鏡の城の住人
気の抜けたメロディーを俺の隣で奏でる彼女の名は鏡城亜璃朱というらしい。
現在、俺と共に市立の中学へ登校中…らしい。
当たり前だが、俺には俺ではなかった時の記憶がない。残されているのは前世であろう記憶のみ。
亜璃朱の記憶も、ましてや自分の名前すら思い出せないのだからこればっかりは諦めるしかないかもしれない。
この街並み、この景色、この背丈、この女子
全て初めて見たものである。
俺の名前ってどんなの?と聞いてみたが、何変なこと言ってるのー!と笑われ、軽く流されてしまった。
確かに、客観的に見たら変な人だと思う。というか、変だ。この世界では俺が異端。慣れない環境でこれから生きていくと思うと胃の辺りが軋んだ。
「ソウ君、大丈夫?」
「え、う、うん…?俺なんか可笑しなことしてたか?」
「えっとね、呼んでも気づいてなかったみたいだから…どうしたのかなって」
「そ、そうだったのか…ごめん、気付かなくて」
亜璃朱の心配した様子から、随分と長い間黙考していたようだ。
(先程から話していて気付いたのだが、彼女はとても楽観的であっけらかんとしている。)
人の言葉を無視するとは…非常事態とはいえ、申し訳ないことをしてしまった。
「…って、ソウ君ソウ君!そろそろ時間危ないんだって!」
「…そうなの?」
「そうだよっ!今までも一緒に登校してきたでしょー!!?」
「あっ、ああうん、そうだよね」
現時刻、8時15分。一般的な中学生が登校する時間は、確か8時25分くらいじゃなかっただろうか。
…え?この状況、結構ヤバいんじゃないか?だってあと10分くらいしか…
「ソウ君が家でグダグダしてるから!もうしょうがない…」
亜璃朱は鞄をごそごそと漁り始めた。一体何をするつもりなのだろう?鞄の中に未来のロボットよろしく便利なアイテムでも入っているのだろうか。
「…手鏡?」
「今更そんなこと聞かないで!とりあえず、わたしの手を握っててね!」
「え?え?なん…」
なんで?と言いかけて、俺の声帯は機能を停止した。
__亜璃朱の体が、手鏡の中に沈んで行くじゃないか。
このまま手鏡を持ったままでは成し遂げられないと悟った亜璃朱は手鏡を地面に置く。
手鏡…万能すぎない?もしかしてこの世界、異世界とは言わずともちょっとアレなやつ?
間抜けた顔を貼り付け、鏡に沈んで行く亜璃朱の体を見つめていると、次は俺の体が沈み始めた。
「ちょ、ちょっと待っ…!!」
案外鏡は柔らかく、水面に雫を垂らした時のように波紋が広がっている。鏡の向こうに腕が入ると、そちらの世界はひんやりとしていて、冷房が効いた自宅を思い出した。
「…っ!!」
さすがの超常現象に頭も体も追いつかなくて、息をきゅっと止めることしか叶わなかった。
はやく、という声が反響して耳に届いているから、そこまで苦しい場所ではないのだろうが、それでも反射というものには抗えない。
ふっと目を開けた時には、先程まで視界の端にあった街並みは失せていた。その代わりといってはなんだが、無数の螺旋階段と立派な鏡が階段と同じく、無数にあった。背景なんてものはなく、宇宙を切り取って無理矢理貼り付けたみたいな黒が広がっている。
「学校の鏡の場所はー…こっちの方かな、うん」
「い、いやちょっと待てって!何この世界!さっきの鏡は!?」
亜璃朱は俺のことを怪訝そうな瞳で見つめるが、さすがに戸惑っていられない。変な人だとからかわれてもいいから、とにかくこの異常を解明したかった。
「何って…わたしの【能力】だけど…」
「【能力】…?」
やっぱりここは、アレ的な世界なのか?
ますますこの世界で生きていくことに抵抗が生まれ始めた。