後編
空調の効いた部屋に招かれて、ごはんを出された時にはちょっと泣いた。コンビニの軽食だったけど、今の私には心底しみる。
次々と見知らぬ場所に放り出されて、自覚のないまま疲弊してしまっていたのだと思う。この状況を誰かに解って欲しかった。話を聞いて欲しかった。
それにどうせ、私はすでに不審者過ぎる。飛ばして行こう。
生まれも育ちも西日本。関東の地理など微塵も知らぬ。そんな訴えを交えつつ、全てを話した。
男は難しげな顔で腕を組み、ホワイトボードを睨んでいる。ボードには、黒マジックで私の話を箇条書きにしてあるだけだ。
信じた訳でもなさそうなのに、えらく熱心に考え込んでいるらしい。物好きな人だ。
考える時の癖なのか、男は手に持ったままのマジックで自分の脇腹をぺしぺしと叩く。
冷たいおにぎりにかじり付きながら眺めていると、作業服を着た部下っぽい人が熱いお茶を出してくれた。
私の首からぶら下がるショーグンを奇妙な目で見ていたが、私の持ち物はもうこれだけだ。中にはポップコーンしかつまってなくても、手放す気にはなれなかった。
「条件付けがあるんじゃないか?」
もてあそんでいたマジックを止め、思い付いた様に男が言った。食べるのに忙しい私に代わって、作業服の人が上司にこたえる。ちょっとめんどくさそうに。
「条件ですか」
「この場合、仮定できる条件は自分の手で扉を開く事だな。事務所に入るのもこの部屋に入るのも、お前が戸を開けただろ。自動ドアが通れたんなら、一応の理屈は通る」
おもしろいけどなあ。部下と会話する間に、男は独り言の様に呟いた。
「これが本当で行き先を制御できれば、火星にだって一瞬で物資運搬できるぞ」
「これが本当で、制御できればですよね」
あんた何言ってんの? 部下の人の表情が、そう言っていた。
「そうだな。仮説の次は検証だ。通報はそれからにしよう」
あんた何言ってんの? と、私だって言いたかった。
でも、黙っておいた。通報も困る。
「室長……いくら暇だからって……。本気ですか」
「ドアを開けさせるだけだ。すぐ済む」
部下の人はもの凄く嫌そうなのに、室長と呼ばれたスーツの男はそんなの全く気にしていない。作業服の上着から、部下のスマホを取り上げた。
「携帯を貸してやろう。GPSも付いてるからな。安心だぞ」
こちらを振り向き、男はスマホを押し付けてくる。その姿に、色々と言いたいことがあった。でも、飲み込んでおいた。通報は困る。
コンビニのおにぎりと湯のみの載った机。壁際のホワイトボードには、常軌を逸した私の供述が箇条書きにしてあった。
スーツの男は自分と私を室内に残し、部下を部屋の外で待機させた。
検証を始めるらしい。男が、閉じた扉の前に私を立たせる。
スチール製の、オフィスや学校などでよく見るドアだ。レバータイプの取手の近くに、縦長い曇りガラスの窓がある。
スーツを着た男の顔は、完全にわくわくしていた。突然現れた不審者で遊ぶほどだ。よっぽど暇を持て余していたのだろう。
だが当然、遊ばれる身としてはおもしろくなかった。どれだけ恐いと思うんだ。一体どこへ飛ばされるのか、予想もできない。ただ、扉を開くだけでだ。恐くない訳がない。
不安で、悲しくて、腹が立った。
「おい」
戸惑う声は、男のものだ。
私は強引に、男の手をつかんでいた。そしてそのまま、勢い任せに扉を開けた。
衝動的にやった。後悔はしてないが、反省はしている。だって、私が思う様にはならなかった。考えが甘かった。
一緒にどこかへ飛ばされたら、ちょっとはびっくりするだろう。そう思ったのに。気付けば男の姿はなくて、扉から転がり出たのは私ひとりだけだった。
勢い余って転んだままに、床に這いつくばって自分の手を見る。
強くにぎったはずだった。振り払われたふうでもないのに、ある瞬間につかんだ手の感触が消えた。消えた、と言うほかにない感覚だった。
異常だ。知ってたけど。異常過ぎる。
やばい。恐い。泣きたい。帰りたい。
いよいよ気弱になっているところへ、着信があった。ほとんど泣きながら音のする辺りを見回すと、床の上にショーグン型のケースが転がり、その近くに四角く光る物がある。
散乱したポップコーンにまみれながらに、借り物のスマホが着信画面に室長の二文字を表示していた。
『今どこだ!』
「知らないですよ……」
『あ、そうか。GPSだ』
おい、探せ。そんな声が聞こえたが、私に言ったのではないらしい。ノイズの様に騒がしい気配が、男の声より遠くでしている。
『凄いぞ! 本当に消えたぞ! なあ君、俺と一緒に火星へ行かないか!』
「いやあの、だからさ」
行き先がどこになるか、自分でも解んないっつってんじゃんよ。
そう言ってやりたかった。言うつもりだった。スマホを介して通話しながら、周囲を確かめなければ言えていた。
ほんとここ、どこだろう。
そんなふうに思いながら、きょろきょろと視線を動かした。そしてうっかり、ショーグンの姿を捉えてしまった。
ずっと首から下げていて、今は床に転がったプラスチックのケース。じゃなくて、本物の。いや本物かどうかは知らないけど、実物大の。中に誰か入ってそうな。生身っぽい。
あ、そうだ。今日、映画館にいた様な。
ぞわり、と。震える様な冷たさが全身を走った。
あ、嫌だ。見たくない。
ショーグンは仮面を付けている。のっぺりとした黒いそれを、外そうとするところだった。ほら、やっぱり。見なきゃよかった。
ショーグンには顔がなかった。顔と言うか、肉体がなかった。少なくとも、人間ではないだろう。私の感覚で言うとだが。
仮面の下に隠された、顔面のあるべき部分からぐじゅぐじゅに崩れたゼリーの様なものがあふれ出る。一瞬のちに、軍服に包まれた全身がぐしゃりと床に向かって押し潰された。
いや、違う。違った。
服の中からゼリーの塊が抜け出して、もの凄い速度で……こちらへ。
思わず私は、声にならない声で叫んだ。
『おい! どうした?』
さすがに異常を感じたらしい。にぎりしめたスマホから、焦った様な声が聞こえる。だけど、答える余裕がない。
背後にあったのは、自動ドアだったらしい。音もなく開いたそこから飛び出して、細長い通路をめちゃくちゃに走る。通路の先に扉があった。自動で開いた。
あああああ……!
自動ドア! 今だけは! 自動ドアぁ!
開いたドアを通り抜け、ちらりと後ろを確かめる。ゼリーはぐじゅぐじゅと速度を増して、あっと言う間に迫ってきていた。
と言うか、ほんと。もうこれ、嫌だ。
通路の床はつるりとした金属で、何度も滑りそうになる。床も天井も同じ素材で、妙に出っ張ったり引っ込んだりしている所が走りにくい。
まるで、これ。こう言うの。あれみたい。映画で見た宇宙船の通路みたい。
走りながら、ふと。そう思った。思ったら、考え付いた。
なんかこう。あれじゃない? もしかしてだけど。証拠とかないけど。今までの全部、こいつのせいなんじゃないの?
「ひっ!」
足にぬるりとした何かが触れて、引き倒される。冷たい床に肩や肘を打ち付けながら目をやれば、まとわり付くのは当然ゼリー状のあれだった。
ぬめった感触が気味悪い。それはまるで捕食するみたいに、じわじわと足を伝って這い上がる。捕まってしまった。
血の気の引く様な絶望感に、浅い息を繰り返す。逃れたい一心で無意識に伸ばした手の先が、浅く何かに引っかかった。
金属で覆われた、壁の足元。人の肩幅くらいしかない、正方形の板だ。通路ではないだろう。メンテナンス用の扉かも知れない。
それでも、扉だ。
考えている余裕はなかった。ぐいぐいと体を飲み込もうとする感覚に逆らい、必死で小さな扉に縋り付く。
解んないけど、とりあえずショーグンは許さない。一生だ。
そんなことを思いながら何とか開いた扉の中に、力を振り絞って飛び込んだ。
そこから先は、覚えていない。
「お客様?」
私は、誰かに揺り起こされた。
眠っていたのか。いつから? どこで。
座っている。椅子に? 薄暗い。周囲の空気が、人の気配でざわついている。
ここはどこ?
ふっと意識が浮上して、慌てて脱力していた体を起こす。手を着いた肘掛けに、ドリンクホルダーが付いていた。
これは、知ってる。映画館の座席だ。目を上げると、制服を着たスタッフが困り顔でこちらを見ている。
映画館。映画館だ。同じ椅子が無数に並んだ館内の、一番前にはスクリーンがあった。
……ああ、眠っていたのか。
深く深く、息を吐く。
嫌な夢だった。夢だと思えば大した事ではなかった気がする。だけど妙に孤独だった。恐ろしかった。
目が覚めた今も、まだ気分が引きずられている。鼓動が早い。どくどくと脈打つ感じが居心地悪く、首を押さえると冷えた汗が手の平を濡らした。
大丈夫、大丈夫。落ち着け。大丈夫。
「お客様、ご気分が優れませんか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとう。すぐ出ます」
連れが待っているかも知れない。バッグを探して、すぐに行こう。
そう思い立ち上がった足元で、スマホが光る。
床に落ちた四角い画面に、着信を告げて浮かび上がった相手の名前は――。
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