魅惑
時は、六日前に遡る。暑苦しい昼間、ファオルペルツは、シューラーの家の一室で地獄の苦しみに劣らないほどのひどい熱にうなされていた。一応、この部屋は、友達の家を転々として暮らしているファオルペルツが訪問してきたときに、シューラーが物置を片づけて、割り当ててくれた。とはっても、きしむ音がうるさいふるめかしい木製のベットと、衣服や日用品を収納するための三段構えの引き出しがついた直方体だけが置かれているという必要最低限で簡素な部屋であった。そうであるから、見回しても視界に入るのは、石灰が塗られた無地の壁と天井ばかりである。体中をむしばむ熱がついに脳にまで至ったようだ。なんだか意識が朦朧としてきた。視界は滲んで、歪んで、白い天井は、外から、徐々に、黒く、染まって、いった。
「ファオルペルツ」
聞き覚えのない声が聞こえる。低く威厳のある声だ。
「誰だ」
どこまでも続く無限の暗闇に、ファオルペルツは問う。しかし、その問いに対する返答する意思はない。ということを暗示するためか、少し間を空けてから低い声は話を続けた。
「明日必ず神の答えを聞きにいけ。お前の好きなアットリーチェのことだ。」
ファオルペルツは、大きく動揺した。なぜ、こいつはアットリーチェのことを知っているのであろうか。
アットリーチェは、数週間前にこの街に引っ越してきた花売りの娘である。もし、「美しさ」の教科書があれば、彼女がきっと表紙をかざるであろうという奇妙な思索を巡らすほど、彼女の凛々と澄んだ目、この上なく上品な鼻筋、二日月のような素直そうな眉毛、笑顔にずるさのスパイスを加える口元の小じわ、若々しくツヤのある金髪、まるで腕のついたミロのヴィーナスのような均整的な体型、は彼女の幼気さと妖艶さの絶妙な配合を実現させていた。神様はきっと彼女を手抜かりのないように慎重に創像したのだろう。いくら曲がりもののファオルペルツであっても、その正真正銘の美しさには、心が飲まれ、一目惚れをした。それからファオルペルツは熱心にアットリーチェに話をかけ、彼女と見比べると明らかに劣ってしまっている花を買うことをわざわざ繰り返し、漸時、彼女に近づいていった。ついには、二人きりで花を摘む仲になっていた。その度にアットリーチェは、「私の一番お気に入りの花なの。」と言って、タンポポをファオルペルツに渡していた。そのため、彼の簡素な部屋の直方体の上には、小さな花瓶が佇んでいて、しおれた数本の可憐なタンポポが差し込まれていた。彼の”生きがい”はそれである。そんな謙虚で、かわいらしさとうつくしさを両方兼ね備えた”生きがい”に心は寝ても覚めても支配されていた。