第15話
なぜ、彼女は泣くのか。
哀れな女を道連れにできるのだから、しめしめ、まんまと罠に掛かったぞ、と笑っていてもいいのに。
死んだあとも、死んだ瞬間の無念さだけが胸に残るとでもいうのだろうか。だから彼女は何人もの人を道連れにしても悲しみに支配されて満足できず、悲劇を繰り返すのだろうか。
ザイヤは階段に立ったままの、遠ざかる彼女を見つめる。
ならば死とは残酷ではないか。
死で解放されるならまだしも、縛り付けられるだなんて。
彼女はザイヤの背を押した手のまま固まっていて、そして悔しそうに眉をひそめてからふわりと消えた。泣いていた。
死ぬのだろうか。
このまま──……。
「ザイヤ!!」
はっ、とした。
思い出したように息を吹き返して、同時に、視界の傾きが止まる。
見ればラルフに背中を支えられていた。
(ああ、殺せなかったから彼女は悔しがったのか)
「ラルフさん……」
「なにやってるんだ、危ないだろ!」
「……すみません」
体勢を整える。頭が真っ白でなにも考えられなかった。というより、なにも考えたくなかった。
馬鹿馬鹿しくなったのだ。
結局、必死になっているのは自分だけ。
死にたくない、怖い思いをしたくないと躍起になって動いているのは自分だけで、他人からしてみればザイヤの命など知ったことではないのだ。
呪われたんだ。
へえ。
で?
そんなものである。
面白がるか、疎外するか、漬け込むか、いずれにせよザイヤは自分だけの世界がひどく空虚なものに思えたのだ。
「どうした。また彼女に襲われたのか」
ラルフが顔を覗き込んでくる。
彼の眉間にある皺が、面倒だと思って刻まれているものなのか、本当に心配してくれているのかの判断がつかなくてザイヤは無理矢理に笑った。
また、自分の命を天秤にかけられたら今度こそ泣いてしまいそうだった。
助けてやる代わりに、人生を寄越せと言われるくらいの天秤にかけられたら、ザイヤは今度こそ世界からいなくなっても構わないと思ってしまいそうだった。
「ギル・キャンディのところに行ったんじゃなかったのか? 会えなかったのか?」
「……会えたんですけど、有力な情報が得られなくて、それで落ち込んでるところです。部屋に戻りましょう。疲れてしまいました……。早めにシャワーを浴びて眠りたいです」
なにも考えたくない。
嫌なことを、考えたくない。
まあいいかとポジティブになれたらきっとこんな重たい心など抱いたままでなくて済むのに。
ラルフがなにかを言ったけれど聞き取れなくて、とぼとぼと歩いた。
そっかあ。
私、死んでもいい人なんだあ。
本当に誰も、なにも、思ってくれないんだ。
ああ、でも、親は悲しんでくれるだろう。きっと泣いてくれるし、助けてくれるし、助けるために走り回ってくれる。
けど、どうしてだろう欲張りになる。
親以外の誰かに、助ける、と言って欲しくなる。
死ぬなと。生きていて欲しいと、そう言って欲しくなる。
「おい、聞いてるのか?」
いつの間にか部屋に戻ってきていたらしい。肩を掴まれて、振り向かされる。ラルフの眉間は先よりもずっと深い皺が刻まれていた。
「なにがあった? 普通じゃないぞ」
「い、いえ、本当に、なんでも」
「嘘付くな! これだけ巻き込んでおいて、肝心なことは話さないのか?」
話したら、あなたは助けると躍起になってくれるのか。
泣いて、抱き締めて、お前がいなくなったら悲しいと、震えてくれるのか。
そうではないのだろう。
きっと、そうではない。
ザイヤは目も合わせられずに言った。
「死んだほうが、手っ取り早いんでしょうか」
「……はぁ?」
その声に怒気が孕んでいる。当たり前だろと言いたいのかもしれない。今更気付くのかと呆れているのかもしれない。
「私が花嫁に襲われて死んだら、もうそれで終わり。誰も騒がないし、誰も困らない。そのほうが、多分みんなにはいいんですよね」
「……なんで? 誰かにそう言われたの?」
「……なんとなく、そう思っただけです。私のことなんて、どうでもいいんだろうなって」
ザイヤの肩を掴んでいたラルフの手がだらりと脱力する。そして深い溜息を吐かれた。
「あっそ」
ラルフはさらに続けた。
「そう思うなら、そうなんじゃない? 誰もあんたが悲しもうが怯えようが怪我しようが死のうが気にしてないさ。そうそう、そのとおり。お察しのとおり! じゃあ、そう気付いたのなら僕の部屋で勉強しなくていいし、寝るのも別々でいいよね! せいぜい花嫁と仲良くどうぞ!
二度と僕に話し掛けるなよ」
そう吐き捨てて、自室に入ったラルフは音を立ててドアを閉めた。
応接室に、ぽつん。
ひとりぼっちはあんなに怖かったのに、今は怖いというより、虚しい。
ザイヤはとぼとぼと歩いてタオルと着替えを持ってシャワー室に向かった。
頭からざっと冷たい水を浴び、石鹸で洗っていく。あんなに目を瞑るのが怖かったのに、今では両目を閉じて顔を洗えていた。
怖がるって、無意味だったのかもしれない。
結局訪れる死なのだとしたら、怖がらずにさっさと受け入れてしまえばよかったのよ。きっとそう。
私がしていたことは、ただの時間の無駄。皆に迷惑を掛けて遠回りして、行き着くところに結局行き着いただけ。
ザイヤは体を拭き終えて、下着と肌着を身に付けた。まだ髪から水が滴ってくる。
鏡の前に立って、髪を拭いた。
わしゃわしゃ。わしゃわしゃ。
鏡に映る自分が歪んだのに気付いたのは、そのときだ。
なんだろう?
顔を近付けて凝視すると、自分の顔が豹変した。
そこに写っているのは彼女だった。
彼女は苛立ちをぶつけるように鏡の中から鏡を叩いた。
ぱりん。
鏡にヒビがはいる。
(怒らないで。そんなに、怒らないでよ。5階の部屋の住人になっただけじゃない)
一歩、あとずさると、ぐっと後ろ髪を引かれた気がした。
視界の反転。
後頭部の強打。
そして、息苦しさ。
ザイヤが転んだ先にあったのはバスタブだった。シャワーが捻られ、バスタブに水が溜まっている。
起き上がろうとするのに、なぜか押さえつけられて起き上がれない。
四肢を思いきりばらばらに動かしてバスタブに掴まり、体を引き上げようとするのに、その力よりも抑え込まれる力のほうが強かった。
苦しい。
痛いのも怖いのも嫌だけれど、苦しいのも嫌だった。
死ぬときは安らかに。
そんな願いも、神は傲慢だと言ってしりぞけるのだろうか。




