独白
「私は、聞いてしまったの。あなたが、三日前、酒場でヘールムおじさんに無実の罪を着せて、突き飛ばして、頭を足で踏みつけて、87セルモ(レネトアの通貨単位)を奪い取ったことを。挙句の果てには、『このおいぼれ爺。貧しいからって、俺のいつも大事に腕につけている金時計を盗むとはな。どこに隠したか白状する気がないようだから、弁償の代は頂いたぜ。決して、奪ったわけじゃないからな。お前が悪いことをしたんだ。』とまで吐き散らしたことまで聞いたわ。」
ファオルペルツは、動揺した。確かにあの晩、貧しそうな風貌のじじいがいたから、金を稼ぐために、わざと腕時計を外して自分のポケットに入れ、禿げ頭を踏みつけて、弁償代を搾取したことは事実だ。しかし、"生きがい"を決して簡単に手放したくはないのだ。驚嘆と恐怖の念を、体中に押し込めて、真っ向から否定した。
「いいや。それは違う。本当にそいつは俺の腕時計を盗んだんだ。しかも、踏みつけたりなんかはしていない。ただ、あいつは、どこかに僕の腕時計を隠して白状もしなかったから、周りの人の仲介で、それ相応の代金をいただいただけだ。第一、あの日は、酒場には、人がまあまあいたにも関わらず、そのおじさん以外にそんな話をしている奴がいるのか。きっと、そこにいた他の誰に聞いても、おじさんがカウンターに放置していた僕の腕時計を盗ったのを見た人がいた、でお終いだよ。単なるそのおじさんの逆恨みのでっち上げさ。」
あの酒場は、ファオルペルツと親しい悪友たちのたまり場でもあった。仕事もろくにせず、こうして無実の罪を着せ、様々な人から搾取して、その金で飲み歩くような集団である。だから、皆その一員のファオルペルツの味方になるのは当然のことであった。彼は、どうにか切り抜けた。と思った。が、しかし、大きな失敗をしていることに気づいてなかった。そして、アットリーチェはそれに気づいていた。
「じゃあ、今あなたの右腕についてるその金時計は何。三日前に盗まれたんじゃなかったの。」
ファオルペルツは、激しく動揺した。いつも格式の高いように見られようとする虚栄心が、外出するときに高級な腕時計をつける癖を染みつけさせていた。無論、この時計も過去の搾取から手に入れた代物だ。嘘にウソを重ねるのが人間の性だ。それがさらに、自分を窮屈にするのに気づきなんかしない。だから、ここでも"生きがい"にしがみつき続ける。
「これは、一昨日、同じやつを買い直したんだよ。お気に入りの奴だったからさ。」
「あら、そうなの。」
「でも、一昨日の朝からあなたがひどい熱で寝込んでるってシューラーさんから聞いたわよ。そんな状態で買い直しに行ったとでもいうのかしら。」
もう全身が震えだした。体中一杯に、抑え込んできた動揺が、恐れおののき、体現された。一種の痙攣だ。彼には大誤算があった。アットリーチェがシューラーと知り合いだったということだ。これには、もう弁解の余地はなかった。しかし、"生への本能"は、心臓が止まる、その一瞬まで、たとえか細い息になろうとも、あがき続けるものだ。そして、だんだんと致命傷を負った青年の息遣いは不自然な拍子を打ち、全身を駆け巡っていた熱い血液は少しずつ冷めていった。筋肉は硬直し、唇も思い通りに振るわせられない。指先も壊死同然なほどピタリとも動かない。目は見開いたままである。そんな雪像のように硬化してしまった顔についた穴のずっと奥の喉仏がほんの少し震えて、亡霊に近い声を放った。
「それは・・誤解だよ・・・僕が・・・・・そんなこと・・・するはずが・・ない。」
「いいえ。あなたは、したのよ。実は、あなたが頭を踏みつけたヘールムおじさんは、私の祖父の大親友なの。だから、小さいころから面倒見てもらったし、最初にお花のすばらしさを教えてくれたのもヘールムおじさんだったの。昔、ダリアっていう紫のかわいらしい花を渡してきてくれてこう言ったの。『この花はこんなに美しいのに、実は、裏切りという花言葉があるんだ。そして、君にはダリアになってほしいんだ。別に裏切りなさいと言っているわけではないよ。裏切りという言葉を良くないものとしてずっと持ち続けていてほしいんだ。それは、本当に一番不幸なことであるから。』って。あなたの酒場での話を私に教えてくれたのもヘールムおじさんよ。こんなに裏切ることを嫌っていたヘールムおじさんが、私を裏切るはずなんかないわ。」
ファオルペルツは、ついに生きた屍となった。何も話せない。何も聞こえない。何も感じない。目の前には、幸福に化けていた魔物がいる。端麗なアットリーチェの顔が何度もぐにゃりと歪み、青空も自分には、真っ黒に見える。死ぬということは、未来という時間を奪われることだ。ファオルペルツにも等しい感覚だ。生きがいをなくした今、生きる理由などないのだ。
「そして、私昨日シューラーさんに、告白されて、付き合うことにしたの。彼は、聡明な人物よ。」
ああ、死んだあとにまだ殺す気か。
「あなたとは、ずいぶん違うわよ。」
死体にまだナイフを刺すのか君は。
「だって、あなたの中には見えてたわよ。」
ああ、もう出る血がないよ。
「裏切りが。」
なにも無くなってしまった。
と思ったが
裏切りという言葉を聞いて、ぽっと復讐心が芽をはやした。
元はといえば、これは、神のせいじゃないか。
神が幸せになれるといったから。
僕は愛を説いたんだ。
僕は、裏切られたんだ。
僕は被害者だ。
何が神様だ。嘘っぱちじゃないか。
ヘールムおじさんだと、そんなもの知るか。
裏切りを憎む心は一緒じゃないか。アットリーチェ。
そして、なんであんな小心者のシューラーなんかを。
ああ、この世の運命が悪いのだ。
この世界のすべてが僕にそうさせているんだ。
そう思うと、血液は沸々と熱を取り戻し始めた。硬直していた体はほぐされ、かつてないエネルギーに包まれた。人間の怒りと復讐心を運命は恐れるのだ。それによって突き動かされてきたのが歴史である。ついに血液は沸点に達した。体はうめき声をあげ、心臓は大火事だ。肺には暗い煙が入ってくる。熱い。苦しい。
そして、次の瞬間、そのすべての不条理さ、凄惨さを、神に訴えかけるように
ファオルペルツは発狂した。地獄にまで落ちても、死にきれなかった魂の叫びだ。
あの空の彼方に届いただろうか。この青年の怒りが。
それを聞いたアットリーチェは、その場で失神してしまった。
そして、ファオルペルツは、倒れたアットリーチェを置き去りにして、どこかへ駆けだしていった。