その十字架に誓え、その夕日に染まれ
――― 時は西暦2500年。その頃の地球は一つの地球国という国を形成していた。
そこは、文明が衰退をした地球。人口は大幅に減少し、まるで、時は太古の昔に戻ったかのよう。
人々は畑を耕し、自給自足の生活を送る村や町も多く見られた。
そして、この世界には、現代にはない不思議な力が存在した。
人々は、占いを信じ、政も占いによって決められていく世界。
そんな世界で人々が信じるのは、絶対的な神。
そう、この国を治める天師教という、神を…。
「じぃちゃん!!」
この地球国の中の、小さな小さな村に一人の少女の叫び声がこだました。
その村は緑が多く、小高い丘からは小さい村が見渡せる。
この村は本当に小さく貧しいが、人々は時給自足の生活を送り、自然豊かな村だった。
「おー天音。」
じいちゃんと呼ばれた老人が、のんびりとした声で彼女の名前を呼び、いつも通りの笑顔をこちらへ向けた。
「おー、じゃないでしょ!!」
しかし、そんな笑顔をも吹き飛ばしてしまうくらいの大声を上げた彼女は、仁王立ちで老人の前に立ちはだかる。しかし、今日もその老人はいつも通り畑仕事をしようと、家の外に出ただけだったため、キョトンとした顔を彼女に向けるばかり。
「何がじゃ?」
さらに、昨日の出来事もまるで忘れたかのように、じいちゃんはとぼけるように、首を傾げた。
「もー、昨日倒れたの忘れたの!」
そんなじいちゃんを見て、少女は呆れ顔で叫んだ。
なぜならじいちゃんは昨日、畑仕事の最中に転倒して腰を打っていた。天音が近くに居たため、すぐにじいちゃんをベッドへと運び、大事には至らなかった。本当はちゃんと医者に見せた方がよいのだろうが、この村には医者が居ない。それにじいちゃんは、「大丈夫。寝ていれば治る。」と言うばかりで、医者に行くという気は微塵もないらしい。
そんな昨日の今日で、また畑仕事をしようとしているじいちゃんを見て、彼女は気が気でないのは、当たり前。
「もう大丈夫じゃ。昨日はちょっと、足が滑っただけだ。腰だって今は何ともないし…。」
彼女をなんとかなだめようと、じいちゃんはそんな事を口にし、畑仕事をする気マンマンだった。
「大丈夫じゃないでしょ!!年なんだから。」
そんな聞き分けのないじぃちゃんに、彼女は顔を赤くして、お説教を続ける。
こんなに心配してるのに、じいちゃんには全く響いていないようだ。
「でもなー、こいつら(野菜達)の事が心配で…。」
しかし、じいちゃんも彼女に怒られ続け、だんだんと声が小さくなっていく。
まるで、母親に怒られている子供のようだ。
そんなじいちゃんは本当に畑仕事が大好きで、朝から晩までの時間のほとんどを、畑仕事に費やしていた。それは彼女もよくわかっていた。
しかし、じいちゃんももういい年。体力的にも今まで通りにいかないのは当たり前だ。
だからもっと体を大事にして欲しい。それが彼女の願いだった。
「大丈夫!!私が手入れするから」
もちろん彼女も、そんなじいちゃんを手伝って毎日畑仕事をしている。
そのため、彼女が畑仕事を任されても何の問題はない。
もうこれ以上このやり取りを続けても、らちがあかないと彼女は考え、 とりあえず今日の所はそう言って、じいちゃんを無理やり家の中に押し込んだ。
「…そうか?」
しかし、じいちゃんは、やっぱり心配そうに彼女を見つめた。
やはり自分がしないと、落ち着かないのだろう。何十年も当たり前のように、そうしてきたのだから、急に何もしなくていいと言われても、戸惑ってしまうのは、仕方ないのかもしれない。
「はいはい、寝てて。健康第一でしょ!」
しかし、彼女は、そんなじいちゃんの背中を押して、ベットへ向かわせる。
じいちゃんの気持ちはわからなくはないが、彼女が一番大事なのは、じいちゃんの体だ。
「わかっておるが…。」
じいちゃんは、渋々ベットへと腰掛け、まだ心配そうに彼女を見ていた。
…全然わかってない…。
彼女が心の中でそんな事をつぶやいた事は、じいちゃんは知る由もない。
彼女は、じいちゃんを大切にしているからこそ、心配なのだ。長生きだってしてもらいたい。
なぜなら、じいちゃんは、彼女のたった一人の家族なのだから。
「あー、ヤンおばさんの所に、牛乳取りに行かなきゃ!」
時計を見ながら、彼女がそう叫んだ。時刻はもう11時を指していた。
「お前も忙し…」「だいじょうーぶ!!」
バタン!!
無理やりじぃちゃんをベットへと寝かせ、彼女は扉を勢いよく閉めた。
「はぁー。。」
扉の外で彼女は大きなため息をついた。
彼女の名前は天音。17歳。少し茶色がかった髪が肩まで伸びていて、目はぱっちりしている。世間ではいわゆる童顔の部類で、まだあどけなさが残る顔は愛嬌たぷり。体つきは華奢だが、畑仕事で鍛えられているため、体力には自信があり、病気は一切した事はない。
本来であれば、遊び盛りの年頃なのだが、この小さな村で、毎日じいちゃんと畑仕事をして、細々と暮らしている。
「天音ちゃん。おじいさん大丈夫?」
家を出て外を歩いていると、顔見知りのおばさんが声をかけてくれた。
小さな村では、みんなが当たり前のように顔見知り。
もちろん、昨日じいちゃんが畑仕事中に転倒した出来事も、あっと言う間に村中に広まっていた。
「はい!今はピンピンしてます。お騒がせしました。」
そんな心配顔のおばさんに、天音は元気よく答えた。
…まったく。村のみんながこんなに心配してくれてるのに。当の本人は!
天音は、じいちゃんの先程の、のほほんとした顔を思い出し、また怒りがフツフツと湧いてくるのを感じていた。
「そう。よかった。もうお年だものね。」
「はい…。」
怒りを何とか抑えた天音だったが、おばさんのその言葉に、声のトーンを下げ、暗い声で返事をしてしまった。
天音もわかっていた。じいちゃんも、いくら好きだって言ったって、毎日の畑仕事はきっとつらいはずだ。
天音だって、じいちゃんに楽をさせてあげたいのは山々。
でも…。
「この村も若い人が減ってしまってね…。」
こんな小さな村に、割りのいい仕事があるわけない。
畑仕事が、この村の主な産業だ。
そのため、若い人は、もっとお金が稼げる町へと移り住んでしまう。
「天音ちゃん。いい人いないの?」
「へ??」
おばさんからの唐突な一言で、天音は、思わずまぬけな声を出してしまった。
「お婿さんもらえばいいのよ!」
突然何を言い出すのかと思ったら、ホホホと笑いながら、おばさんは本当か冗談かわからないような事を言い出した。
…お婿さん!?
「おばさん!やだなもぅー!」
そう言って、天音は、おばさんの話を軽く笑い飛ばした。
この国では、みな結婚が早いらしい。
16、17で嫁いだり、婿を取る人もたくさんいる。
早く結婚をして、子孫をたくさん残す。それが今のこの国あり方だった。
だからおばさんも、そんな事を言ったのだろう。
確かに、それなりに経済力のある婿を取れば、今より安定した暮らしを手に入れる事ができるのかもしれない。
「ハハ、結婚なんてありえない。」
しかし、おばさんと別れた天音は、またそう笑って歩き始めた。
結婚なんて、今の天音には全く現実味のわかない、まるで夢物語のような話だった。
そう、この時までは…。
天音は畑仕事一筋のじいちゃんと二人暮らし。
しかし、そんなじいちゃんとは血がつながっていない。
実は彼女は捨て子だった。
村の入り口に捨てられていた天音は、じいちゃんに引き取られ、育てられた。
そんな天音の家は貧しくて、着ているのはいつも同じ服。しかし、彼女はそれを不満に感じた事は一度もない。
こんな、どこの誰かもわからない自分を育ててくれたじいちゃんには、感謝しても、し足りない。
「お!!来たかい!」
いつものように、そのお店のドアを開けると、おばさんが元気よく天音を迎え入れてくれた。
「ヤンおばさん。いつもの!」
天音はその店の主、ヤンおばさんに、いつもの牛乳をお願いした。
村の人間は、みんなここで、ヤンおばさん特製の牛乳を買っている。
ヤンおばさんの旦那さんは牛飼いで、沢山の牛を育てている。
そしてその牛乳を、ヤンおばさんがこのお店で売っている。
ヤンおばさんは、いつでも元気で明るく、この村のみんなのお母さんのような存在だった。
「ほら。そういえば聞いたかい?」
そして、とっても噂好きなヤンおばさんが、天音にここぞとばかりに、噂話を始めようとしている。
長年の付き合いの天音には、手に取るようにその合図がわかる。
しかし、こんな小さい村に、噂話もあったものじゃない。大抵がみんなが知っている、どうでもいい話だ。
「何の話?」
天音はまたかと思いつつも、何の事を言っているのか検討もつかず、首を傾げた。
「何か、この村にも御触書がでたらしいよ。」
御触書とは、国からの大事なお知らせが書かれているものらしい。とヤンおばさんが説明してくれた。
しかし天音は、この村で育ってきた中で一度もそんなモノ見たことがなかった。
「へー。こんな小さな村にも来るんだ…。」
そう、この小さな村に御触書が来るなんて事は、滅多にない事。それは、ちょっとした事件のようになり、ヤンおばさんだけでなく、村人達を騒がせていたのだった。
もちろん天音も、少しばかり興味を持ち始めていた。
「じいさんは?どうだい?」
どうやらヤンおばさんも昨日の出来事を耳にし、じいちゃんの体の事を案じてくれていたようで、心配そうな目を天音に向けた。
「うん。もうすっかり元気。」
天音はヤンおばさんを安心させるため、笑顔でそう答えた。
「そうかい。ま、うちの牛乳があれば!」
出た!おばさんの牛乳自慢!
おばさんは、自分の所の牛乳があれば、病なんてかからない!と本気でそう思っている。それ位自分の牛乳を愛している。
いや、それは度が過ぎるほど…。
「ハイハイ。じゃ、またね!」
おばさんの牛乳自慢を聞かされたら、いくら時間があっても足りない。
そう思った天音は、そそくさとお店を出ようとした。
「じいさんによろしく。」
そんな天音に、ヤンおばさんがいつもの様に優しく笑って、別れの言葉を投げかけた。
「うん!!」
天音もその言葉に元気よく頷き、おばさん自慢の牛乳がたっぷり入った瓶を抱えて、ヤンおばさんのお店を後にした。
「本当にいい子に育ったね…。」
天音の去った後、ヤンおばさんがポツリと、どこか寂しそうにそうつぶやいていた事を、天音は知るよしもなかった。
※
天音は、ヤンおばさんのお店から帰り道、この村には珍しい人だかりに遭遇した。
どうやら、ほとんどの村人がそこに集まっているようだ。
それは、この村にとっては、何とも奇妙な光景だった。
「あ、さっき言ってたおふれ?かな?」
天音もその人だかりに興味を持ち、近寄ってみた。
するとそこには、難しい字で書かれた、立て看板が立っていた。
きっとこれが、ヤンおばさんが言っていた御触書きってやつに違いない。天音はそう確信した。
「難しい字ばっかで、読めない…。」
しかし、天音はこの村で幼い頃から育ったため、まともな教育を受けていない。
そのため、じいちゃんに教わった簡単な字しか読めない。こんな難しい漢字ばかりで書かれた文字は、とてもじゃないけど読めなかった。
「天音バッカだもんなー。」
そんな天音の背後から、生意気なあの声が聞こえた。
「リュウ!!」
天音は勢いよく振り返り、その声の主を睨んだ。
そこに立っていたのは、小生意気なこの村の男の子。9歳のリュウだった。
リュウは、まるでそれが生き甲斐かのように、いつも年上の天音の事をバカにしてくる。
しかし、それも仕方ないのかもしれない。
この村には、子供が少ない。リュウと一番年が近いのは天音なのだ。
リュウは天音の事が好きだからこそ、ついつい、いつも憎まれ口を叩いてしまうのだった。
「どれどれ。」
そこに現れたのは、いつも優しい、リュウのお父さんだった。
しっかりとした教育をどこかで受けたであろう彼は、スラスラとその御触書の文字を読んでいった。
「どうやら、玄武の宮様の妃候補を募集しているらしいな。」
「げんぶのみやさまー?」
まったく聞いたことのない単語に、天音の頭にはハテナマークがならぶ。
「なんだそれ??」
まだまだ子供のリュウもそれは同じようだ。
つまり、天音とリュウの理解度は同じくらい…。
「オイオイ。今度この国の天使教になるお方だよ。」
おじさんが呆れたようにそう言ったが…。
「てんしきょう??」
その単語も今日初めて聞いた天音は、さっぱり理解できていない様子で首を傾げた。
この村で暮らしている天音には、全く馴染みのない、聞いたこともない単語が次々とでてきて、天音の頭はパンク寸前だ。
隣に目をやると、リュウも、天音と全く同じ表情を見せている。
おじさんは、やっぱりどこか呆れ顔で、そんな天音とリュウを見て、小さくため息をついた。
「つまり、この国で一番偉い人。神様みたいな人だな!」
噛み砕いた言葉で、おじさんがまるで学校の先生のように、簡潔に教えてくれた。
おじさんのおかげで、天音はその難しい名前の人物について、やっと理解する事が出来た。
天師教とは、この地球国を治める、皇帝である。この国では、皇帝陛下という言葉の変わりに、天使教という言葉で彼を呼んでいた。そして、この国の人々は、まるで神のように天使教を崇めている。
彼に歯向かう者は、反逆者として扱われ、彼の顔を間近で見れる者など、ほんの一握りだという。
前天師教は、病で若くして一年前に亡くなっていた。そのため、その息子である皇太子、玄武の宮が、新たに天師教に即位する事になっていた。
その御触書は、そんな新しい天師教の妃候補を募集するという内容のようだ。
「ふーん、私には関係ない…。」
そう、関係ないと思い、天音はその御触書に背を向け、家に帰ろうとした。
こんな小さい村から、この国の一番偉い人物、神と呼ばれる者の妃候補を出すなんて、ありえない。
まるでそれは、おとぎ話のような話だ。
天音だけでなく、そこにいる誰もがそう思っていた。
しかし、この瞬間、天音の頭にはおばさんのあの言葉が、ふっと頭に浮かんだ。
『お婿さんもらえばいいのよ。』
「これだ!!」
突然足を止めた天音は、自分の名案に、思わず叫び声を上げた。
…これだ!!これしかない!!
ついさっきまでは、婿をもらうなんてあり得ないと思っていた天音の考えは、一瞬にして180度ひっくり返ってしまった。
「たく、女のくせに、そんな大声だすなよ。」
小生意気なリュウが、天音を馬鹿にするような目で、見上げている。
「妃!!これだよ!!」
しかし、そんなリュウの言葉は、天音の耳には全く入っていかない。今は、いつものリュウの憎まれ口に構っている場合じゃないのだ。
天音は興奮気味で、また大声をあげた。
「ハ??」
何に興奮しているのかわからない天音を、リュウの冷ややかな目が見つめる。
「おじさん!詳しく教えて!!その先は何て書いてあるの?」
天音は、またおじさんの元へ戻り、興奮気味におじさんに詰め寄った。
これはもしかしたら、もしかするかもしれない!
天音は、このチャンスを逃してなるものかと必死にくらいついた。
「え、えーと、、16歳以上の女性なら、他は問わない。」
おじさんは、天音の気迫に押されながらも、御触書のその先を教えてくれた。
しかし、なぜ天音がこんなに興奮気味に迫ってくるのか、おじさんには全く検討もつかない。
そんな困惑顔のおじさんの横で、天音は満足気な笑みを浮かべていた。
…この条件はクリア。16歳以上なら誰でもいいなんて、余裕じゃん!
さらにおじさんは、その先の内容を読み進めた。
「しかし、妃候補生には、しばらくの間、城にて修行に励んでもらう。」
「え?」
おじさんのその言葉に、天音の表情が一気に固まった。
うまい話には裏があると言うが、妃になるには、城に行かなければならないという未知のミッションを課せられる事に、天音のさっきまでの余裕は、どこへやら。
一気にパニックに陥っていた。
「そして、最終的にその修行を終えた者の中から、妃は選ばれる。」
おじさんは、その御触書を最後まで読み終え、満足気に腰に手を当てた。
そう、これが天使教の妃募集の全容。
しかし、これだけの少ない情報では、天音も簡単に納得出来るわけもない。
「それって、どのくらいの期間城に行くの??」
天音が真っ先に疑問に思った事を、おじさんに投げかけた。なぜなら、先程の説明ではその事については、一切触れていない。
「んー、書いてないな。」
やはり、その答えは、御触書には書かれていないようだ。
今わかっている事は、妃になりたければ、しばらくの間村を離れて、城で暮らさなければいけないという事だ。
「…。」
天音は、何かを考え込むように、黙りこくった。
「あ、お金はかかるの?」
そしてまた、思い出したように天音が口を開いた。
そもそも城に滞在するのにお金がかかるのならば、無理な話。天音の家の財政状況に、そんな余裕があるわけもない。
「いや、いらないみたいだな。ああ、三食昼寝付きだって書いてあるよ。」
おじさんは、一番重要なその一文を、天音に伝え忘れていたようだ。
「マジ!?」
それを聞いた天音は、とたんに目を輝かせて、その御触書を見つめた。
とりあえず、条件はクリアしてる。 その上、お金がかからなくて、三食昼寝付きなんて絶好の待遇だ。
そう、この時、天音の心は完全に傾いていた。
やはりこれは、きっと神様がくれたチャンスに違いない!!
不安は一気に吹き飛び、そんな風に思い始めていた。
「妃を募集するなんて、そうとう女に困ってるんだなー。」
「まったくだ。ハハハ。」
しかし、そこに集まっていた村のみんなは、もちろん天音の気持ちなど知る由もなく、どこか他人事のように笑っていた。
天使教が住む城があるのは、この国の中心にある城下町。
もちろん、城はこの村からは、かなり離れた所にある。おそらく、この村の者は誰一人、城には行ったことがないはずた。
そんな辺鄙な場所にあるこの村で、天使教の妃の募集などされたところで、誰が本気で妃になろうなんて、考えるだろうか。
みな、どこか別世界の次元の話。としか考えていない。
そう、まさかこの村から妃候補が出るなんて、誰が考えついただろう。
「てんし…何とかとか、よくわかんないけど、ま、私が行ってサクっと妃になって来るよ!!」
天音は、突然そこに集まったみんなの前で、当たり前のようにそんな一言を発した。
「へ…?」
その瞬間、辺りが静まり返り、一斉にみなが天音の方を見た。
「エーーー!!」
そして、村人の何人かが、驚きのあまり声を上げた。
「ま、待て天音ちゃん!!」
天音の一番近くにいた、リュウの父であるおじさんが、すかさず止めに入る。
「何?」
しかし、天音は、みんながなぜそんなに驚いているのか、おじさんが必死に止めに入っているのか、全く理解していない。
妃になりに行くのなんて、ちょっと隣町までおつかいに行ってくる。くらいの軽い気持ちでしか考えていないのだ。
それは、村育ちで無知な天音には、仕方がない事なのかもしれない…。しかし、それが逆に、怖い物知らずというか、武器になる場合もある。
「いや、君はこの村で育って…。」
常識を持った大人のおじさんは、天音のような村育ちの子には、妃になる事など到底無理だと考えている。普通の大人なら、そう考えるのが当たり前だ。
「そうだよ。」
しかし、無知な天音には、その無謀さが、全くと言っていいほど伝わっていない。
そんな、天音の無垢な瞳が、キョトンとしながら、おじさんを見つめていた。
「何寝ぼけた事言ってんだ?こんな頭悪い、ちんちくりんな村女には無理だって!」
するとリュウは、憎たらしく、そしてストレートに「無理」だという事を天音に伝えにかかってきた。
子供だけれども、何故か天音よりも常識があり、大人びたリュウには、大人達の考えは一目瞭然だ。
そんな彼は、大人達の考えている事を、ちゃっかり代弁してくれた。
「リュウーー!」
天音は眉間にしわを寄せ、天敵リュウを睨み付ける。
「こんなうるさい女すぐ嫌われるって。」
「何言ってるの!やってみないうちから、どうして無理だって言うのよ!!」
その言葉は、天音の口から自然と出たものだった。
そしてそれは、天音の心がもう決まっている事を表していた。
「だって、誰でもオッケーなんでしょ?それに私が妃に選ばれれば、この村だってもーっと豊かになるんだよ!」
そこにいる村人達は、天音が妃になるなんて、リュウが言うように、これっぽっちも考えなかった。
しかし、天音はどこまでも本気で、得意げに胸を張っている。
「た、確かに身分は問わないってなってるよな。。」
天音の言葉に、周りにいた村のみんなが、ザワつき始める。
確かに、これといった条件もないし、こんな小さな村の者はダメ。なんて一言も書いていない。
村人達は、天音に感化され始め、もしかしたらという希望が少しずつ生まれ始めていた。
天音が言うように、もし彼女が妃になったりしたら、この貧しい村も変わるかもしれない…。 そんな希望すら…。
「いやでも、この村で育った天音ちゃんが…。」
しかし、やっぱりそんなのは夢物語。
こんな村育ちの普通の少女が、この国を治める皇帝の妃になるなんて…。
常識ある者なら、やっぱり無理だと考えるのが普通だ。
「ちょっと、みんな!私だって、ほら化粧とかすれば…。」
しかし、彼女は決して諦めようとはしなかった。
何故だろう…。そんなにも必死になって、みんなに認めさせたかったのは…。
「天音。確かにお前には、たくさんの魅力がある。」
その騒ぎの中、一人の冷静な老人の声が、天音の耳に届いた。
「村長さん?」
この騒ぎを聞きつけたのか、そこに現れたのは、この村の村長だった。
「天音。話は聞いておったが、まさか、じいさんを一人この村に置いて行くのかい?」
流石は村長。冷静にその問題点を、天音に指摘した。
そう、妃になるのならば、しばらく城に住まなければならない。つまり、昨日腰を悪くしたばかりのじいちゃんを、一人この村に残して行かなければならないわけだ。
「…。」
痛いところを突かれた。
それが天音の、今の正直な気持ちだ。
それは唯一、天音もひっかかっていた問題…。
やはり、体調面が不安なじいちゃんを一人置いて行く事は、天音も心配でならない。
「私もあいつとは同い年だ。」
村長が寂しげにポツリとつぶやいた。
村長とじいちゃんは、同い年で、古くからの友人らしい。
やはり、村長もじいちゃんの事は、気がかりでならないのだろう。
「そこをよく考えるんだ。」
村長が少し厳しい口調で、天音に語りかける。
「はい…。」
天音は村長の言葉に、素直に頷いた。
やはりこの事は、軽はずみな気持ちで決める事ではない。よく考えて決めなければいけない。
天音は、村長の一言でそう思い直し、考えなしに妃になると言ってしまった事を反省した。
「それに…。」
そんな考え込むように下を向いた天音に、村長が再び語りかけた。
「え?」
天音は村長に声をかけられ、少し顔を上げた。
そして、きっとまた大事な事を言われるじゃないかと、少し身構えながら…。
「こうやって募集するくらいだ。そうとうのブサイクかもしれんぞ?」
……。
村長は、みなが唖然とする言葉を口にし、またもやその場に、沈黙が訪れた。
…それは、冗談のつもりだよね…?
きっと天音が深刻な顔で考え込んでいたから、そんな事を言ったんだろう。
いや、きっとそうに違いない!
天音や、そこにいる村人達は、無理矢理そう自分に言い聞かせ、苦笑いを浮かべるしかない。
「ほっほっほ。とにかくよく考えなさい。」
そしてまた、村長が柔らかく笑った。
「ははは。」
そして天音も、少しひきつった笑みを浮かべていた。
※
「ただいま!」
村長さんに言われた事を考えながら、天音は家路に着いた。
手には、いつものヤンおばさんの牛乳を抱え、天音は家の扉を開けた。
「おかえり。」
そして、いつものように、じいちゃんが優しく笑いかけて迎えてくれた。じいちゃんは、やっぱりベッドにはいなくて、起き上がってお昼ご飯を作っていたようだ。
「…。」
そんなじいちゃんを見つめ、天音はまた考え込んだ。
さっきの事をじいちゃんに言うべきか、それとも言わずに何もなかった事にしてしまおうか…。
天音の頭の中では、そんな考えが行ったり来たりを繰り返している。
「どうかしたか?」
そんな深刻な天音の様子に、じいちゃんはすぐに気がつき、天音に問いかけた。
そして、天音は意を決して、じいちゃんに尋ねてみる事にした。
「じいちゃんは、この畑いつまで続けるの?そろそろ楽したくないの?」
天音はじいちゃんから、これからの事について本音を聞き出そうとした。
じいちゃんが望んでいる事は一体何なのか…。
そんな改まった話をした事など、今まで一度もない。天音は、今まで当たり前のように、じいちゃんに育ててもらってきていただけだ。
しかし、天音ももう17歳。これからは、ただ何かしてもらうだけでなく、じいちゃんのために、何かをしたいと考え始めていた。
「わしが死んだら、この土地は売っとくれ。」
「え…?」
じいちゃんからは、思いがけない言葉が返ってきて、天音は大きく目を見開いた。
それは天音の予期したものとは、全く違った答えだった…。
「すまんの。本当は村の外に出て、もっとお前にも遊んでもらいたいんだが…。」
じいちゃんが申し訳なさそうに目を伏せた。
…どうして……?
じいちゃんから、そんな謝罪の言葉が出てくるなんて、天音は思いもよらなかった。
そして、初めて見たじいちゃんの表情に、天音は戸惑いを隠せない。
「何言ってるの?そうじゃないよ。じいちゃんの体の事が心配でね。」
何だか話が噛み合わない。
ただ、これからの事を話したかっただけなのに。
じいちゃんに、こんな言葉を言わせたかったわけじゃないのに…。
天音は、やはり戸惑いの眼差しで、じいちゃんを見つめた。
「いいんじゃ。お前ももう17じゃ。いつでもこの村を出て…。」
いつから、じいちゃんはそんな事考えていたの?こんなんじゃダメだ。このままじゃ、ダメなんだ。
その時、天音の中から、戸惑い、不安その他の悶々とする気持ちがスルッと抜け落ちた。
「もう怒った !!」
そして、天音が突然机を叩いて、大声を上げた。
「は?」
突然そんな大声を出した天音に、じいちゃんは目を丸くして、ポカンと天音を見つめた。
「わかった!私出てくよ!!」
「そうか…。」
そんな天音の気迫に押されたのか、じいちゃんは、天音の決断になんともあっさり頷いてみせた。
「ちょっと来て!!」
そう言うと天音は、昨日じいちゃんが転倒した事も忘れ、強引にじいちゃんの腕を引っ張り、外へと連れ出した。
☆
「一体どうしたんじゃ?」
天音は、じいちゃんをさっきの御触書の前へと連れて来ていた。
「これ見て!」
そう言って天音は御触書を指さした。
じいちゃんは天音と違って、スラスラと御触書を読み始めた。
じいちゃんは、ちゃんと難しい文字も読めるのを天音は知っていた。なぜなら、いつも家でも難しい本を読んでいたからだ。
「天師教様の妃候補??」
じいちゃんは、その御触書を読み終えて、その内容に眉をひそめた。
なぜ、天音がこんなお触書の前に連れてきたのか…。
じいちゃん、まだ真意を理解していない。
「私この妃になる!!」
「ハ??」
そして、まさかの思いがけない一言に、じいちゃんは言葉が出ず、口をあんぐり開けたまま、固まった。
「私、妃になるーーー!!」
天音は気がついた時には、その決意を大声で叫んでいた。
まるで自分を奮い立たせるように…。
そう、この決断は必然…。
どうしてこんなに、急に決めてしまったのだろう…。
半ば強引に…。
でも、これが私の… 運命だったのかな…?
そして、それは村を挙げての大騒ぎになった。
そう。これはこの村始まって以来の大事件。
*******
それから数日後
「やった!!新しい服作ってもらえるの??」
「もちろんよ。」
天音の決心から数日後、服の仕立て屋のおばさんが、「せっかく城に行くのだから。」と無料で天音に、新しい服を作ってくれると、申し出てくれた。
本当にこの村の人達は、みんな優しくて、まるで家族のようだ。
天音はつくづくその事を感じていた。
始めは、まさか天音が…と思っていた村人達だったが、今では天音が妃候補となる事を、村のみんなが応援してくれている。
「どんなのがいいかね?なんたってお城に行くんだからね。」
仕立て屋のおばさんも、どんな服にしようかと、ワクワクしながら考えてくれていた。
「あのね…おばさん。」
しかし、天音の心の中では、どんな服にするのかは、もう決まっていた。
☆
仕立て屋のおばさんのお店を後にし、外を歩いていると、天音は村長さんに会った。
「本当に行くのかい?」
もちろん村長の耳にも、その噂は届いていた。やはり村長は、あの日と同じように、じいちゃんを置いてこの村を出る事は、反対なのだろうか?
「あったぼーよ!!」
天音は自信満々に笑って、そう答えた。
天音には、もう迷っている暇なんてない。行くと決めたからには、もう後戻りはできないのだ。
「ホッホッホ。」
天音の言葉を聞いた村長は、いつもの優しい笑顔で天音に笑いかけた。
その笑顔は、天音の決心に賛成してくれている。
天音はそう思う事にした。
「待ってて、今にお妃様になって、この村に帰ってくるから!!」
そう、それが天音の決めた進むべき道なのだから。
*******
「ただいまー!」
天音は元気よく、いつもと変わらない自分の家に帰って来た。
「おかえり。」
そして、じいちゃんは、今日もいつものように天音に笑いかけ、迎えてくれた。
じいちゃんの腰もだいぶよくなって、前と同じように動けるまでに回復していた。
「明日までに、急いで服作ってくれるって!!」
天音はうれしそうに、じいちゃんにその事を報告をした。
「そうかい。」
じいちゃんは、やっぱり優しく微笑んで、天音の話に耳を傾ける。
「ま、妃になったら、いっくらでもお返しするけどね!」
天音はどこからやってくるのやら、自信満々にそう言った。
「で、いつ発つんだい?」
「明日。」
「そうかい。」
思い立ったら吉日。天音は、この村を発つ日を明日と決めていた。そして、それをあっさりとじいちゃんに告げた。
妃候補募集には、期限がある。この村から城に行くには、下手すると数日かかってしまうため、一刻も早く発たなければならない。
しかし、明日とはまた、唐突すぎる。普通ならそう考えるが、じいちゃんもまた、驚く事もなく、表情ひとつ変えずに頷いた。
※
———— そして天音がこの村を発つ日を迎えた
「ヤンおばさん!」
「おや、天音ちゃんかい?」
その日の午前、突然現れた天音に、ヤンおばさんは少し驚いた表情を見せた。
「今日もおばさん自慢の牛乳お願い!」
天音は出発の日の今日も、いつもと同じように、ヤンおばさんのお店に牛乳を買いに来た。
おばさんの驚いた顔を見たところ、そんな大事な日に天音が現れるなんて、微塵も思ってもいなかったようだ。
「…いつもありがとうね。」
そして、ヤンおばさんはしんみりした声でそう言って、少し寂しそうに笑った。
「明日からは、じいちゃんの分の牛乳は、リュウが買いに来るから。」
天音はいつもの笑顔で、その事をヤンおばさんに伝えた。
天音はリュウに、じいちゃんの所へ牛乳を届けるようにお願いしていた。
最初はブーブー文句を言っていたリュウだったが、天音のお願いを断る理由はどこにもなかった。
そう、天音は明日からはここにはいない…。
「寂しくなるねー。」
いつもは元気いっぱいのおばさんも、やはり天音がいなくなるのは寂しく、シュンとしてしまっている。
「何言ってるの!!すぐ帰ってくるって。」
しかし天音は、そんなしんみりとした空気を吹き飛ばすかのように、元気に答えてみせた。
ここを離れるのは、ほんの少しの間だけ。
修行が終ってここへ帰ってきて、またみんなと暮らせばいい。天音はこの時は本気でそう思っていた。
ただ、おばさんの元気のない姿を見ていしまうと、やはり胸が熱くなる。
「…そうだね。」
そう言って、ヤンおばさんは、やっぱり寂しげに笑った。
*******
その頃、村長とじいちゃんは、この村が見渡せる丘の上にいた。
「今日だって?」
天音が今日発つ事は、もちろん村長の耳にも入っていた。
「ああ。まったく急だ」
今までは気丈に振る舞って、弱音も寂し気な顔も誰にも見せなかった。
そんなじいちゃんも、この時ばかりは、寂し気な瞳を村長に見せた。
「ホッホッホ。天音らしい」
しかし、村長はいつもと同じように柔らかく笑った。まるでじいちゃんを慰めるように。
「もう17歳か…。」
「早いもんだ」
そして、じいちゃんはその寂しげな瞳で、この小さな村を見つめた。
「いいのか?」
「何がじゃ??」
村長が最後にじいちゃんに問う。
それは親友への最後の警告だ。
しかし、じいちゃんは何の事やらと、とぼけたように首を傾げながら村長を見た。
そう、それが彼の答えだった。
「そうか…」
じいちゃんとは長い付き合いの村長は、じいちゃんの気持ちを察して、静かに頷いた。
「あの子が選んだ道じゃ…。」
じいちゃんは遠くを見つめ、ポツリとつぶやいた。
そして、その丘に漂う優しい風が、二人の頬をなでた。
————それが何かの糸によって、たぐり寄せられた道でも…?
*******
ついに天音が旅立つ時、時刻は夕刻。
天音は、この日もいつものように、何だかんだ家の仕事をこなしているうちに、いつの間にかこんな時間になってしまった。
村の入り口には、村人達全員が、天音の見送りに集まっていた。
「さ、主役の登場だー!!」
満を持して、リュウのお父さんが、みんなの前に天音を招き入れた。
「おっまたせー!!」
そこへ天音がいつものように、元気よく登場した。
「なんだよ。いつもと同じ服じゃん。」
しかし、そこに現れた天音はいつもとなんら変わりのない姿。その姿を見て、リュウがいつものようにチャチャを入れるが、明らかに寂しげでトーンの下がった声までは、隠せなかった。
「うん!」
天音が新しく作ってもらった服は、まったく飾り気のない、いつもと同じただの白い布で作ったワンピースだった。
天音は贅沢という言葉を知らない。持っているのは、白のワンピースと、畑仕事をするつなぎだけ。
天音は、このワンピースが、一番自分らしくいられる事をわかっていた。 だから、いつもと同じこの服を、仕立て屋のおばさんにお願いをしていたのだ。
「ホッホッホ。天音らしいの。」
「その服が一番似合っておる。」
天音の意図をちゃんとわかっている、じいちゃんと村長がそう言って、褒めてくれた。
天音はその二人の言葉を聞き、満足気に笑って見せた。
「もう夕暮れだよ。」
「本当に大丈夫か?一人で?」
村のみんなが天音を心配をして、声をかけてくれる。
無理もない。始めて一人で村から出る女の子が、こんな時間から出発するなんて、誰だって心配する。
「大丈夫だって!!」
しかし、天音は、みんなの心配をよそに、いつもと変わらず、元気いっぱいの笑顔でそう答えた。
この国の主な移動手段は馬車か馬。そのため、村の人が長距離用の馬車を手配をしてくれたため、近くの大きな町までは、夜通しそれに乗って行けばよいだけ。
「天音」
そんな時、じいちゃんが、落ち着いた声で天音を呼んだ。
「何?」
「あれは持っているか??」
「え…?」
天音は、じいちゃんが何の事を言っているのかわからず、キョトンとした顔を見せている。
「十字架…。」
じいちゃんは、たった一言、そう伝えた。
その言葉だけで、天音が全てを理解すると知っていたから。
「じいちゃん…。」
もちろん天音は、じいちゃんの言いたい事を、その言葉だけで瞬時に理解していた。
その十字架とは、天音がこの村の入り口に捨てられていた時、手に握っていたという、片方しかない十字架のピアスの事だ。
天音が幼い頃、じいちゃんから、お守りとして持っておくように渡されたものだった。
もちろんこの日も、お守りとしてそれをポケットに忍ばせていた。
「お前のお守りじゃろ?」
じいちゃんは、じっと天音の目を見て、訴えかける。
そして天音は、そのじいちゃんの眼差しに何かを感じ、ポケットからピアスを取り出した。
ブスッ
「いったーーー!」
リュウがその光景を目にして、思わず大声で叫んだ。
天音は、そのピアスを穴の開いていない耳にぶっ刺したのだ。
それはまるで今の決意を、みんなに示すかのように…。
「へへ。」
天音の耳は次第にジンジンと痛み始める。しかし、天音は痛みを表情に出す事はなく、満足気な笑みを浮かべた。
むしろこの痛みは、今の心の痛みを消し去るには、丁度いい位…。
「がんばってくるんだよ。」
最後に村長が、天音に優しく声をかけてくれた。
「うん…。」
そして天音は、村の入り口の方を向き、歩き出した。
みんなに背をむけて…。
しかし…
「私…。」
天音はすぐに足を止め、震える声を絞り出した。
泣かないつもりだった…。だって、すぐ帰ってくるんだから。
しかし、天音の目からは涙が一粒、また一粒と、とめどなく流れ落ちる。
そして、それを止める術など、彼女にはわからない。
なぜ、村を出る事がこんなに悲しいのか…?
それは、自分がよく分かっている。
やはり、強がっていても、不安は拭えなかった。
今まで一度も村を出た事のない少女が、一人、誰も知っている人がいない地に旅立つ事に、不安を感じないはずはない。
「———見ておる。」
その時、じいちゃんが、そっと天音の背中に語りかけた。
じいちゃんには、全てお見通し。
長年、天音と暮らしていたじいちゃんには、そんな天音の気持ちは手に取るようにわかるのだ。
「泣くな夕日が見ておる。」
凛としたじいちゃんの低い声が、天音の背中へと投げかけられた。
その声は、いつもの優しいじいちゃんからは、想像出来ない位の厳しい声。
じいちゃんは、優しい慰めの言葉を言う事は、決してしなかった。もし、そんな言葉をここで言ってしまえば、天音が振り向き、こちらへ戻って来てしまう。
じいちゃんは、決してそれをさせたくなかった。
まるでそれは、喝を入れるために、じいちゃんに背中を叩かれたようだ。
そんな錯覚に陥った天音は、涙を拭き、顔を上げた。
その瞬間、まぶしいほどの夕日の光が、天音の目に飛び込んできた。
「私…。この村が大好きだよ!!」
天音は後ろを振り向かず、村の外へと向かって、大声で叫んだ。
「すぐ帰ってくるね!いってきまーす!!」
そして天音は、村の外へと、勢いよく走り出した。
どこか寂しいこの気持ちを、振り切るかのように…。
「いいのか?」
その背中を見送りながら、村長がそっとじいちゃんに、語りかけた。
しかし、じいちゃんは真っ直ぐ前を見て、口をつぐんだまま。
「今なら…」
村長は、後髪引かれるその気持ちを、思わず言葉にした。
本当にこれでいいのか?
今ならまだ間に合う…。
「天音が決めた道じゃ。」
しかし、その村長の気持ちを断ち切るように、じいちゃんがそっとつぶやいた。
じいちゃんだって、運命に抗えるのなら、抗いたい。しかし、それはじいちゃんには出来なかった。
だってこれは、天音が決めた事。天音が自ら選んだ道なのだから…。
そして、村長もまた、その言葉の重みを理解し、前を見据えた。
「あの子は、あの十字架をつけた。」
「…そうだな。」
村長は、じいちゃんの言葉に、どこか悲しげに微笑みながら頷いた。
「見ておる…。夕日が…。」
そう言って、じいちゃんは真っ赤に燃える夕日を見つめた。
そして、そんな彼の顔を夕日は照らし続けた。
「いい日だったのぅ…。」
小さくつぶやいたじいちゃんの言葉は、真っ赤な空に吸い込まれるように、消えていった。