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第32話


 また何かしてやがるなぁ?

 クドモアは読んでいた本を閉じて立ち上がった。


 書斎から応接室に出ると、エレベーターのドアから騒がしい音が漏れ出しているのがよくわかる。ドアに耳を近づけて当てる。


 このドアはいつもひんやりとしている。

 冷たい金属よりも固くはないけれど同じくらいに冷たく、どこか湿っている。そんなはずはないのに、死んだばかりの人の掌のようなざらりとした感触があるのだ。


 死んだ手に撫でられている。

 そんな気にさせる。


 ドアから細かな振動と共に声が聞こえた。



 ──やめて離して



 それはザイヤの声だった。

 なんだ?

 誰と争っている?

 まさか──。


 直後、ドアの隙間からほんの一瞬、撫でられた気がした。


 それが風だったのだと気付いたころには、があああぁぁん──……という大きな音で鼓膜がやられた。


 反射的に距離を取って耳を抑える。


 エレベーターシャフトで反響の大きくなった楽器のような音だった。音階などない出鱈目な不快音。


 ザイヤが落ちた。


「おいおい、マジか」


 そうとわかると、クドモアはエレベーターのドアに指を突っ込んで、体で大の字を作るようにドアを無理矢理抉じ開けた。

 この部屋に来てから、何度もその行為をした。

 母に託された調査をするためだった。


 ザイヤはただの餌だった。


 外部から入学してきた首席は、卒業後の進路の期待と、カリキュラム不要と責め立てられる不安とのせめぎ合いで、わずかに不安のほうが教員達に強く感じられていた。どちらかといえば入学してほしくない。そんな哀れな生徒。


 ならば利用しようと思った。

 事件の真相は調べて判明していたし、エイベルの霊がいるのも知っていた。


 花嫁もエイベルも永遠に成仏できずに彷徨っているだけ。


 救ってほしい。

 それは花嫁を無事に天国へ旅立たせる遺言だった。そのためには花嫁がどうすれば満足するのかを知る必要があった。



 ザイヤは完全な囮だった。

 手折られて、すぐに枯れる儚くて美しい花と同じだった。


 なのにザイヤはなかなかしぶとかった。


 その強さをクドモアは気に入っていた。

 だから、今更になって餌にしたことを後悔している。



「ザイヤ!」



 エレベーターシャフトの細長い奈落の底を見る。


 止まった箱の上に花が咲いていた。いや、それがザイヤだった。ザイヤは動かずに、気を失っている。



「ザイヤ、大丈夫か!?」



 反応はない。

 飛び降りるか。

 ここは3階。エレベーターの箱の高さを考えると、1階分の高さしかないはずだ。


 だが、衝撃に箱が耐えられるだろうか?

 あのエレベーターに底がないのは知っている。天井が崩れたら、それこそ大怪我だ。




 ──クドモア



 ふと、声がした。



 振り返って、ぎょっとする。


 花嫁だ。


 ベラ・ヘンストリッジ。


 ザイヤよりも背の低い彼女のために、クドモアはかなり視線を下に下げなければならなかった。


 まだほんの子どもだ。


 そんな彼女は可愛らしいピンクのドレスで、宇宙のような暗い眼球で、暗い涙を流しながらクドモアを見つめている。


 その手に、なにかが握られていた。

 差し出してくる。


 クドモアは、手を伸ばした。

 何度か見掛けた姿だったが、こんなにもはっきりと、間近で見たことはなかった。


 匂いがする。

 死んだ腐敗臭。


 ベラは、クドモアの掌にことりとそれを落とした。


 鍵だった。

 ザイヤに預けたままの、エレベーターが5階にとまる鍵。ザイヤのポケットから取り出したのだろうか、ベラは黒い涙を流しながら微笑んだ。


「伯母さ──」


 だが、もうそこにベラはいなかった。



 その部屋にはクドモアしかいなかった。



「ザイヤ!?」



 エレベーターシャフトに声がこだまする。ラルフの声だった。

 そこでクドモアはザイヤを助ける方法を思いついた。エレベーターシャフトに顔を突っ込み、5階に呼び掛ける。暗い洞窟に5階の入口だけがぼんやり光っている。


「ラルフ! 今からエレベーターを動かす! そっちにザイヤと飛び移るから、受け止めろ!」

「せ、先生!?」

「聞こえたかぁ!?」

「マジかよ……わかりました! ザイヤを受け止めます!」


 いやいや、俺も受け止めてくれよ、と思いつつ1階に走る。


 クドモアの母親はヘンストリッジであった誇りが高く、嫁いだ先で忌み嫌われていた。もうヘンストリッジではないのだから嫁らしくしろと言われても、彼女はヘンストリッジであり続けた。だからクドモアの家族は、もうどこにもいなかった。


 いるとすれば、伯母であるベラだけだ。


 話したこともない伯母。

 血の繋がった、唯一の人。


 もう死んだ、家族。




◇◆




 ふたりがギルの椅子を使ってドアをぶち破ったときには、ザイヤが男の霊に首を鷲掴みにされ、宙ぶらりんになってエレベーターシャフトに押し込まれているところだった。

 ベニヤ板で塞いだはずのシャフトはなぜか開け放たれていて、ザイヤの体がその闇に吸い込まれていく。


 ひゅう、と風の音がした。


 そんな──。


 すぐあとの落下音。

 竦む足をどうにか動かして、シャフトを覗き込む。



「ザイヤ!?」



 応答はない。

 そんな、馬鹿な。これでは噂と同じではないか。5階の住人がエレベーターから落ちて死ぬだなんて、そんな馬鹿げた話あってはいけない。そんな、こんな。


「ざ、ザイヤさん」


 ギルの顔面も蒼白だった。血の気が引いて、それこそビスクドールの人形みたいな白い横顔をしている。



「ラルフ! 今からエレベーターを動かす!」



 階下から聞こえてくるそんな無茶なクドモアの話に乗るしかなかった。



◇◆



 1階のエレベーターのドアを開けて、閉じぬようにドライバーを噛ませておく。動力源のスイッチは入れておいた。あとで教師達からしこたま怒られるだろうけれど、そんなことはどうでもいい。


 クドモアは廊下に足を残したままエレベーターへ上半身を捩じ込み、ボタン盤の横にある鍵穴に鍵をおしこんだ。

 ちかちかと箱の中の照明が明滅を繰り返して照り始める。ぶうん、という虫の羽似た音が駆動音だった。


 そのあとで、ドアも閉まっていないのにうんうん唸りながら箱が動き出した。さすが古い型式だ。セーフティなどあったものではない。


 ワイヤーが錆付いているのだろう。ぎしぎしと、上昇する動きがぎこちなかった。


 クドモアは挿したままの鍵に足を引っ掛け、小さなエレベーターの箱に四肢をいっぱいに開いて体を支え、天井に開いている点検用のハッチを押し開けた。


 ハッチの枠に手を引っ掛け、鍵を支えにしてジャンプをする。


 きぃぃいん──。


 なにかが弾けた音がした。


 鍵だった。

 鍵穴に挿さったままの鍵の持ち手が折れて、丸い持ち手が落下するところだった。からん、ころん、と音を立ててエレベーターのの奈落に落ちていく。


 下は見ないようにした。


 どんどん遠ざかる地面を見たら怖くなって、ハッチをくぐることさえ出来なかっただろう。



 天井に降り立つ。

 ザイヤは気絶していた。

 だらりと筋力が弛緩した体はエレベーターに小刻みに揺さぶられ、震えている。服を押し上げる胸がぶるぶると震えているのはなかなか欲情させられるが、それはまたあとで。


 とにかく、頭を打ったのか、それすらもわからない。はたまた落下した恐怖で失神しただけかもしれない。


 ふと視界が明るくなった。


 開けたままの3階を通り過ぎたのだ。

 顔を上げる。

 5階は暗い。目測が難しい。


「ラルフ!」


 呼ぶと、ラルフとギルが顔を出してきた。


「箱が上がりきる前にふたりでザイヤを引っ張れ! 俺は飛び移る!」

「わかりました!」


 チャンスは一度だけだ。


 それからすぐに箱が5階に差し掛かった途端、ラルフとギルが箱の天井に足を伸ばしてザイヤの体を掴み、そのまま部屋に引きずり出した。


 クドモアも飛び移る。

 その間、2秒もない。ほんの一瞬の救出劇だった。


 爪先で箱が完全に上がりきって、ぽっかりと口を開けて止まる。


 クドモアは濃い息を吐いた。

 インドア派にしては、我ながらよく頑張った。



 ──どうして



 男の声がする。

 部屋の中央に、顔が半分崩れかけた男が立っていた。


 彼は泣いていた。

 苦悩に頭を抱え、めらめらと自分を犠牲にして炎をきらめかせる蝋燭みたいに顔が溶けていく。



 ──どうしてだ、ベラ。わたしは君だけを愛していたのに



 エイベルの悲痛な叫びは、エレベーターの駆動音よりも高くて聞こえにくい。エイベルはザイヤをベラと思い込んでいるようだった。男3人に囲われているザイヤを見て、溶けている。


 いや、泣いているのだった。


 殺しても殺しても湧いてくる5階の住人。何度殺しても手に入れられない愛する人。彼は30年間ずっと愛に裏切られ続けている。


 そう思うと、顔が崩れてしまうほど泣くのも理解ができた。

 彼は弱く、それでいて愛が深すぎた。


 彼はまた次の住人を殺すのだろうか──。


 そんなことを思っていると、冷たい空気がふわりと飛んできて、エイベルを包んだ。


 ベラだった。

 空気から霧へ、霧から人へと姿を成したベラはエイベルをすっかり抱き締めて、子をあやすように頬擦りをした。


 ──ごめんなさい。私、間違ってしまったの



 エイベルは初めてベラを認識したみたいだった。それでも嘆いて、頭を掻き毟っている。



 ──だめだ……。何度殺しても、君はあの男のもとへ行ってしまう

 ──行かないわ。もう二度と行かない。あなたと一緒にいる


 するとエイベルはぼたりぼたりと溶けながら顔を上げた。期待の炎が目に宿っていた。


 ──本当かい?

 ──ええ、もちろんよ。ほら、エレベーターが来たわ。一緒に逝きましょう?


 エイベルは小さく頷く。

 ベラはエイベルの手を引いてこちらに歩み寄ってきた。エイベルは幼い子どものように引かれるまま歩いている。


 クドモアの横をすり抜けて行く。


 ああ、行ってしまう。この世界に残る唯一の家族が行ってしまう。



「伯母さん」


 クドモアが思わず言うと、ベラは微笑んだ。

 もう涙を流していなかった。



 彼女の瞳は美しい色をしていた。



 母と同じ色。

 懐かしい、その色。




「その子に伝えてちょうだい。




 私の代わりに、生きているうちに幸せになって。ってね。




 早く3人の中からひとり選ぶのよ、って言ってちょうだい。私は可愛い私の甥っ子を推すわってね」



 甥であると、いつから認識してくれていたのだろう。

 クドモアが伝言の了承に頷くと、ベラとエイベルは生前のような美しい所作でエレベーターに乗り込んだ。貴族そのもの。洗練された動きで狭い箱にふたりで並んで、互いに見合って笑いかける。


 どこかの舞踏会のような華やかな輝きに包まれていた。



「伯母さ──」



 エレベーターの照明が舞台の終わりを告げるようにふっと消える。


 そこにふたりはもういなかった。


 途端、エレベーターはがくんと一段下がり、次の瞬間にはエレベーターシャフトを急降下していった。


 一拍遅れて舞い上がってきた爆音に、3人は折り重なってザイヤを守る。


 静かになってからエレベーターを見ても、闇だけが広がっている。


 シャフトから下を覗き込むと、エレベーターは砂埃に塗れて粉々になっていた。



 これは果たして、救えたのだろうか。



 クドモアはしばらく、その残骸から目を離すことが出来なかった。

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