を覗き込んできた。
(近い)
ふんわりと煙草の香りがする。
眼鏡が反射して、瞳がきらめいているように見えた。
「寝不足かぁ?」
「まあ……」
「式中にぶっ倒れるなよぉー。俺が運ぶはめになるからさぁ?」
「そこは運んでくださいよ!」
「ヤだぁ。俺、か弱いもーん」
(教師とは)
ふん、と鼻息荒く呼吸すると、ぽんぽん、とまた頭を撫でてくる。
近い顔の距離のまま──
「で、俺が付けていいの? 胸、触れちゃうんだけど」
こういうときは間延びした口調じゃないんだな。
さすがイケメン教師! と感心しつつ、急に変わった色気むんむんの囁きボイスに翻弄されているのが悔しいのでコサージュを荒々しく奪い返した。
「自分で付けます!」
「はいはい。ほら、並べよー」
「わかってます!」
また、頭をぽんぽん。
なんだか弄ばれている気がしないでもないけれど、助かったことに違いはない。先を行く先生の背中に悪態をついて、いそいそとコサージュをつけた。
廊下に出ると、またさざ波が起きた。
大丈夫。
ひとりより、まだマシ。
大丈夫。