羞恥
ここで、時は、あの事件当日に戻る。シューラーの"生きがい"の一つを奪ったファオルペルツは、罪悪感よりも、満足感に支配されていた。これは、神への反抗運動の一つに過ぎない。そして、それが当時の彼の"生きるための本能"でもあったのだ。シューラーは、フロワソレールの役人として働いている。無論"立派な"お仕事だ。だから、帰りも、早くても、PM 5:00くらいだ。あと三時間もあった。ファオルペルツは、とにかくシューラーの反応を早く見たいのだ。さっきから、ニヤケがずっと止まらないほど、待ちきれないのだ。それは、自分があの雪像となった日と同じような思いになってもらい、同情してほしかったためだ。
人は弱い生き物だ。嫌なことをなぜ他人にするのか。それは、至極簡単なことである。自分が感じた嫌な感覚に同情してもらいたいからだ。人間は自己中心的な生き物だ。だから、自分のコピーになってもらおうと主観を他人にまで植え付けようとするのだ。それは自然にさえもだ。ああ、なんで俺はそんな複雑な人間という生物なんかに生まれてきちまったのか。そんな悲観な思案にファオルペルツは浸っていた。
とはいえ、今やシューラーは、アットリーチェの彼氏だ。質の悪い友だ。同情なんてしてもらえるわけなんかなく、アットリーチェの話を聞いてから、ろくに話もしていない。いや、したくもなかった。なんであんな小心者の弱虫が、のこのことアットリーチェとうまくやってるのかが、理解できないのだ。いや、理解したくないのだ。あのコアラみたいなとぼけ顔は、いつも何も考えてやいないように見える。それなのに、なぜなのだ。アットリーチェ、君には不相応ではないか。ファオルペルツは、勇ましく端正な顔立ちをしていた。まさに、ヘレニズム時代を築いたアレクサンドロス大王という異名が似合うほどであった。しかし、彼の怠慢さがその外見を台無しにしているようにも見えた。ただ、そうであっても容姿端麗な美青年であったのは紛れもない事実だった。だから、アットリーチェへの恋も自信があった。相応の恋だと、見限っていた。ロミオとジュリエットの真逆であると彼は、心の中でいつも表現していたなどと、無駄な空想にふけっていると、あっという間に二時間という時間が過ぎていた。罪の自白することへの執着心が心を奮い立たせ、血がわめき立つほどに熱くなってきた。生きているということはこういうことなのだ。と改めて自らに言い聞かせていた。
すると
グアッチャ。
玄関のドアノブがひねる音がした。
グィーム。
開閉の奇怪な不快音が鳴り響く。
「やあ。お疲れ様。」
そこから、こう言って入ってきたのは、紛れもなくとぼけ顔のシューラーであった。
まだあの事態に気づいていない。馬鹿な奴だ。
「よお。」
軽い相槌をうっといてやった。本心ではない。偽りの挨拶をした。
待ちきれなかった僕はすぐに自白した。
「シューラー。あそこの本棚の棚板見てごらんよ。」
動かないグレーの塊を認識したシューラーは、瞬く間にただの肉塊となった。
彼はピタリともしない。が、しかし、雫だけが頬を伝って首筋に流れていた。まるで、静止画に水滴を垂らしたような光景であった。しかしそこに、追い討ちをかけたのがファオルペルツであった。
「あいつは俺が殺したんだ。あの肥えたネズミ見てると、気味が悪かったんだよ。そこで、ぶん投げてみたら死んじまった。あっけない命だよな。可哀そうに。でも、これは俺が殺したが、罪は俺のものではない。罪はこの世の運命のものさ。この世が俺にそう命令したんだ。そして、それを知ったお前の無様な風貌と反応は、見てて飽きないぜ。お前は俺の"生きがい"を奪ったんだ。だから、俺が、お前の"生きがい"の一つ奪うのは当然のことだろう。なあ。」
思いがけない友人の自白を聞いたシューラーはついに跪き、身をかがめた。そして、あのとぼけ顔からは想像できないほど慟哭した。床の木目に広いシミができてしまうほど、彼は雫を落とした。叫んだ。発狂した。それを聞いていたファオルペルツは、その叫びというこの世で最も心地の良い音色の楽器の指揮を執っているそんな気分である。運命は、こんなにも美しくて繊細なレクイエムを導いてくれるのか。怒りは、浄化していく。心の枷が外される。全圧力がこの音楽に解きほぐされていく。快感だ。
ミシオネールよ。僕の幸福のために永眠し給え。僕の生に祝福をするのだ。
神の言葉などなくとも、幸福は導かれるのだ。
ネズミ殺しは、享楽の渦の中である。
このレクイエムを演奏しきれば、神へのアンチテーゼ成し遂げられるのからだ。
僕は、人間との争いではない。運命と戦っているのだ。
革命に死が伴うのは当然だ。
どんな革命だって、多くの屍を超えてきたじゃないか。
道徳観に浸る暇もないのだ。何かを本気で変えるには。
非情が幸福に変わる瞬間、それが革命なのだ。
泣き止む気配のないシューラーがついにしゃくりあげながら口元を震わせた。
「ああ。ミシオネール。うう。君はなんて愛おしいやつなんだ。動かない君を見ていても、宝石と見間違えてしまいそうだ。視界が滲んでるから君がより輝かしい。間違いなく、これが運命であると受け止められない僕が悪いんだ。君が死んだのは悪くないんだ。君の生きた意味を見出だせない僕が悪いんだ。ファオルペルツも悪くないんだ。認識しているのは、いつも僕だ。問題も、いつも僕にあるんだ。」
ファオルペルツは、動揺した。自分の意図した反応ではなかったのだ。彼に自分を憎む気持ちは一切感じられなかった。ああ、不気味だ。不穏だ。恐怖だ。また、自分の前に魔物が現れたのだ。デジャブだ。またもや、自分の血液は冷えきった。またも体の先端という先端まで壊死する。言葉も唇に血が循環せず発せない。あの朝を思い出す。しかし、あの時とは違うことがある。
襲ってきたのは、絶望なんかではない。それよりも、もっともっと強大で、醜悪な羞恥心であった。
この世の最低は、絶望であると思っていたのは、間違いであった。
そして、解放されたその心は、羞恥の圧力に押しつぶされた。
全ての内臓で異常をきたしている。体中が痛い。幻覚であってほしいと願う程、痛みは激しい。
この痛みを認識しているのも自分である。
なぜ、シューラーは自分を許すのだ。なぜなんだ。なぜ、君はそんなに優しいのだ。
よく考えると、自分が生きていることが、可笑しいではないか。
ファオルペルツは、逃げ出すように立ち上がり、勢いよく、いつも開けっ放しのドアをガタン。と閉め、鍵をかけ、自分の部屋に閉じこもった。
そして、ひどく熱にうなされた六日前のように、ひどい羞恥心に苛まれて、ベッドに横たわっていた。
花瓶に差し込まれていた数本のタンポポは、すべて枯れていた。