ー序文ー
この備忘録は、昭和初期の国際情勢下にあって本邦の各員がどのような立場に置かれたのか、当時を振り返りつつ綴っていくものである。
特に標題にある通り、遣馬艦隊。マダガスカルのディエゴ・スアレスに派遣された艦隊に重点を置いて話を進めていきたい。
まず、かの艦隊が設立されたきっかけからかいつまんでとりあげると、この備忘録に目を通すような奇特な方ならご存知かと思われるが、1940年6月に発生した凶事。パリ大使館員・随員誤爆事件に端を発する。
欧州大戦では、ドイツの電撃戦によりパリの陥落も旦夕に迫ろうとした際、駐仏の日本大使館は戦火を逃れるべく南仏への移動を実施する手筈となっていたが、先行して随員や赴任について来た家族、またはその日までに参集出来た在仏邦人を連れ立って移動させた際に凶事は起きた。
同様にパリから避難しようとするフランス人達も多く、ごったがえす幹線道路にて渋滞に捕まったところを、ドイツ軍に爆撃されたのだ。さらに車列は護衛機による掃射を受け、国旗を振って誤射である事を伝えようとした陸軍武官補は二回目の掃射で憤死。その一部始終を海軍武官補が妻子を失いつつも、写真が趣味であった為持ち込んでいたカメラで撮影に成功するというセンセーショナルな事件であった。
この降って湧いた凶事に、ドイツの勢いに惹かれて当時の米内内閣を倒閣して三国同盟を進めようとした陸軍は水を差されたような形になり、気運を逃してしまった。
後の被災者救援等で米内内閣とヴィシーに置かれたフランス政権は大幅に歩み寄る事ができ、さらには独仏休戦協定に合わせて同年9月に発生した泰仏紛争に於いても、米内内閣は明確かつ迅速にフランス権益を維持し、保護するとして派兵をチラつかせ、東京条約により休戦に持ち込む事に成功。信頼関係を醸造する事に成功した。
その過程の中で有田・アンリ協定と言われるフランス領内での協定維持・保護の為の協定が結ばれる事となり、協定内に仏印及びマダガスカル島でのフランス主権と治安維持に日本軍隊が寄与する事が盛り込まれた事がその設立の由来となった。フランス軍艦の貸与や、貿易に関わる文言など、ヴィシーフランスの外貨獲得の為の施策等が大きく盛り込まれた協定であるが、ここでは割愛したい。
こうして発足する事になった遣馬艦隊であるが、同時期に編成された遣南艦隊との綱引きや、英国東洋艦隊の増派(戦艦2空母1)とクレームにより、艦隊の編成が定まったのは42年の4月末であり、現地の兵量は以下の通りである
海軍
第二戦隊第二分隊(高須四郎中将直率)
山城 扶桑
第四航空戦隊(角田覚治少将)
隼鷹 龍驤
第七水雷戦隊(醍醐忠重少将)
由良
第二七駆逐隊
有明 夕暮 白露 時雨
第二駆逐隊
村雨 夕立 春雨 五月雨
第二四駆逐隊
海風 山風 江風 涼風
陸軍
第五師団歩兵第十一連隊(約3000名)
以上がマダガスカル島に展開した日本軍の全容であり、司令部を良港として知られるディエゴ・スアレスに置いており、陸軍兵力もまた同様である。当初の想定より島の規模が大きく、分散した場合装備等からも連携が取れない事を危惧したとされている。
それでは、本編へと話を進めたいと思う