第30話
目に見えないなにかに引きずられていくザイヤを見たラルフは、心臓が止まるかと思った。
廊下を物凄い勢いで引きずられ、そうはさせまいとするザイヤの爪が白く変色する。
その先にあるのは口を開けた闇だ。
「ラルフさん!」
鳥肌が立った。
ザイヤの顔は恐怖に染まりきって真っ白になっていた。
「ザイヤ!」
手を伸ばす。
踏み出す一歩が遅い。こんなに鈍重な動きしか出来なかっただろうかと足を呪うほど、その一歩は遅く、小さかった。
手を伸ばした先にはなにもない。
2歩目がまた遅い。
気持ちばかりザイヤを抱き締めて、体は廊下に置いてけぼりになった。
ばたん、と音を立てて閉じるドア。
そうすると急に動きが蘇ってくる。ドアに張り付いて強く叩いた。ドアノブを回してもびくともしない。
「ザイヤ! ザイヤ、大丈夫か!?」
声が聞こえない。
ラルフさんと呼んでくれる声さえ聞こえない。
ラルフはドアに体当たりをした。肩が脱臼してもいいと思った。肩の骨が砕けて腕の中でばらばらになってしまっても構わないと思った。それほど全力で体当たりをしたのに、ドアは軋みもしない。
ひとりでは無理だ。
ギル・キャンディ。
クドモア。
どちらを呼びに行こうか。頼りになるのはクドモアだ。
近いのはギル。
──ギルだ。
クドモアなら、呼びに行かなくとも駆け付けてくれる自信があった。
翻してギルのドアをノックした。
「ギル、開けてくれ! ザイヤが花嫁に連れて行かれた! 助けてくれ、頼む!」
応答はない。
むかついた。
実のところ神経質で短気なところがあるラルフである。いい加減にしろと毒づいて、ギルの部屋のドアを蹴破った。
「おい、ギル──!」
部屋の中は香の匂いで充満し、無数の蝋燭で輝き、その中央にギルが膝をついて壁に飾られた男女の絵画に一心不乱に祈りを捧げている。
その絵画の真下。ベッドの上に髪の束が置かれていた。
「……なにやってんだ」
問うと、ようやくギルは顔を上げてラルフを見上げた。
眼窩の窪んだひどい顔をしていた。顔が整っているぶん、作りものめいている。
「ザイヤさんの髪を、引きちぎってしまいました……懺悔しないと、懺悔を」
そうしてまたぶつぶつとなにごとかを唱えている。
そういえば、ザイヤはしきりに髪を気にしていたかもしれないと思い出す。あの量の髪を千切ったのだとすると、かなりの力が必要だっただろう。
ザイヤは痛んだはずだった。
いや、だがそれより今はザイヤの救出だ。
「ギル、とにかく今は来てくれ! ザイヤが連れて行かれた! 部屋から助けないと!」
「……え?」
「部屋に閉じ込められたんだ!」
「そ、そんな、大変だ──!」
ギルは言って、机の引き出しの中から分厚い本とオルゴールのような小箱を取り出して部屋を飛び出した。
直結部屋が開かないとわかると、その場に蹲って本を捲る。
「ええと、ええと、ドアが開かない、これは霊障だから、鍵は不要だから、そうそう命令だ、命令するんだ」
ギルは小箱を開けて、いくつかのネックレスをじゃらじゃらと手に巻き付けた。そしてドアノブに翳す。
「貴殿に命ずる! ドアを開けろ!」
しーん。
「開かないじゃないか!?」
「あれぇ? ええと、ええと、あ、ここだ! 霊の名前がわからないといけないんだ!」
本のある一文を指差して言う。
花嫁の名前?
そういえばザイヤが家系図を見たとか言っていたな。花嫁の名前、花嫁の名前?
わからない。
そんな会話をした気がしなくもないのに。
図書室に行かないといけないか?
ここを離れて?
それよりもドアを壊す算段をしたほうが。
「ね、ねえ、君の名前を教えて!」
ギルがドアの向こうに言う。
「早くしないと、花嫁にザイヤが殺される」
「え?」
「え?」
迷ってる暇はない。
ギルの部屋にある椅子でも使ってドアを叩き破ろう。
そんな右往左往をしているときに、ギルが目をぱちくりとしてくる。
「……なんだよ」
「なんで花嫁がザイヤさんを殺すの?」
「は?」
「逆でしょ。花嫁が、ザイヤさんを守ってくれてるんでしょ」
そこで記憶がフラッシュバックする。
ザイヤの足についた小さな手形。応接室にいた華奢な体の花嫁。
ザイヤの首についた大きな手形。
「……まさか、霊は2体いるのか……?」




