第16話
むかつく。
むかつく、むかつく、むかつく、むかつく!!
ラルフは鉛筆を荒々しく机に叩き付けた。
まっっっったく集中できない。
原因はザイヤだ。
これだけ協力してやったのに。
怖いというからひとり部屋も分けてやった。本当なら2年生首席であるラルフがこの大きな直結部屋をすべてひとりで使っているはずだったのだ。1年生のころから首席を死守しているラルフにとって、2年連続で勝ち取ったこの場所は勲章のようなものだった。
それを半分、くれてやったのに。
相手が首席でなければ、きっと承諾しなかっただろう。けれど自分と同じく首席のザイヤだったから、その努力を認めて分けてやったのだ。
なのに半分どころか同じ部屋で勉強はするし、同じベッドで寝るし、風呂にもトイレにも付いてこいという。それらに従ってやったのはすべてザイヤが怖がるからだし、そのほうがザイヤが勉強できるからだった。
努力してきた者は、他人の努力に同情する。理解する。そして称える。
きっとこのくらい努力してきたのだろう。ならばこのくらいの結果と賞賛に値する。そうでなくては不公平だと、努力を数える。
だからラルフはザイヤを助けてきていた。それがザイヤの努力に対するラルフなりの賞賛であったし、ラルフなりの激励でもあった。これからも努力し続けろ、と。
これからも、その努力できる力と集中力を合わせていけば首席でいられるうえに、さらにその先も目指せると。ラルフなりに先輩として褒めているつもりだった。
「なのに、なんだよ、死んだほうが手っ取り早いって! なら初めから死んどけよ!」
窓からザイヤが落ちた瞬間を思い出す。シーツに垂れ下がっていたザイヤが、ふわりと落ちたところも。花壇に落ちたところも。棺の中にいるように、花に囲まれたザイヤの体も。
本来ならザイヤはあの日、死んでいたのかもしれない。その運命どおりだったなら、こんなに苛つくこともなかっただろうに。
ラルフは頭をがしがしと掻き毟った。勉強に没頭してしまいたいのに、教科書の一行を理解するのに何十分も掛かっている。
何十分?
ふと、時間の経過が気になった。
ザイヤ、遅すぎではないか?
ザイヤは怖がってシャワーをかなり早く終わらせてきた。それにしては、時間が掛かりすぎている。いつの間にかシャワー室から出て、部屋に戻ったのだろうか? いや、それなら音で気が付くはずだった。
胸騒ぎがする。
ふと、応接室に出た。
目を見張った。
応接室の中央に、誰かが立っていたように見えたのだ。
ブロンドの髪で、血で汚れてしまっているものの辛うじてピンクとわかるドレスを着て、シャワー室のほうをじっと見つめている小さな背中。
けれど、それは一瞬だった。
瞬きをしたあとには彼女の姿が消えてしまって、いつもの応接室がある。
あれが、花嫁なのだろうか。
「……初めて見た」
ザイヤはあれに追われている。確かに、怖いだろうなと思った。
はっとした。
彼女がいたということは──
シャワー室に駆け、ドアをノックする。
「ザイヤ! おい、大丈夫か!? ザイヤ!」
返事はない。
ただ、シャワーが出続けてる音は聞こえる。なのに、動く音が聞こえない。
「ザイヤ! 開けるぞ!」
ドアを押し開けてみると、初め誰もいないのかと思った。
けれど、そうではなかった。バスタブからはみ出した四肢を見付ける。腕も足もだらりとしていて、動かない。そっと覗くと、バスタブに沈んだザイヤがいた。
「ザイヤ!」
ぞっとした。
ラルフは自分が濡れるのも厭わずにザイヤをバスタブから引き上げ、床に寝かせた。意識がなく、肌着が水を吸って重かったけれど、ひとりでなんとかなった。
ザイヤの顔は真っ青で、唇は紫に変色している。
「ザイヤ! おい!」
肩を揺さぶり、頬を叩いてもザイヤは動かない。閉じきっていない瞼の隙間からは、虚ろな瞳が虚空を映している。
さああ、と降り注ぐシャワーの音が雨のようだった。
いや、砂だろうか。砂時計のくびれから、削られた命が砂になって落ちていくあの音だろうか。
僕のせいか?
僕が感情的になって、ザイヤをひとりにしたから?
僕が、僕が──
「どうしたぁ?」
そこへクドモアがやってきた。
直結部屋はエレベーターで繋がっているから音が響きやすいのだ。騒ぎを聞いて、駆け付けてくれたのだろう。
クドモアはすぐに察したようだった。
やる気のなさそうな目に、ぎらりと力が宿る。着ていた白衣を脱ぎ捨てて、ザイヤの傍に膝をついた。胸に耳をあてる。
クドモアが胸骨圧迫をし始めた。
心臓が止まっているということか?
ラルフは恐ろしくなって震えた。
死ぬかもしれない。
目の前で、ザイヤが死ぬかもしれない。
目の前で、人が死ぬかもしれない。
それは言いようのない恐怖だった。生命の灯が消える瞬間を目の当たりにする恐怖をラルフは強く感じた。なぜ『死』を見るのは怖いのか。
自らもそうなるかもしれないからか。
「気道を確保しろ」
いつになくクドモアの冷たい声がラルフの冷静さを取り戻した。
指示のとおり、ザイヤの顎を持ち上げ、気道を確保する。
「人工呼吸。やりたくないなら、俺がやるけど」
「できます。僕がやります」
ラルフはクドモアの胸骨圧迫のリズムを見て、タイミングを見計らった。
ザイヤの唇に唇を合わせる。
冷たい。
ザイヤの唇はぞっとするほど冷たかった。
息を吹き込んでも反応はなく、胸骨圧迫が繰り返される。
ラルフはもう泣いていた。
涙が唇と唇の間に入り込んで肌と肌が滑るくらいだった。
申し訳なかった。
幽霊という存在を信じきってやれなかった。怖がっているのに鬱陶しがってみせて、ザイヤの心が折れかけたところにとどめを刺した。
あのとき、言ってやればよかったじゃないか。
自分は協力してやると。現に協力してるじゃないかと。
なんで、『死』と直面してから後悔するのだ。
怖かった。
ベッドで腕を掴むザイヤは、温かくて、熱いくらいだった。汗を掻いてしまうほど。
けれど今のザイヤはとても冷たくて、『死』を感じさせた。
一度でも感じた命だから、それが消えていくのが怖い。どうか消えないでくれと願う。
信じるよ、信じる。ひとりにさせないから。もうひとりにさせないから。
ごほっ。
と、咳き込む気配があった。ザイヤは自ら身を捩って、床に大量の水を吐き出した。クドモアが背を擦ってやる。
「ザイヤ。大丈夫か」
と、クドモア。ザイヤは最後にもう一度吐いてから問うてくる。
「……か、彼女は?」
「消えたよ」
「そうですか……よかった……」
受け答えを見て、クドモアはもう大丈夫だろうと思ったらしかった。立ち上がって白衣を拾い上げる。気障ったらしく、翻しながら白衣に袖を通す。
「そばにいてやりなぁ」
背中越しにそれだけを言って、クドモアは部屋を出て行ってしまった。
(この状況で生徒だけ残していくか? どういう教師だよ)
胸中で毒づきながら、ザイヤの体をタオルで包んでやる。ふと気が付いた。
ザイヤの首に大きな手形が残されていた。やはり押さえつけられたのだろう。ラルフはその痕が見えないようにタオルで隠してやる。
「着替えを取ってくるから──」
部屋に服を取り行ってやろうとして、けれど服の裾を掴まれてできなかった。ザイヤの小さな手がラルフの服を掴んでいた。
「あ、あの……」
まだ顔が青い。唇の色もあまり改善していないように見える。ラルフは立ち上がるのを辞めて、ザイヤを支えた。
「わかったよ。一緒に行こう」
よろめきながら、ザイヤはラルフに凭れるようにして歩き始めた。
 




