第31話
部屋の中央にザイヤはいた。いや、おそらく、中央。
ベニヤ板で窓を塞がれた花嫁の部屋は、まだ夕方に差し掛かったころだというのに暗闇だった。ベニヤ板のほんの僅かな隙間から光が漏れ出しているけれど、部屋の全貌を照らすほどの光度はない。
ザイヤは引力がなくなった体で立ち上がった。
まだ足が痺れている。よろめいて、部屋を見回す。
花嫁はいない。
いつ、どこから手が伸びてくるかわからないからザイヤはきょろきょろとして、その場を動くことすら出来なかった。
「ら、ラルフさん……」
自然と声を押し殺してしまう。大声を出したら敵に見つかってしまうみたいな思い込みがあった。
とうに見つかっているはずなのに。
それでも、まだ見つかっていないと一縷の望みを抱く。
とにかく逃げないと。
幸いにも窓の他にドア口からも光が漏れていた。ドアの枠組みを浮き立たせる光に向かって歩き出す。
部屋の中は生温かった。
梅雨の日の、体育の授業のあとの体育館みたいな湿気と熱気がこもっている。直射日光が当たっているわけでもないのに、ザイヤの全身はぶわりと汗を吹き出していた。
湿度で肌が汗の膜に覆われて、体内は熱いのに肌はとても冷たかった。
軋みを立てぬように、忍び足でドアに向かう。
「ザイヤ!」
ドアが激しくノックされた。肩がビクつく。
けれど間違いなくラルフの声だ。
「ラルフさ──!」
駆け寄ろうとして、足を止める。
本物か?
ゲームや映画では、こういうとき偽物の声に誘き出されて死ぬのではなかったか。ドア一枚を隔てた向こうにいるのは、実体のない化け物がラルフの声を真似て、今か今かと涎を垂らしてザイヤを待っているのではないか。
いや、既にザイヤは鳥籠の中にいる。
誘き出す必要はない。
なのに、ザイヤは迷ってしまった。
「ら、ラルフさん?」
問い掛けたところで、本物であるかをどうやって見極めろというのだ。
ふと気配がして振り返った。
花嫁だ。
窓際に立つ花嫁が関節を無視して、かくかくと首を曲げている。天井から吊るされた糸の力で起き上がろうとするマリオネットのような不気味な動きだった。
見つかった。
「ザイヤ、大丈夫なのか!? いま開けるから待ってろ!」
ここに花嫁がいるのならドアの向こうは本物のはず──!
走り出そうとして、見えない熱風に阻まれた。壁のような強靭さだった。吹き飛ばされたザイヤは尻餅をついて壁を見上げる。
見えない。
なにも見えない。
透明な壁だ。
ザイヤは出口を諦めて、手探りで書斎へ向かった。開かない。寝室も、浴室も、封をされてしまったみたいに開かなかった。
ザイヤは応接室にいるしかなかった。
花嫁は足を踏み出す糸を見付けられないらしかった。
かく、かく、かくん。
歩き出そうとしては、肩が外れて姿勢が崩れて転ぶ。そしてまた糸に釣り上げられて立つ。花嫁はもう立ち上がりたくないとばかりに首をかくかくと振る。
逃げないと。花嫁から。
「ザイヤさん、聞こえる? ギルだよ! ぼく! あの、その髪の毛ごめんね!」
ギルの声だ。
ならば、やはり本物じゃないか!
確信を抱いたザイヤは今度こそドアに向かって迷いなく走り出した。
けれど花嫁のマリオネットが猛スピードで回り込んできて行く手を阻む。
ひっ。という悲鳴が喉の中で引っくり返った。
「今はその話はしなくてもいいだろ!」
「あ、あ、そ、そっか! あのね! 花嫁の近くにいて! 花嫁はザイヤさんを守ろうとしてくれてるから!」
耳を疑う発言が響く。
「……え? ど、どういうこと?」
花嫁から後ずさりながら問う。聞こえているのかいないのか、ギルは一方的に喋り続けている。
「花嫁はザイヤさんを守ろうとしてるんだよ!
男の幽霊から!」
とん、と後退りするザイヤの背中になにかが触れた気がした。
振り仰いでみても、そこにはなにもない。
──濃度が高いものほど匂わない
クドモアの助言が急に耳に走る。
なにもない──ように見えるだけで、立ち上る陽炎に似た揺らめきがあることにザイヤは気付いた。
その存在に気付くと、もう姿を捉えた。
それは男だった。
30歳を過ぎているだろうか。モノクルを掛けた神経質そうな面長の男は、紳士服に見を包んでザイヤを見下ろしている。その両手は白の絹の手袋に包まれていた。
かなりの細身だ。骨に萎んだ皮が張り付いただけの皺だらけの男。間違いなく、生きてはいない青白さだ。
「……ゆ、幽霊が、ふたり……?」
まさか、そんな。
犯人は花嫁じゃないとでもいうのか?
ならば階段で足を引っ張ったのは?
まさか、突き落とされそうになっていたからわざと転ばせて助けた?
階段で背中を押して落とそうとしたのも本当はそうではなくて、男がザイヤの背中を押す行為を花嫁が防げなかったから、花嫁は悔しそうな顔をしていた?
浴室で溺れそうになったときも、男が近くにいると鏡の中から彼女が警告してくれた?
5階から逃げようとしたときも、まさか彼女が花壇の上に落ちるよう助けてくれたんじゃ──。
「……ベラ、あなたが助けてくれてたの……?」
花嫁に問うと、花嫁の口元が三日月に歪んだ。微笑んだのだった。両目の空洞からは黒い涙が流れて落ちていく。
なのに不思議と、もう恐怖はない。
彼女は慈しみに溢れていた。
ザイヤは男を睨む。
ならばこの男の正体はひとりしかいない。
「エイベル・クローネンバーグ……!」
トッティと愛し合うベラを憎み、殺害を企てた男。
ベラの婚約者だ。




