信託
動揺する暗闇はいつの間にか去っていた。部屋の小窓から見える景色は朝方のものであった。昨日の倦怠感が、今日の心身にはずみを与えた。しかし、何か心には、つっかえているものがある。思い出そうとしてもひどい熱にうなされていた自分の憐れな姿しか浮かばない。雨雲のようなグレーの塊に覆い隠されている。さっき、はずみを感じたのは、甚だしい勘違いだったようだ。そんなどこまでも陰鬱な青年を演じきっている自分を卑下した。しかし、花びんが視界に入ってきた時には、あれを思い出さずにはいられなかった。それがただの夢物語であろうとも、"生きがい"を語る迷信を検証せねばならないという使命感が彼の足をフロワソレール大総議論所へ運ばせることは容易に想像できることだろう。彼は疲労の感覚をベッドの上に脱ぎ捨てて、いつも通りの金時計を腕につけ、高級品だが、酒のシミなどで汚れてみずぼらしく見えるコートを羽織って、まだ寝ているシューラーに一言も残さず家を駆け出していった。
”生きがい”を懸けて走る青年ほど輝いているものはこの世にはないであろう。そして、未だ、辺りは、紺色が染み込んでいて、人通りも寂しくそのコントラストがより輝きを強調していた。その光の矢は、ついにフロワソレールの壮大で、厳粛な空気を放つ巨壁とも呼べる大扉に彫られた哲神ラプンガファカーロのごつごつとした強気な肉体に突き刺さった。ファオルペルツは、哲神の横腹あたりのドアノブに手をかけ、書物を持つ右手と、木の苗をもつ左手を左右に引き裂いた。目の前には、かなり遠くまで続く長机の傍らに、きちんと整列された高級なチェアが並んでおり、その奥には、扉の苗木がちっぽけに見えてしまうほど立派な大樹がそびえたっており、その大樹のもとには数えるのが億劫になるほどの冊数の書物が積まれており、その中心には、ラプンガファカーロが座り込んで、大樹によしかかって居眠りをしている。そんな光景が、彼の前に広がった。唖然とした。《最後にここに来たのも、俺がわずか6歳のころだ。改めて来てみると、身が固まって動けないほど壮観だ。》そんな唖然とした彼を見て、遠くの論壇に立っていたトヌス(創論者)が急ぎ足で入り口にやってきた。
「おはようございます。フロワソレール大総議論所第三トヌスのファーブルです。こんなお早い時間にどんな御用ですかな。」
と彼は、貴い口調で自己紹介をし、用件を尋ねてきた。やはりトヌスに任命されるだけのことはあるほど、あからさまに知的そうな雰囲気が漏れている。
「朝早くからお伺いして申し訳ない。ファオルペルツと申します。ラプンガファカーロ様のティカ(信託)をお受けしに参りにきたのです。」
相手に合わせるため、教養のある口調で返そうとするがあまり、不自然な語尾を残してしまった。まあ、しかし、伝えたいことは伝わったであろう。
「ティカをお受けしたいということですな。私ファーブルについてきてくだされ。」
と言われ、連れられて行った先は、あの大樹によしかかって居眠りをしているラプンガファカーロの目の前であった。すると、ファーブルが、ティカを享受するための唱え事を始めた。
「哲神ラプンガファカーロ様、アンテリジャンの同志ここにあり。不屈の精神をもって、マタパキの心得に遵守している次第でありまして、この青年にティカを享受させていただきたく存じます。そのご寛大さを以て、授けなさることこの上なき幸せに相違ないのであります。どうかご信託なさいませ。」
その文言を唱え終わった瞬間、目の前に置かれていた大きな本の、ページが勝手にパラパラとめくられていく。不思議な体験だ。現実だとは思えない。だから、果たしてどんな仕掛けになっているのかという猜疑心をぬぐえずにいた。すると、いつの間にかあるページが開かれたままになっていた。どうやら、これが、ティカのようだ。希望のまなざしを、そこに書かれた一文に向けた。
”アットリーチェの愛の返答を聞きなさい。さすれば、幸導かれん。”
あの無限の暗闇の中で感じた動揺を思い出した。なぜ、アットリーチェのことを知っているのかということだ。しかし、とても不可解ではあるが、これは認めざるを得なかった。神が存在するということの証明であることを。さらに、このティカは自分に希望を持たせる文言でもあるのだ。信じる他に選択肢などあるわけがなかった。ファオルペルツは、"生きがい"を手中に落としこんだのを確信した。しかし、ファーブルは、陰鬱な面持ちで、そのニヤついてるファオルペルツを眺めていた。