第26話
「うわ、本当だ。クドモアって名前がある」
授業後、ドアが取り払われた図書室にやっと入ることができた。若い教師がせっせと本を移動させている横で、仁王立ちする。ちらちらと教師が手伝ってほしそうに視線を寄越すけれど、それどころではない。
クドモアの言うとおり入って正面の壁に大きな大きなヘンストリッジ家の家系図が掲示されていて、そこの一番下にしっかりとクドモアの名前が載っているのだ。
「ははー……。これはこれは。マジでか」
いや、嘘だと疑ってはいなかったが、こうして目で見ると驚嘆してしまう。
瞳を動かした。
花嫁の名は──ベラ。
ベラ・ヘンストリッジ。
身籠ったばかりだったのに愛する人に殺された花嫁の名。もしかしたら彼女は、エレベーターから落下したときにトッティの仕業だと勘付いた可能性だってある。
そのときの絶望はいかばかりか。
どんな気持ちであんな暗い穴に落ちて行ったのか。
ザイヤはベラの名前を指でなぞった。これまでは恐怖の対象だったが、今では随分と印象が変わった。可哀想な人だった。
しばらくそうして、顔を上げる。
ギルを迎えに行くこととしよう。
◇◆
保健室ではまだギルが眠っていた。
そよ風に踊るカーテンが爽やかさを目視できるようにしてくれている。保健室の薬品臭も幾分か薄れている気がした。
保健医が訪れたのだろうか。体温計などがサイドテーブルに乗っていた。
ギルの顔色もほんのり戻っている。
起こすのは気が引けたけれど、部屋で眠ったほうがいいだろう。
「ギル。起きて。部屋に戻ろう」
しばらく肩を揺らすと、ゆっくりとギルの炎が蘇った。赤い瞳が白い肌の中でよく燃える。美しいコントラストだった。
炎がゆらりと動いて、ザイヤを見た。のんびりとした瞬きが幻想的だった。
「体調はよくなった?」
瞬きを一度。
ギルは間延びした声で言った。
「……驚いた、ザイヤさんか。天使かと思った。あ、違ったぼくの未来のお嫁さんだ」
「うん、元気になったね。よかった、よかった」
背中を支えて起こしてやる。猫背のせいで、背中に背骨がくっきりと浮いていて、掌にごつごつと当たった。この背筋が真っ直ぐになれば、彼はラルフやクドモアよりも遥かに背が高くなるだろう。
サイドテーブルからジャケットを取ってやろうとしたとき、ふいに腕を掴まれた。
「ん? どうしたの? 吐く?」
ギルの目が細まる。眩しいときの仕草ではなくて、どちらかといえば不愉快な虫を見るような目付きだった。
「……煙草の匂いがする」
「え? わッ!?」
ギルは腕を掴んだままザイヤを引き寄せた。さらりとしているザイヤの髪にまるで口付けをするみたいに顔を寄せる。
はあ、と唇の隙間から溢れた吐息がザイヤの耳を撫でた。
「やっぱり、煙草だ。……ねえ、ちゃんと教室に戻った?」
「も、戻ったよ」
やや道草を食ったが。というか、かなり。
言うとギルは目をカッと見開いて詰め寄ってきた。
「まさか、もう誰かに抱かれたりしてないよね?
ぼくが知らない間に、誰かに抱かれたりしてないよね?」
早口に捲し立てられたザイヤは怒られているように感じた。
見開かれた目はぎらついていて、腕を掴む指はぎりぎりと締め付けて、怖いくらいだ。だから思わず否定した。
そんなデリケートな話はあなたに関係ないでしょうと言うことだって出来たはずなのに、迫力に負けた。
「し、してないよ。ちゃんと授業にも出たし……」
これも、もちろん嘘ではない。
ギルは疑わしげに炎でザイヤの左右の瞳をじっと照らしながら、さらによく見えるようにザイヤの前髪をさらりと耳に掛けた。
かと思うと、髪を鷲掴みにして唇と唇とが触れてしまえそうなほどに引き寄せる。
はっとしてザイヤがベッドに手を付かなければ、そのまま唇は重なっていただろう。
炎にザイヤの目が映る。
ギルの唇が細かく動くのがわかった。
「キスは誓い。誓いは結婚。それまでキスをしてはいけない。誓わなければ愛ではなくて性だから。神は性ではなくて愛を求めているから。天地森羅万象の中で人間だけが持てる誓いこそ尊いものだから」
ギルはぶつぶつとなにごとかを繰り返し呟いた。ザイヤには聞き取れないほどのぼそぼそとした呟きだったけれど、あまりにも唇が近いから、吐息と一緒に言葉を練り込んでそのまま唇の隙間に命を吹き込まれているみたいな不思議な感覚になった。
ギルの言葉を呑み込んだら、そのまま体の中で言葉が臓器に染み込んで花を咲かせて離れられなくなる。そんな気にさせる。
ギルは腕を掴んでいたほうの手でザイヤの頭をゆっくりと撫でた。
髪をぐしゃぐしゃに掴んで力任せに引くのと、優しく愛しげに撫でるのと、相反する彼の両手が彼の二面性を表してもいるみたいだ。
「キスは誓い 誓いは結婚 心から一生愛さなければならない。相手が腕と足をなくしても相手の顔が焼け爛れても相手が言葉を失っても相手の瞳に光が届いていなくても相手が糞尿吐瀉物に沈んでいても」
「ね、ねえ、ギル、怖いよ」
呼吸をする間隙さえ与えないとばかりにギルは呟く。
髪を掴む握力がさらに強くなって、ぶちぶちと髪が抜けていくのがわかった。
痛みで顔を歪める。
ギルの目は虚ろだった。
轟々と燃え盛っているのに、風に巻かれて姿を保てていないような妙な芯のなさがある。不安定だ。ギルの炎は儚いくらいに不安定だった。
ぎしぎしと頭皮が引っ張られる。
「誓いを立てないものは弱いもの 弱いものは誰にも愛されず誰も愛し抜けない 神への冒涜 神への反乱 神への──」
「ギル、痛い──!」
ザイヤはなんとかギルの束縛から逃れた。勢いに任せたせいで尻餅をつく。
頭皮に鈍い痛みがあってギルを見ると、ギルの指にザイヤの髪が絡みついていた。反射的に髪を押さえてしまう。よかった、まだある。
目が合った。
それからギルは目をぱちくりとして、手指に纏わりつく髪の束をぼんやりと見つめている。
瞬きを一度、二度。
みるみるうちに正気を取り戻すギルは、自分の手を見つめながら戦慄いた。
悲鳴。
耳をつんざくような悲鳴をギルは挙げた。喉が裂けてしまいそうな長い悲鳴のあとで、頭を抱えて蹲る。
「ぼ、ぼく、どうして、こんな……!」
「ぎ、ギル、大丈夫だよ。きっと、ほら体調が悪くて寝惚けてただけで」
「ザイヤさん、ごめん、痛かった……!? 痛かったよね!?」
ギルはベッドから転げ落ちる勢いでザイヤの前に膝をついた。そして震える手を伸ばして、自分が千切ってしまった髪が生えていたであろう頭の部分に触れると、してしまったことを思い出したらしかった。
いや、むしろその感触を。
「ああああああ」
手指に残る感触から逃げるようにギルは後ずさりした。壁に背中がぶつかっても、まだ逃げようと足をばたつかせる。
完全に混乱している。
なんとか落ち着かせようとしてザイヤが距離を詰めると、ギルはいきなり走り出した。保健室を飛び出していく。
「ギル!?」
ギルを追う。
彼はいっきに5階まで駆け上がって、自分の部屋に飛び込んだ。ザイヤは間に合わなかった。既にドアには鍵がかけられ、開かない。
ドアを叩く。
「ギル、ねえ、大丈夫だから開けて! ずっとお水も飲んでないし、一緒に食堂に行こ? 本当に、私は大丈夫だから! ね!?」
「こないで! ぼく、ザイヤさんを傷付けた……! これ以上、傷付けたら……だめ、無理だよ、そんなの嫌だ!!」
ドア越しにギルの声が聞こえた。なんて言えばいいのか、わからなくなった。
「ち、違うよ……傷なんて……」
付いていないといえば嘘になるか。
けれどこのままではギルが自分自身を責めて追い詰められてしまいそうだ。それは避けたい。
「とにかく、大丈夫! 心配だから──」
「こないで!」
「でも──」
「来るなぁッ!! 誰にも会いたくない! 誰にも会いたくないッ……!!」
それからはギルの啜り泣きが聞こえた。枕に顔を押し付けてでもいるのか、声がくぐもっている。
ザイヤは自分を責めた。
体力だけでなく、ギルは精神的にも疲弊していたはずだった。ずっとひとりでいたのに、慣れない教室で四方八方に人がいる生活にいきなり戻って、疲れていないはずがなかった。
謝るのはザイヤのほうだった。
助けてくれと頼んだばっかりに、彼は自分自身を傷付ける結果になってしまった。
「ギル……ごめんね……」
ドアに言っても、答えはない。
後悔してももう遅い。自分はあらゆる人を巻き込んでいる。生きたいという我儘で。
ああ──……。
「お水とか、持ってくるね」
やはり泣き声以外に応答はない。
項垂れながら踵を返す。
そこで気付いた。
開いている。
直結部屋のドアが、開いている。
窓を板で塞がれているがゆえに、ドアの向こうはなにも見えない暗闇。
──ドアが開いている。
それだけでザイヤは息を呑んで立ち尽くした。
闇の中でなにかが蠢いている。
ゆらりと、蜃気楼のように。
ぞわりと鳥肌が立った。
走れ──。
逃げろ──。
ぽっかりと口のように開いた闇は、ようやくきた襲撃のチャンスに興奮しているみたいだった。ゆらゆらと蒸気を揺らす。
風が吹いた。
窓もないのに生暖かい風が肌にべったりと張り付く。
急に動いたら背後から飛び掛かられそうで、じり、じり、一歩また一歩と後退する。
また風が吹いた。
今度は彼女が凄まじい速さで闇から飛び出してきた。
両目のない彼女は、3つの穴があるだけの皮を引き伸ばして大口を開けていた。それこそ風の勢いで一瞬にして目の前に到達する彼女は、今にも首を締めてやるぞと両手を伸ばしていた。
ギルを呼びなければ──!
彼女の五指がザイヤの首を締めようとする瞬間、彼女はなにかに吹き飛ばされたかのように霧散した。
幻覚ではない。
彼女は消えた。
「……え? なんで?」
今となっては、部屋のドアは閉ざされている。前にも後ろにも上にも下にも、彼女はいなかった。
ザイヤは疑問に思いながらも、4階の自室へと駆けた。




