第3話
眠れなかった。
昨日のあの直後、ラルフの寝室にラルフ用の勉強机と本棚を、ラルフの書斎にザイヤ用のベッドを運び込んだ。食事をする気には到底なれなくて、荷物を移し替えたそのすぐあとで入浴をした。もちろん、荷運びは業者に頼んだ。
しかし入浴と言えど、いつ彼女が現れるのかもわからなくて髪もまともに洗えないし、顔を洗おうにも目を瞑るのも怖くてまともに流せないしで、なにより、ぴちゃん、ぴちゃんと落ちる水滴の音が妙に怖くて慌ただしく出た。風呂に入ってさっぱり、なんて気持ちにはなれなかった。むしろ石鹸の洗い残しがぬるぬるして気持ち悪いくらいだった。
さらには眠ろうとしたら彼女が出てきそうだし、でも眠らなければ眠らないで暗闇が怖いし、ひとりは怖いし、夜が長いしで結局一睡もできずに翌日になった。いっそ睡眠薬を注入して欲しいとさえ思った。
「うわ。また幽霊出た?」
翌朝、洗面所で先に身支度中のラルフと鉢合わせすると、驚嘆された。
「出てないですけど……怖くて……」
「ああ、眠れなかったってことか。でも、ほらエレベーターは塞いだし」
ラルフが応接室を指差す。
暖炉の向かい側。
5階とまったく同じつくりの部屋で、唯一違うのはエレベーターが完全に塞がれたことだ。といっても、ベニヤ板を打ち付けて戸を隠しただけなのだけれど。
暖炉を挟んだ両側にふたりの私室が、エレベーターの隣にこの浴室があるのでベニヤ板で塞がれたエレベーターシャフトはこのすぐ壁の向こうにある。
出入口を塞いでくれたのはいいのだが。
あれだ。
安心させておいて夢枕に幽霊が立つ展開のあれだ。
何本のホラーゲームとホラー映画を見てきたと思ってやがる。そんな展開は、もはや確信しているので余計に眠れなかった。
ラルフが歯を磨き終えたので、代わりに鏡の前に立つ。
覗き込むと、目が濃いクマに縁取られていた。
顔色も悪い。
幽霊の姿まっしぐら。
「……ひどい顔」
我ながら呟いてしまう。
「今日が初登校だろ? 入学式もある。それじゃあ、友達なんて出来ないんじゃないか?」
むっ、とする。
そういえば、ラルフは冷静だけれど同時に性格も悪いキャラだった。
主人公と出会ったときも「また騒がしくなる」とかなんとか宣った奴だった。それから主人公とは仲良くなるはずなのだけれど、残念ながら体験版ではそこまでの発展はなかった。だからザイヤの中ではラルフは単に意地悪な男だ。
ラルフが部屋に戻っていく。
ザイヤは、ちぇっ、と唇を尖らせてから歯を磨き、髪を梳かし、顔を洗った。
水が冷たくて気持ちいい。目を覚ますにはうってつけ。昨日の夜から目覚めているけれど、脳は休息を欲している。体が重いのは、きっとそのせいだろう。
ふ、と顔を上げた。
鏡の向こう。
ザイヤの背後に、彼女が立っていた。
目が合う。
「ぎゃあッ!!」
はっとして振り返る。
陶器の洗面台に強かに腰を打ち付けた。
が、誰もいない。
垂れ下がったシャワーカーテンと、乾いたバスタブと、トイレだけがある。
もうわからなかった。
彼女が本当にそこにいたのか。恐怖に支配された自分が見た幻影だったのか、もうわからない。
「どうした!?」
と、ラルフが駆け付けてくれた。
ザイヤの様子を見て、再び彼女の出現を察したのだろう。浴室を見回すけれど、もうそこには誰もいない。
ザイヤは激しい動悸で胸が痛いくらいだった。
は、は、と荒い息に揺れる体に合わせて、まだ拭いていなかった水が顔からぽたりぽたりと滴っていく。
だめだ、考えたら余計に彼女がついてくる。
でも、考えるな、考えるな、と念じている間も考えてしまっている。
「……ほら、拭きなよ」
ラルフがタオルを投げてくれた。
受け止められずに、足下にぱさりと落ちていく。拾わなければならないのに、また視線を動かしたら彼女が出てきそうで瞬きすらままならない。視界すら恐怖に牛耳られつつある。
見兼ねたラルフがタオルを拾い、がしがしと顔を拭いてくれた。
「はー。なんだかペットを飼い始めた気分」
嫌味のつもりなのだろうけれど、ペットでもなんでもいいから傍にいてくれと願ってやまない。
ラルフが浴室を出るのを追った。ひとりになるのはごめんだ。
背後やら天井やらを意識しながら急いで着替えて、応接室でラルフが出てくるのを待つ。一緒に行こうと言うつもりだったのだ。
けれど、応接室にはあのエレベーターがある。ベニヤ板に閉ざされた向こうから冷気が漏れ出してきそうで、ザイヤは待ちきれなかった。
ラルフの部屋のドアをノックする。
「ラルフさーん! 一緒に行きましょ!」
「勝手に行きなよ。校舎は3階建ての茶色。1年生は3階。職員室は2階。入学式は別館のベージュ色の建物の2階の講堂。校舎の2階から渡り廊下で繋がってる」
「一緒に行きましょうよ!」
「僕は2年生だから2階なの」
「一緒に途中まででいいから行きましょ!? そんな意地悪言わずに! ねえ! とりあえず開けてください、ひとり怖い!」
「うるさいな、いま着替えてんだよ!」
「男の裸なんて見たってなんも思わないから開けてよ怖い!!」
「僕が気にするんだよ!」
「大丈夫、そなたは美しい!」
「それ何語? ソナタって音楽のあれ?」
「いいから開けてーッ!」
「もう、本当にきゃんきゃん喚く仔犬かよ……」
言いながらも、ブレザーを羽織っただけで出て来てくれたラルフ。
本来ならば黒のワイシャツのボタンもすべて留めて、同じく黒のネクタイも締めて、白のブレザーに袖を通すまでをやりたかったのだろうけれど、ラルフは中断してくれた。
ワイシャツは開けたままだわ、ネクタイは首に引っ掛かっているだけだわの状態で、ぶつぶつ文句を言いながら整えていく。ワイシャツから覗く体は細かった。
いや、それよりももうどんなに罵られてもいいからひとりにしないで欲しい。
そして結局、ラルフにくっついて校舎に向かった。