第2話
「あの噂は本当だったのか」
ラルフは驚いたように顎を摘んで考え込んだ。
ベッドの上で身体を起こしたザイヤは、事の経緯を話した。ラルフの反応はその結果だった。
「僕が4階の部屋に住んで2年になるけど、確かに悲鳴や物音が聞こえることは度々あったんだ。3階、2階の部屋を使っている人もそう証言している。
ただ、5階に入寮したのは君が久しぶりだったんだ。
これまでは使用していなかったのだけど、生徒数が急増して寮室が足りなくなって、仕方なく使用を再開したんだよ。以前は事故が相次いでいたことも、幽霊云々の噂があるのも周知の事実だ」
「……そうですか」
確かにゲームでもそんな流れだった気がする。
この学校は名門校になって歴史が浅く、最近になって入学希望者が増加した。そこで5階の閉ざされた寮室にザイヤが急遽生活することになり、ほどなくして彼女に襲われて落下死する。
しかしザイヤは中高一貫校に、わざわざ高校から進学してきた田舎出身の1年生だったということもあって、エレベーターの物珍しさから悪戯をしようとした不運の死だったと片付けられてヒロインを入寮させてしまうのが物語の始まりだ。
だが今、ザイヤはプロローグと違って死んでいない。
ヒロインはどうやって登場するのだろう。ヒロインがくれば、なにやら解決策を見出してくれそうな気がするのだけれど。
「しかし、困ったな。あの部屋が使えないとなると、君の居場所がなくなってしまう。部屋はどこも満杯なんだ」
「も、もう退学でもなんでもいいですから! とにかく逃げさせてください! あの部屋にはもういられないです!」
「まあ、自主退学は自由だけど……」
「ザイヤ! ああ、ザイヤ、大丈夫なの!?」
そこへ闖入してきたのは、ザイヤの両親だった。
頭に三角巾を巻き、エプロンをした土の香りのする母は体格がよく、ふくよかだ。父のほうは痩せていて背が高く、麦わら帽子がよく似合う。
どうやらひとり娘であるザイヤの事故の報告を受けて、遠路遥々駆け付けたようだ。
両親はゲームに登場しなかったけれど、なんとなく懐かしい気持ちになるのはザイヤとしての記憶が残っているからなのだろう。
ふたりは服に土をつけたままベッドに駆け寄ってきた。どすんどすんと床が揺れる。
「5階から落ちたって聞いて、ママはびっくりしたよ。なにせ5階って、どんな高さかもわからなかったから。ほら、モルダーさんの家が1階の子ども部屋にロフトを作ったでしょ? 梯子で登るやつ。あれより高いんでしょ?」
ザイヤの実家は平屋だけでもかなり広く部屋を取れる田舎にある。だからどの家も平屋で作られており、5階の高さなど想像もつかないのだろう。もしかしたら崖から落ちたような気でもいるのかもしれない。あながち、間違いではないのだけれど。
母は膨らんだ乾いた手でザイヤの手を握った。
太陽と汗の香りがする。
「怪我はないのね? ああ、ほっぺたに掠り傷が……! ああん、ママみたいにならないようにって小さい頃から帽子を被らせてきたのに!」
そういう母の顔は陽の光を浴び続けてできた、細かいそばかすでいっぱいだった。母はそれをコンプレックスに感じているようだ。
「ザイヤはママの自慢なんだよ! あんな田舎から、こんな頭のいい大都会の学校に入学できたんだから! 中学から入るよりも高校から入るほうが難しいって言われてる進学校に入学できて、ママは嬉しかったの! なのに怪我なんて!」
へえ。そういう設定だったんだ。
プロローグでは、ザイヤはまともに顔も映らずにただ襲われて死ぬだけだったから、この学校がどれほどの地位にあるのかも、ザイヤの家も両親も、ザイヤの入学までの背景もまったく知らなかった。
そういえば、かなりの努力をした記憶がぼんやりとある。ランプの灯りひとつで夜遅くまで勉強し、日の出とともにまた勉強を再開する。
医者になるの!
小児科と産婦人科を開いて、子ども達で賑わう町にするの!
そんな夢を語って、田舎を出た記憶がふんわりと蘇ってきた。
そして、この学校の学費がどれだけ高くて、ザイヤが奨学生でなんとか入学できたことも、思い出した。
「大丈夫なのか、ザイヤ」
母に比べて口数の少ない父は、痩けた頬がよく目立つ。稲穂のような黄金色の瞳には心配が孕んでいた。
「だ、大丈夫。私も高さに驚いて落ちただけだから……」
「そりゃ、そうね。そりゃそうだもの。5階なんて高すぎるものね! もう窓には近付いたらだめよ!」
「う、うん」
「大丈夫そうで安心した。ほら、ママ帰ろう。無料バスは夕方にしか出ないんだってよ」
「あ、そうね。ごめんね、ザイヤ。送迎のバスは大怪我でもないし今日1日の往復しかできないって話でね……もう帰らないと。運賃は払えないから……」
「わかった……」
「頑張って勉強して卒業するんだよ! 周りの子に負けたら、だめ! ママはザイヤが一番だって知ってるからね! 根性だよ!」
「うん……。来てくれてありがとう」
「無理はするなよ」
そう言う父の指の爪は土で真っ黒だった。
部屋を出て行く彼らの背中を見送ると、重い沈黙が舞い戻ってくる。
天を仰いだ。
「あああああああああ! 退学なんてできやしねえええええ!」
あの両親の期待を無下にはできない。それに、ザイヤの体はあの日々のとてつもない努力を覚えていた。体が逃げるなと訴えかけてくる。ここにしがみついて離れるなと。
「そうだろうな。なら部屋をどうにかしないと。あの部屋は使用禁止にしよう」
「そうしてください……」
そうしてラルフも部屋をあとにする。
ひとりになり、ザイヤは再びベッドに横たわった。左にある壁には天井まで届くほどの大きな格子窓がある。レースの白いカーテンが敷かれていて、夕暮れの空が透けて見えた。
確か、彼女が襲ってくるのを逃れるための方法があったはず。ゲームはその方法を見付けるために物語が進むはずだった。
協力者はラルフを含めて、あとふたり。
名前は、なんだっただろう思い出せない。キャラクターの造形は思い浮かぶのだけど。
ひとりは同じく生徒で、もうひとりは化学の先生だったはず。ゲームの中ではザイヤと接触したシーンはなかったけれど、生き延びた今、出会う確率は高まった。むしろ、出会ったほうが今後についてはいいかもしれない。
とりあえず、見付けやすそうな化学の先生を明日にでも探しに行こう。顔は覚えているから、職員室に行けばすぐにわかるはず。
そうと決めると、深呼吸した。
ディスプレイ越しに見る映像とは違って、肉眼で見た彼女はより恐ろしかった。人とは思えない青白さと、乱れた髪と、歪んた頭蓋骨。そして、匂いと冷気。
氷から漂うような独特のひんやりとした冷気が彼女には纏わりついていた。
そして血を長い時間放置したような、噎せ返る匂い。作り物とは違う、人間の腐敗を目の当たりにしてザイヤは鳥肌が立った。
指に触れた彼女の肌は氷のように冷たく、ゼリーのようにぬらついていた。
「うー、怖い。ホラー映画にありがちな馬鹿なキャラクターに苛ついてたりしたけど、実際に目の前にしたら馬鹿になるのも無理ないわ、あれ」
ふと、視界が陰る。
見上げると、窓の外に逆さづりの彼女が垂れ下がっていた。
「ひっ──」
──私の…………て。
露になった彼女は、また皮膚の捲れた荒れた唇でなにかを言った。
聞こえない。彼女の声は、聞こえない。
舌が委縮して、呂律が回らなくなってしまったみたいに彼女の言葉は聞き取りにくかった。
彼女が手を伸ばして窓を開けようとしてくる。
それはダメですけど!?!?
「ラルフさーん!!」
ザイヤはベッドから転がり落ちるようにしてドアに向かって走り出した。
(無理無理無理無理、無理!!)
ドアに辿り着いたところで、開くわけなんかないのだが。
「この典型的な演出やめてーーー!!」
どんどん、とドアを叩く。
風が吹いた。窓が開いたのだ。
振り返ったら終わる!
ぎゅっと目を閉じた。
「ラルフさん! ラルフさん、開けてください! またあいつが!」
──私の……
耳元に冷気が刺さる。それが声なのだと気付いたときには、背筋からぶわりと鳥肌が駆け巡った。
「ぎゃーーーーー!! 開けてーーーー!」
「なんだよ、どうした!?」
間一髪のところで引き開けられたドア。
安心するよりも前に、現れたラルフの背中へ逃げ隠れる。
「ま、またあいつが部屋に!」
「……なにもいないぞ?」
「……え?」
恐る恐るラルフの肩口から部屋を覗くと、そこには誰もいない。開け放たれた窓から入る風に、レースのカーテンが躍っているだけだ。
(マジ?)
なに、この信じてもらえない主人公的なやるせない気持ちは。
モブなんですけど?
私、モブなんですけど!?
ザイヤは脱力して、座り込んでしまった。
もう死ぬまでこの恐怖を繰り返すのか?
「お、おい、大丈夫か?」
「も、もう無理だ……殺される……」
「いま、先生に部屋を変えてやるよう打診してきた。きっと、どこかに捻じ込んでもらえるさ」
気休めにもならなかった。彼女はどこまでも追い掛けてくるつもりだ。
せめて、彼女がなにを言っているのかを聞き取れればいいのに。いや、聞けるくらいに待っていたら自分は引き摺り落とされるから無謀以外のなにものでもないのだが。
そこへ、歩いてくるひとつの足音が聞こえた。そちらを見てザイヤは思わず「あ」と声を洩らした。
化学の先生だ。
白衣を靡かせた、長身細身の眼鏡イケメン。
銀の長めの髪を後ろに流して、垂れる前髪がメタルフレームの眼鏡をちらちらと隠したり見せたりの色気たっぷり28歳。長い脚は黒のスラックスで決まり、磨き上げられた黒の革靴。黒のハイネックセーターを着た彼は、小さな顔で気怠そうにポケットに両手を突っ込んで大股で歩いてきた。
「なんだぁ? 転んだのかぁ?」
そうだった、こんな喋り方だった。どことなく力が抜けていて、やる気のなさそうな声と口調。それがこの先生のキャラだ。
「また部屋に幽霊が現れたそうで」
と、代わりに応えてくれるラルフ。
先生は楽しそうに薄い唇を歪めて、にやりと笑ってみせた。
(うわ、性格悪そー)
人の不幸を楽しむタイプだ。
「そりゃ危ないなぁ。ま、部屋のことは決定したぞ。しばらくの間は、ラルフの書斎を使え、だとよぉ」
「え!? 僕の部屋ですか!?」
ラルフはまさか自分が貧乏くじを引かされるとは思っていなかったのか、立ち上がってしまっている。
いや、例えラルフの部屋でもあのエレベーターのある部屋には変わりないから安心なんてなにもできないんですけど、とは言えない。そんなことを言ったら、なら5階にいろ、と突き放されるだけだ。
「仕方ないだろぉ? 2階を使ってるのは3年生で、今年が受験だぁ。そんな大事な生徒に幽霊騒ぎなんて持ち込めないし」
煙草を出して咥えるも、ここが廊下だと思ってマッチの火を点けずに終わる。結局、箱に煙草を戻す、という一連の動作がどうも様になっているからむかつく。
「それに3階は俺が使ってるし」
「そこがおかしいんですよ。なんで教師が寮の一室を使ってるんです? そこを彼女に渡してあげればいいんじゃないですか?」
「あいにく俺は独身だし、寮が一番出勤しやすいし」
そうそう、面倒くさがりのキャラだった。
「それに他の部屋はワンルームだぁ。そんなところにふたり部屋になれって頼むよりかは、書斎にベッドを持ち込んでふたりで使えっつうほうがスムーズだしなぁ?」
「それは、そうですけど……」
もう、どこでもいい。
ザイヤはひどく気持ちが沈んで、自分の膝に視線を落とした。
そこへわざわざ膝を折って視線の高さを合わせてくる先生。白衣が廊下の絨毯についてしまっているのに、気にも留めずに長い腕を伸ばしてくる。
ふわりと、頭を撫でられた。
「なんか聞こえたら、すぐに助けに行ってやるからさぁ」
とか言ってくれつつ、口許は笑ってるんですけどね、先生。